おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

87 不思議発見3・この壁絵は?(番外編)

2009-06-14 22:30:19 | つぶやき
 東北新幹線が赤羽駅近くを通過するとき、進行方向右手に壁面にグロテスクな絵が描かれた建物が見えます。いったい何だろう? 
 先日、現地に行ってみました。それがこの写真。日本製紙(元の王子製紙)への引き込み線の向こうに見えるではないか!
 この引き込み線、踏切が数カ所設置されていて、まだ現役の貨物線路のよう。でも、レールはもう赤錆びていて、最近、列車が通ったような形跡はありませんんでした。その線路が吸い込まれていく先にあったのです。よく見ると、森というか木が描かれています。なるほど「製紙会社」であることの証。わざわざ建物の外まで飛び出しています。それにしてもちょっとセンスを疑うような・・・。
 この日は、どんよりと曇って、少し雨も落ちてきている、そんな風情の中で、ますますおどろおどろしい感じがしました。この線路も、すでに廃線になっているのでしょうか。まだ日本製紙の構内には、枝分かれした線路が残っていました。
 写真の手前、この引き込み線の所から分かれて、北本通りに向かう道路があります。その行き先は、荒川べりの豊島5丁目団地。これは、陸軍豊島弾薬庫跡(豊島5丁目団地)に向かっていた陸軍の貨物線の跡。
 
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86 東京大空襲・墨田区緑3丁目、玉の肌石鹸工場

2009-06-13 20:20:25 | つぶやき
 墨田区緑3丁目にある石鹸工場。「TAMANOHADA」の縦書きが印象的です。その工場の南側の壁面。写真のように煉瓦造りです。よく見ると、燃えたような地肌がはっきりと分かります。この部分が約7,8㍍ほど残っていて、隣の建物と接しています。ぐるりと工場の周辺を歩いてみましたが、他にはこの煉瓦造りの建物はありませんでした。
 家に帰ってきて、昭和22年の航空写真(goo)を見ると、この辺り一面、満足な建物はありません。学校の校舎がぽつんぽつんと残っているだけ。ここは、「東京大空襲」でほとんど灰燼に帰した場所です。そんな中で、この建物らしきものが写っています。他の建物はまだ再建されていない様子です。
 すると、この赤茶けた壁面は、おそらくその空襲の痕ではないでしょうか? 地元の人々にはきっと知られていることなのでしょう。
 玉の肌石鹸は、1892(明治25)年、本所の地(現在の墨田区緑)に社名「芳誠舎」として誕生し、化粧石鹸の製造を開始して以来、創業115年以上に及ぶ、歴史と伝統を誇る石鹸の専業メーカーだそうです。
 会社のHPでは、「長い歴史の中で培われ続けてきた、優れた製造技術に高い評価をいただき、1960年代後半から高級石けんの受託生産を始め、世界的なブランド商品の製造も数多く手がけてきました。そして2003年からは、オリジナルブランド「TAMANOHADA」をスタートしました。」とあります。
 さらに、「2007年(平成19)年には、『ミツワ石鹸』の商標権をプロクター・アンド・ギャンブル(P&G)から取得。翌年4月1日付で、100%子会社のミツワ石鹸株式会社を設立・業務開始。33年ぶりに『ミツワ石鹸』の商品が復活した。」ともあります。
 「ワ、ワ、ワ。ワが三つ・・・」というCMで聞き覚えがあります。それを復活させたとのこと。また、「ミヨシ油脂」(ここの石鹸製品は、天然油脂で造っているとかつて聞いたことがあります。)とも提携?しているとか。
 こうして、大きな戦災の被害にも立ち直り、こうして地場産業として今も立派に活躍していることに下町の心意気を感じます。
 たとえ煉瓦の傷跡が戦災のものでなかったとしても、これから先も、保存してほしいものです。
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85 亀戸浅間神社・富士塚

2009-06-12 23:04:09 | 歴史・痕跡
 都内には「富士塚」がかなりあります。下町では、江東区や江戸川区に多くあります。意外にも、墨田区には残されていないようです。
 富士山信仰。それぞれの地域ごとに「富士講」をつくり、先達に引き連れられ、実際に富士山登山をすることもあります。 
 また、地域の神社の一角に、富士山を模して築山したものに登って、富士山信仰のよすがにします。出来る限り富士山にある溶岩や岩・石などを敷き詰めたり、置いたりします。
 また、砂走りや大沢崩れなどを模し、お中道巡り、1合目から頂上までを順路のようにつくります。それぞれの講ごとに「碑」を建てたりします。
 不思議と猿の親子の石像があるのも特徴です。富士山と猿との関係はどういうことなのでしょうか。現在の富士山には、野生の猿は生息していないはずですが。「庚申」信仰と関係があるのかもしれません。
 小さな山を築いてそれらを置くのですから、実に込み入っています。それはそれでおもしろく、風情があります。
 写真は、亀戸駅から東南、「浅間神社」のもの。元の場所から移転し、きれいな神社の裏手にあります。やはり、猿の石像がありました。
 かつてはほこらがあった頂上付近は、すでになくなっていて、小さな広場になって、記念碑がはめ込まれています。しかし、ここも頂上以外では、他と同じように富士塚としての体裁を整えています。
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84 葛飾青戸平和公園・野球場跡

2009-06-11 19:35:05 | つぶやき
 「六三制野球ばかりが強くなり」。戦後の小学校・中学校の教育を言い当てた戯れ言ですが、ぴったり当たっていました。子ども達の間では、野球が大流行。場所があって、道具があれば、・・・というけれど、学校がその一番のグランド。もう子ども達は、野球に夢中。
 何も他に遊びがない時代でした。まさに阿久悠さんの「瀬戸内少年野球団」(今は亡き夏目雅子さんが、とてもすばらしい演技をしていました。)そのもの。
 校庭が暗くなるまで野球をしていました。地域には、あちこちに野球場がありました。ただ広い広場にバックネットがあるだけのものでしたが。
 この青戸公園もそうした球場?の一つでした。今の青戸平和公園。いつだったかプロ野球の球団が練習に来たことがありました。少年心に何だかときめいて見に行ったことがあります。すごい早い球が行き交っていたなあ、という印象が今でもあります。どこの球団だったのでしょうか?
 国鉄の金町駅の近くにもありました。今の「イトーヨーカ堂」の辺りです。地面がコールタールで固められていたようで、いつも手足が黒ずんでしまったようです。他にも野球場がありました。いつしかそれらは消えてしまった!
 それでも、「平和公園」と名付けられたこの公園は、幸せであったのかもしれません。
 葛飾区が、「非核平和年宣言5周年」を記念し、青戸(森林)公園を改修して、「非核平和祈念塔」を建設し、噴水やせせらぎなどが作られました。塔の前には、広島・長崎の被爆遺品が置かれており、献花台には、つねに区内の小学校や中学校の生徒がつくった千羽鶴が吊されています。
 この公園は1945(昭和20)年に野球場として出来、1970(昭和45)年には森林公園として再整備されました。1986(昭和61)年に、現在の「青戸平和公園」という名称になったわけです。 
 写真は、噴水のところ。子ども達の遊ぶ声が響きます。
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82 葛西・旧海岸道路

2009-06-09 21:16:07 | 歴史・痕跡
 まもなく関東地方も梅雨入り。その前にちょっと遠出を。そこで、環七を南下して都立葛西南高校を右折、目的は、葛西海岸堤防道路。
 この堤防は、キティ台風の被害を受けて、水害(高潮被害)防止のために、1951(昭和26)年に着工、1957(昭和32)年に完成しました。延長4.4㌔、道路からの高さ4~5㍍、幅5.5㍍で、昭和38年の航空写真でも、はっきりと海岸沿いの道路として写っています。もちろん、堤防の南西側は、荒川放水路、東京湾です。
 その後、東京湾最北東部の埋め立て、干拓、宅地化もどんどん進み、1972(昭和47)年からは、堤防の外側の埋め立てが始まり、海岸水門以外は、3㌔分は撤去されを撤去しました。
 写真が、その「海岸水門」。左近川の河口にあったもので、かつては、ここから西が海でした。保存のために残してあるのでしょうか。赤いペンキも塗られ、しっかりした建築物です。
 道は、曲がりながら西に向かい、それから北上します。
 周囲は、「新左近川親水公園」。高速道路付近は、入り江風になっていて、水辺も広々として、木々に囲まれた、落ち着いた雰囲気の公園。
 そして、道路は「新長島川親水公園」へ。この道筋が「旧葛西海岸堤防道路」です。
 ここまで来ると、周囲は、学校や住宅地が広がっています。埋め立てをした際、海岸堤防を残して、ニュータウンが出来ました。
 西葛西駅の南には、江戸川球場があります。その西側の道路が、海岸道路の部分となります。1984(昭和59)年に完成。ここでは、夏の甲子園予選東東京大会、東京都東部の高校野球各種大会など、主としてアマチュア野球の試合に頻繁に利用されています。以前は、プロ野球のイースタン・リーグ公式戦(主にヤクルトスワローズ主催)も開催されていたそうです。23区内で都と区が管理する野球場で、硬式野球が可能な貴重な球場です。
 この辺りまでが、海岸堤防の面影を残す風景です。もうちょっと行くと、西側は荒川になります。
 〔余談〕旧江戸川河口の大三角州
 この近辺、もう少し東側。昭和22年の航空写真を眺めていると、東南の海上に不気味な地形が目に入りました。昭和38年のものでもそうですが、何か肝臓か心臓の血管が浮き出たような・・・。
 これが、旧江戸川(東京都と千葉県の境)の河口に広がる、大三角州。この規模は、日本最大級のすごさだったようです。現在、舞浜の「東京ディズニーランド」の北側付近に当たります。
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81 「民営機械製粉業発祥」の地

2009-06-08 20:33:24 | つぶやき
 小名木川に架かる新扇橋の南側の橋のたもとに、黒の御影石で作られた「民営機械製粉業発祥の地」という碑が建っています。
 製粉工場は、この記念碑の西側一帯にありましたが、現在は団地になっています。2001(平成13)年に江東区の史跡に指定され, 日本製粉(株)によって 記念碑が建てられました。

「民営機械製粉業発祥の地」(碑文)
 明治12(1879)年、 明治を代表する実業家雨宮敬次郎は、水運の便のよい小名木川に着目して、この地にそれまでの水車動力に代わる蒸気機関を動力源とした、民営では最初の近代機械製粉所「泰晴社(たいせいしゃ)」を創設しました。
 欧米を視察して製粉事業の将来性を確信した雨宮は、蒸気機関のほか石臼製粉器、篩器(ふるいき)などの製粉装置を米国から輸入して製粉事業の経営に成功をおさめました。
 雨宮の製粉事業は東京製粉合資会社に受け継がれ、明治29年に日本製粉株式会社に改組されました。また、小名木川沿岸には明治30年台に製粉会社が次々と設立され、全国でも屈指の小麦粉生産高を誇るようになりました。こうして泰晴社は、小名木川沿岸にさまざまな近代的工場が進出してくるさきがけともなったのです。
 なお、明治初期の機械製粉所には、開拓使により札幌に設立された磨粉機械所(明治9年)、大蔵省による浅草蔵前の製粉所(同12年) の二つがありましたが、 これらの官営製粉所はともに日本製粉株式会社がその事業を継承しました。
                           江東区

 今でも操業している製粉会社が、この場所の近くにあります。写真にある「東京製粉株式会社」です。小名木川を利用しての船舶での輸送はありませんが、大型トラックが出入りする大きな工場です。この地での長い伝統を誇る、地場産業を受け継いで、頑張っているようすでした。 
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80 下町不思議発見2・物見台?(番外編)

2009-06-07 20:25:26 | つぶやき
 昭和22年の航空写真(goo版)。戦災の跡がまだまだ色濃く残っています。特に下町は壊滅的で、まだまだ復興にはほど遠い風景です。
 中でも、曳舟~亀戸間の東武線沿線。この亀戸線は、駅舎もほとんど焼失していますが、奇跡的にも線路の北側はほとんど空襲の被害がない地域があります。線路が延焼を防いだとも言えるのでしょうか。
 十間橋通りと東武線が交差する地点から少し西に入った辺り。被害に遭わなかった密集した家々の間に、工場の跡地のような空間が残っています。それが、昭和38年になると、整地されて空き地のようになっています。
 そこを現在の航空写真で見ると、渦巻き状になった物見台のような工作物を発見します。
 いったい何だろう、さっそく出かけてみました。それが、この写真です。高い滑り台。それも四方に滑ることが出来る! ちょっと今までも見たことがない構造をしています。さらに、周りは原色系のペンキが塗られていますが、もう剥げかかっています。
 子ども達が何人か遊んでいます。けっこう見上げるほどの高さ。母親が心配そうに声をかけています。こちらも登って見ようと思いましたが、ちょっと場違いな感じなのであきらめました。ちょっと残念!右に見えるマンションの高さと比べてもゆうに3階以上はある感じです。
 古い家並みが立ち並んでいる中の小さな公園に、こういうユニークな遊び場があるとは思いませんでした。
 ちょっとこの辺りを歩くと、狭い道路をはさんで、少し商店が並んでいました。近くを通る亀戸線の中間駅があったような、さびれた(失礼ですが)駅前通り商店街といったような・・・、実にひなびた商店街でした。線路には、この駅の跡は発見できませんでしたが、何となく線路脇が一部広がっている感じ。昭和22年の航空写真でも、駅があるような、ないような・・・。
 それにしても、バスなども通る広い道からちょっと裏通りに入るとたん、木造家屋に囲まれて、しみじみとした下町人情が感じられそうな街並みでした。いずれ再開発されそうな・・・。
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79 扇橋閘門(こうもん)・小名木川

2009-06-06 19:50:36 | つぶやき
 東京下町には、二箇所、日本版「パナマ運河」があります。その一つが写真の「扇橋閘門」。竣工:1976(昭和51)年度。

 「閘門」とは、水面の高さが違う2つの川のあいだを船が通行出来るようにするための施設。川と川のあいだに前後二箇所に水門をつくって、水位を調節し、水面の高さを同じにして船を通す方法で、まさにパナマ運河と同じ。
 江東区の内部水域は、地盤沈下の影響から水位を隅田川の平均潮位に比べ、マイナス1M下げて常に一定にしています。そのため、満潮時の水位差は、3メートル以上。この水位差を調整しながら船を航行させる施設が、扇橋閘門だったのです。
 ここも、かつては水上バスなども運行され、船の行き来も盛んな時期もあったようですが、現在は、船の往来もなく、前の扉は閉鎖したまま、後ろの扉は開放されたままです。流れもないまま、淀んだ水が・・・。
 台風等の大きな水害が来たときに、水位が上昇するのを防ぐために閉じるという使い方をしているようです。たしかにこの地域は、長年、水害に悩まされた地域でした。でも、せっかくの小名木川の流れが、もったいない感じがします。
 一方の「荒川ロックゲート」は、荒川と旧中川の水面の高さが最大3.1㍍も違うため水位を調節し、水面をどちらかの高さと同じにしてから船を通す構造で、震災時の救援物資輸送にも期待されている。
 前と後のゲートの間65㍍、幅は14㍍。最大長55㍍、最大幅12㍍、最大高4.5㍍以内の大きさの船であれば、ここを通過可能だそうです。
 また、震災時の支援活動が速やかにできるよう、閘門としては初めて阪神・淡路大震災クラスの地震でも閘門・ゲートが耐えられるように設計されていて、非常時には速やかな船の通行が可能となっているとのこと。そして、閘門内をいち早く船舶が通過出来るようゲートの開閉速度も10m/minと日本最速の設計がなされているとのことです。2005(平成17)年に完成。
 こうして見ると、小名木川にある「扇橋閘門」ももっと有効活用して、船舶の航行にも役立て、流れに船が行き来する風景を再び見たいものですが・・・。
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78 汽車会社平岡(錦糸町)工場跡

2009-06-05 21:53:17 | 歴史・痕跡
 先月末、両国駅にほど近い、墨田区立緑図書館で興味深い資料展示があった。墨田区の交通機関の変遷のうち、機関車、電車(市電)の製造会社であった「汽車会社平岡工場」に関する展示であった。その一部を資料等で紹介する。
 なお、汽車製造株式会社は、川崎重工業への吸収合併によって、今は存在していない。
 日本の鉄道車両は、1872(明治5)年、新橋・横浜間の鉄道の開業以来、一貫して輸入で賄われてきた。客車・貨車はその後国内製造が開始されたが、当時は民間の重工業が未熟であったため、これら客貨車の製造は各鉄道事業者が自営工場で行っていた。
 工部省鉄道局新橋工場の技師であった平岡凞は、そのような状況を打開して車両のさらなる国産化を推進するには民間に鉄道車両工業を興すべきと考え、1890(明治23)年、鉄道局を辞して、東京市小石川区の陸軍東京砲兵工廠の敷地・設備を借用し、渋沢栄一や益田孝らと匿名組合平岡工場を設立した。これが、民間客貨車工場の最初であった(ただし、個人経営の会社)。
 平岡は1871(明治4)年に渡米、ボストンやフィラデルフィアの鉄道車両工場で当時最新の鉄道車両技術を学んで帰国後、伊藤博文の紹介で鉄道局新橋工場に奉職していた。
 1895(明治28)年には京都電気鉄道へ28人乗り路面電車車両の車体を納入した。これは日本初の営業運転に供された電車であり、後に京都電気鉄道が市営化されて京都市電になった後「N電」と呼ばれた、狭軌線用車両群の第1陣に当たるものであった。
 その後、1896(明治29)年、「汽車製造合資会社」を創立して、それまでの砲兵工廠の借地を返納し、翌4月より本所区の総武鉄道本所駅(現・JR総武本線錦糸町駅)の隣接地に「平岡工場」を建設した。1901(明治34)年、第1号の機関車完成。さらに、電車の製作も開始する(大阪市電)。
 この頃、錦糸町駅南口には牧場があり、その経営者でアララギ派の歌人、伊藤左千夫がその牛乳を平岡工場に配達していたという。

年表 (「汽車会社70年の歩み」による)
1890年(明治23年)3月28日 - 東京市小石川区に匿名組合平岡工場が開業。
1894年(明治27年)10月31日 - 匿名組合解散。以後、平岡凞の個人経営に移行。
1896年(明治29年)3月31日 - 小石川の工場を陸軍省に返納。
1896年(明治29年)4月1日 - 東京市本所区に平岡凞の自有工場を開設、操業開始。
1901年(明治34年)7月 - 汽車製造合資会社(汽車会社)、平岡凞より平岡工場を譲受。汽車製造東京支店となる。
1928年(昭和3年)- 南砂町に工場を建設開始。
1931年(昭和6年) - 汽車会社東京支店は東京府南葛飾郡砂町に移転。旧平岡工場をすべて南砂町に移転完了し、工場は閉鎖。
 
 閉鎖後は、「江東楽天地」がその跡地を買収し、江東劇場、本所映画館を開場。現在は、「東京楽天地」と改称し、「LIVIN」や映画館、天然温泉、フットサルコートなどのある娯楽施設になっている。
 写真は、現在のようす。左手、錦糸町駅をはさんで見える工事中の高層ビルは、かつての「ロッテ会館」の跡地に建設中の「ロッテプラザ」。

 それにしても、伊藤左千夫が平岡工場に牛乳を配達していたとは!
 当時の牛乳は、どのように搾取、保存、販売していたのだろうか?
 
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77 亀戸梅屋敷跡・臥龍梅

2009-06-04 20:04:56 | 歴史・痕跡
 東京メトロ半蔵門線・錦糸町駅のホームには、名所・名跡のパネルがはめ込まれています。色タイル(?)で縁取られたパネルは、ホームで待つ乗客の心をしばし和ませます。
 その中の一つが、安藤広重作の亀戸・清香庵「梅屋敷」の錦絵。見事な梅の太い幹を中央にあしらった傑作。ゴッホがこの作品を忠実に模写したのは、有名なエピソードです。この梅園は、亀戸の北の端にあったわけです。

左が安藤広重、右がゴッホ。(「Wikipedia」より)

 さらに、この「梅屋敷」には、「臥龍梅」という名木があり、江戸時代より多くの人で賑わう行楽地でした。しかし、1910(明治43)年の大洪水で梅の木はすべて枯れ、しばらくして廃園となりました。
 「臥龍梅」は、 江戸名所図絵には「その花一品にして重弁、薫香深く、形状あたかも竜が蟠(わだかま)り臥すようである」と記されています。
 以下、江東区の作成した説明板の文章。
 
 梅屋敷は、江戸時代から続く梅の名所でした。もとは、本所埋堀(墨田区)の商人、伊勢屋彦右衛門の別荘で清香庵と称していましたが、庭内に梅が多く植えられていたところから「梅屋敷」と呼ばれるようになりました。なかでも「臥龍梅」と名付けられた一株が有名で、これはまるで龍が大地に横たわっているように見えるところから、水戸光圀が命名したと伝えられています。また、八代将軍徳川吉宗も鷹狩の帰りにこの地を訪れました。
 江戸近郊の行楽地として、花の季節にはたくさんの人々でにぎわい、その様子は『江戸名所図会』『絵本江戸土産』(歌川広重)などの地誌にもとりあげられています。歌川広重はこの梅屋敷だけで十数種の版画を描き、とくに「名所江戸百景」の中の、太い梅の古木を手前にあしらった錦絵は傑作のひとつにあげられます。
 明治四十三(一九一〇)年、大雨により隅田川沿岸はほとんど水に浸り、亀戸町・大島町・砂村のほぼ全域が浸水しました。この洪水により、梅屋敷のすべての梅樹が枯れ、廃園となりました

 今、その亀戸の梅屋敷は、完全に消失してしまいました。現在は、浅草通り沿いに説明板と記念碑、細い紅白の梅が植えてあるだけです。
 写真は、その跡地の遠景(北十間川から写したもの)。この辺り、北十間川、横十間川付近には、亀戸天神など、梅の木が多く植えられていて、梅の名所だったようです。
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76 越中島線跡

2009-06-03 20:49:03 | 鉄道遺跡
 1929(昭和4)年に貨物線として、新小岩-小名木川間が建設された(常磐線・金町からの延長線)。水上交通盛んだった当時、小名木川駅は隣接する運河・小名木川の水運も利用する「水陸両用駅」であった。
 戦後、越中島まで延伸、さらに、現・越中島貨物駅より先、東京都港湾局所有の専用線が、豊洲・晴海埠頭方面へ伸びていった。
 しかし、貨物の扱い高は徐々に減少し、1989(平成元)年には東京都晴海線が、2000(平成12)年には小名木川駅が廃止された。
 現在、「越中島貨物」駅を発着するのは、構内にあるJR東日本東京レールセンターから発送されるレールを輸送するため、JR東日本が運行する工事列車のみである。かつて設定されていたJR貨物による貨物列車は1997(平成9)年に廃止になっている。
 したがって、貨物駅としては既に機能していないが、現在でもJR貨物は、新小岩操車場から越中島貨物駅までの第二種鉄道事業者のままである。
 取り扱い貨物の減少等により縮小された敷地の一部は、ジェイアールバス関東東京支店として利用されている。
 1990(平成2)年までは「越中島駅」と称していたが、京葉線に新しく「越中島駅」ができたことで「越中島貨物駅」に改称された。位置的には、江東区越中島ではなく、もう少し東側の塩浜に位置する(京葉線「塩浜駅」に近い)。
 この駅付近で、京葉線が新東京トンネルから地上に出る。京葉線が地上に出た地点で、京葉下り線から保守用車両専用の乗越分岐器が設置されている。
 駅周辺には、東京地下鉄深川車両基地があり、かつて当駅から新製車両の搬入が行われたが、その跡は残っていない。
〔歴史〕(w.pediaによる)
1958年(昭和33年)11月10日 - 越中島駅として開業。貨物駅。
1968年(昭和43年)5月 - 東京液体化成品センター東京営業所が構内に完成。
1987年(昭和62年)3月31日 - 旅客営業を開始。一般駅となる。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化によりJR東日本・JR貨物の駅となる。
1989年(平成元年)2月10日 - 東京都港湾局専用線が全廃。
1990年(平成2年)3月10日 - 京葉線越中島駅開業に伴い、越中島貨物駅に改称。
1997年(平成9年)10月22日 - 東京液体化成品センター東京営業所が川崎市へ移転。工場で生産され貨車で送られてきた化学薬品を一旦タンクにて貯蔵、タンクローリーに詰め替える、という中継地として機能してきたが、コンテナ化に対応するため移転した。
 これにより、当駅発着の定期貨物列車が廃止される。一部軌道跡や鉄橋などが残っているが近年では豊洲の一部地区の再開発などに伴い次第に消えつつある。
 写真は、その線路の跡地で、豊洲方面を望んだもの。鉄道を建設・運営していた東京都が、この土地の所有者となっている。線路こそないものの、画面左側には、雑草の中に当時の鉄柵がそのまま赤茶けて見えている。
 この辺りから豊洲にかけては、廃線マニアにはたまらないポイントが、まだまだ残っている。
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75 中川船番所跡

2009-06-02 20:41:18 | 中川を遡る

 船番所は、海の関所。正式には、「番所」と呼ばれる。
 現 常盤1-1付近、深川の万年橋の北に置かれていた「深川御番所」「深川御関所」などといわれ、江戸幕府が河川水運によって江戸に出入りする人や物を検査するために、小名木川の隅田川口に設けた関所が、寛文元年(1661年)に中川・小名木川・船堀川の交差する中川口に移転し、「中川船番所」となった。
 現在、史跡となっている「中川船番所跡」と言う名称は、江東区の史跡として登録の際に付けたもの。
 歴史的にも、深川番所・川船番所・深川口人改の御番所、役人は深川船(舟)改之番・深川御関所番など、史料により様々な名称で登場している。また「船」と「舟」という字についても史料には両方使用されている。
 川船による旅人通行の改めは厳格ではなかったが、川船に積まれた荷物については極めて厳しかった。この番所の本来の目的が、商品流通を把握するところにあった。
 重視した物資は米、酒、鮮魚、野菜、硫黄、塩。米と酒は江戸の米価政策に関わり、生鮮食料品は真夜中の通関を許すほどの気の使いよう、普通の関所は、夜間は通さないもの。江戸に入る硫黄、出る塩は、戦略物資として重要視していた。 
 番所の役人には、寄合の旗本3~5名が任命され「中川番」と呼ばれ、5日交代で勤めた。旗本の家臣が派遣されていた。
 小名木川縁に番小屋が建てられ、小名木川を通行する船を見張っていた。
 「中川番所」が置かれた地は、「江戸名所図会」にみられるように、中川と番所の手前を流れる小名木川、そして行徳へとつながる船堀川が交差する地であり、利根川・江戸川を通じて、江戸と関東が結ばれる河川交通上の重要な地点だった。
 江戸時代もなかばになると、江戸の後背地である関東では商品生産が進められ、各地に特産物が生まれた。野田のしょう油、銚子の干鰯のほか、穀物・酒・小間物・呉服など地場産業が発展し、こうした物資はおもに河川交通を利用して運ばれた。
 とくに江戸に入る米・酒・硫黄・俵物・樽物・古銅類・材木類・生魚・前栽物と、江戸から出る米・塩は「御規定物」とされ、通関には一定の手続きが必要とされた。また御規定物以外の品は、船頭が持つ手形と積み荷の照合を行い通した。
 中川番所は、海上交通の関所である浦賀番所とともに、江戸をめぐる河川交通の関所として、重要な役割を果たしていた。
 慶応3年(1867)8月幕府は、中川番所を廃止し、国産会所(産業統制機関)の設置を決定したが、幕末の不穏な政情もあり、中川番を引き続き在番させていた。江戸幕府が倒れると、明治新政府は旧旗本や水戸藩士に番所を防衛させ、通船の印鑑検査などを行わせた。
 明治2年(1869)2月、明治政府は全国の関所の廃止を宣言、5月3日に中川番所は正式に廃止された。(以上、「資料館」資料等による。)
 「資料館」は、その中川番所の近くに2003年に開館した。
 以下、「資料館」の内容

 1.中川番所
・中川番所の再現(ジオラマ)
平成7年の発掘調査と江戸時代後期に描かれた絵画資料に基づき、中川番所をジオラマで再現しています。
・形づくられる江東
近世から現在までの江東区の埋め立ての変遷と河川の整備状況を映像でたどっていきます。
・中川番所の成立
・中川番所の機能と役割
・中川番所の廃止
中川番所の誕生から廃止までの歴史と役割を紹介しています。
・中川番所遺跡出土品
発掘調査で出土した資料を展示しています。

2.江戸をめぐる水運
・河岸とさまざまな物資
・江戸内の物流と行き交う船
江戸と関東周辺を結ぶ河川水運について、どのような物資がどのように運ばれたのかなどをみていきます。模型などで川船の紹介もしています。
・川浚い-小名木川の維持管理
小名木川で行われた川浚いについて解説しています。

3.江戸から東京へ
・水運の近代化
蒸気船の登場などによる水運の近代化の様子を、通運丸の古写真や小名木川のジオラマなどで紹介していきます。
・川と人々のくらし
・小名木川今昔物語
近代から現代の人々の暮らしの変遷、小名木川を中心とした江東区域の川の様子を、古写真を中心に紹介していきます。

* 2と3は企画展を行う際に展示替えとなります。

展望室
旧中川と小名木川の風景、番所跡が展望できます。

 写真は、中川の土手側からみた様子。「資料館」は、見応えのあるものでした。
立派な建物で、小学生や中学生、一般の方もぜひ立ち寄って欲しいものです。
 なお、旧中川を下って小名木川との合流点を少し過ぎた辺り、荒川との合流点に「荒川ロックゲート(閘門)」があります。パナマ運河方式で荒川と旧中川を行き来するためのもの。2005(平成17)年に完成し、防災を目的にしています。

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74 旧戦車街道

2009-06-01 21:31:51 | 歴史・痕跡
 足立区の西、綾瀬川にかかる綾瀬新橋から東の中川にかかる飯塚橋を結ぶ道路は、かつて「戦車街道」と呼ばれていました。この道は、日立製作所亀有工場への道であることから、戦時中、「日立」では、戦車の製造を行っていたのでしょうか、その走行テスト等にこの道路を使っていた・・・。
 東の中川に架かる飯塚橋は、当時はまだ出来ていなくて、「日立」から西側に向かっていた直線道路だったようです。現在は、環七大谷田陸橋をくぐって西に進みます。飯塚橋は、足立区と葛飾区とを結ぶ唯一の橋で、つねに多くの交通量を抱えています。1950(昭和30)年に架橋されました。
 この「旧戦車街道」に面して、東綾瀬公園という憩いの場があって、その一角に足立区立の「すいすいらんど綾瀬」という区民プールがあります。屋内と屋外の大小さまざまなプールがあり、四季を通して利用できます。こうして今の住宅地や公園などのある市街地に「戦車」が走行していたとは夢のような話です。
 飯塚橋が出来る前は、「飯塚の渡し」があって、江戸時代より続けられ、近隣地域では中川両岸を結ぶ唯一の連絡交通手段として重宝されてきたということです。
 他にも、東京都の八王子市と町田市の境目あたり、多摩ニュータウンのある所にも「戦車道路」と名づけられた道があります。全長8km。これは、相模陸軍造兵廠の専用道路で、戦車の性能テストや操縦訓練のために作られたものだそうで、山中にありながらけっこう太い道で、くねくねと曲がりながら尾根を走っている、とのこと。現在は、「尾根緑道」として整備されているようです。
 写真は、飯塚橋方向を望んだもの。道路の左右がかつての「亀有日立」の跡地。
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