再び細い直線道路として南下する「佐倉道」は、京成電車「江戸川」駅の西側のガードをくぐると、正面(南)から来た元佐倉道(旧千葉街道)と合流し、江戸川堤へ向かう。このあたりに「小岩・市川の渡し(関所)」があった。渡河した旅人は南東に進んでいく。
江戸川の河川敷に消えた「佐倉道」はこのあたりで再び道の姿を現す。
一直線で南下する。周囲には神社仏閣が並んでいる。
江戸川駅近くの商店街の店先にある「道標」。安永4(1775)年建立。
「伊与田の道標」。伊豫(与)田村はこの地域の旧名。この地を開拓した藤原伊豫にちなんでいる。
京成線のガードをくぐる。
正面が元佐倉道(旧千葉街道)。ここで合流して、左(東)に折れると、関所・渡し場。
元佐倉道から佐倉道との合流点を望む。
角にある案内板(御番所町跡)。
この付近が交通の要所であったことを示す道標等の文化財が多く残っている。
道沿いに家が建ち並ぶのが佐倉街道。
左(西)にある(土手)道は、「現岩槻街道」となる古道と思われる。右(東)の土手道は江戸川河川敷内となり、消滅。
突き当たりが江戸川の堤。
佐倉道と元佐倉道の合流点に残る「御番所町の慈恩寺道石造道標」。
角柱。案内板がないと見落としそう。
案内板。
それによると、対岸の市川から江戸川を渡って小岩市川の関所を通ると道筋のほぼ正面に見えた道標だった、とのこと。
「・・・銘文は安永4年(1775年)に建てられたもので、岩附・江戸・市川の3方向を示しています。
銘文 正面 右せんじゅ岩附志おんじ道 左リ江戸本所ミち 右面 左リ いち川ミち 小岩御番所町世話人忠兵衛 左面 右 いち川ミち
安永四乙未年八月吉日 北八丁堀 石工 かつさや加右衛門 江戸川区教育委員会」
小岩市川渡しの目印だった「常燈明」。
もともと、小岩市川の渡し場に建てられていた。昭和9(1934)年江戸川改修工事の際に寳林寺(宝林寺)境内に移された。この渡しは江戸時代には成田山新勝寺や千葉寺詣での人たちで賑わっていた。そのため、「佐倉街道」は「成田街道」とも呼ばれた。
この「常燈明」は、天保10(1839)年、千住総講中によって献灯されたもの。灯籠の高さ2m、台石は五段に組まれていて、高さは1.82mある。
台石下部。
1870年代のようす。 2010年代のようす。
水戸街道と葛飾・新宿(にいじゅく)で分岐した「佐倉道(佐倉街道)」は現国道6号線(水戸街道)を越えて南下します。途中、高砂で直角に折れ、東南に向かいます。高砂駅近くを過ぎ、北総線・新柴又駅近くのガードをくぐり、そのまま行くと江戸川の土手に突き当たります。旧道は、江戸川河川敷に消えてしばらくなくなります。再び直線の道となった「佐倉道」はほぼ南下して京成線・江戸川駅のガードをくぐり、そこで、「元佐倉道(旧千葉街道)」と合流して東に向かい江戸川にある小岩・市川の渡し・関所を越えて市川に向かいます。かつての道筋は区画整理、道路拡張、さらに用水路の埋め立てなどかなり変化していますが、所々道標などで往時を偲ぶことが出来ます。
新宿・「一里塚」バス停の近く。ここから水戸街道と分かれます。この橋は、小合溜からの水路(「東用水」から分岐した小さな流れ)に架かっていた「金阿弥橋」、親柱が残されています。
この付近(追分・水戸街道と佐倉街道)にあった道標は、現在、水戸街道拡張整備工事等のために撤去され、「葛飾郷土と天文の博物館」に一時保管されている、とか。そこで直接問い合わせところ、毛布にくるんであってお見せできない、と。周辺が整備されたら、元の位置に戻すということでした(かつての場所には設置できないと思いますが)。
「道標」(「区民がつくる葛飾百科」より拝借。)安永6(1777)年建立。正面に「左 水戸街道 右 なりたちば寺道」右側面に「さくらミち」と彫られている、らしい。ただし、現在、このあたり、旧水戸街道の道は消滅しています。
水戸街道を越えて旧道に入ります。一方通行の狭い道で、あまり車は通りません。「追分」を振り返って見たところ。このあたりも、あと何年かすると、大きく変貌した街並みになるでしょう。
正面の十字路を左折します。
来た道を望む。
明治13年当時の古地図。中央部分。北からの道がカギのように折れて南東に向かっていました。真ん中の細い用水路は小合溜(現水元公園)からの流れ。
区内最古の道標。正面には「是より右ハ下川原村 さくら海道」右面には「これより左ハ下の割への道」左面には年号が彫られている、とのこと。「下川原」は、新宿の小字名。「下の割」は葛西の南の地域、現在の江戸川区をさしています。
左折してすぐ右折して広い通り。貨物線(金町~新小岩)の踏切を越えます。小合溜からの用水路が埋め立てられ、広い舗装道路になっています。大がかりな水道工事中のところも。踏切脇には鉄橋が残っています。
踏切を渡った南側から望む。
高砂駅前の通り(柴又帝釈天への道)との交差点。向かい右の角の建物が街道筋風の店構え。
京成線「高砂」駅の北側の道を進み、商店街を越えしばらく行くと、桜の並木に覆われた散策道になります。遠くに歩く生徒の姿は佐倉街道沿いにある「区立桜道中」の生徒、らしい。
「親水さくらかいどう」の碑。
道の脇には小さな流れ。
しばらくのんびり進むと江戸川の堤防にぶつかり、旧道はここでいったん途切れます。
「善兵衛樋」。
かつてこの辺りの農村は、江戸川を目の前にしながら水不足の悩みが絶えなかったそうです。明治に入って、上小岩村の石井善兵衛を中心に運動を進めた結果、明治11(1878)年に取水口が完成し、「善兵衛樋」と命名されました。
大正13(1924)年、地元の人達が、その功労者の氏名並びに石井善兵衛の功績を称えるために作ったものが、「水神」碑。人々には、まさに「水神」様に思えたのでしょう。
「善兵衛樋」は、高く組み上げた岩と岩との間から、江戸川の水が勢いよく噴き出し、流れ落ちる仕組みになっていて、まるで滝のようです。その背後、見上げるような土手の向こうには、江戸川からの取水口と流れがそのまま残っています。
この「善兵衛樋」からほぼ南に向かって約1キロメートル、「上小岩親水緑道」が続きます。
道標。正徳3(1713)年建立。江戸川区内最古のものだそうです。
「右面 是より右岩附慈恩寺道 岩附迄七里 これより左 千手道 新宿迄壱里千手迄弐里半」とある。注:「岩附」=「岩槻」、「千手」=「千住」
古地図(明治13年)。左上(北西)あたりに「道標」がありました。現在の「岩槻街道」は、江戸川・一里塚から南東は「篠崎街道」。
新宿・「一里塚」バス停の近く。ここから水戸街道と分かれます。この橋は、小合溜からの水路(「東用水」から分岐した小さな流れ)に架かっていた「金阿弥橋」、親柱が残されています。
この付近(追分・水戸街道と佐倉街道)にあった道標は、現在、水戸街道拡張整備工事等のために撤去され、「葛飾郷土と天文の博物館」に一時保管されている、とか。そこで直接問い合わせところ、毛布にくるんであってお見せできない、と。周辺が整備されたら、元の位置に戻すということでした(かつての場所には設置できないと思いますが)。
「道標」(「区民がつくる葛飾百科」より拝借。)安永6(1777)年建立。正面に「左 水戸街道 右 なりたちば寺道」右側面に「さくらミち」と彫られている、らしい。ただし、現在、このあたり、旧水戸街道の道は消滅しています。
水戸街道を越えて旧道に入ります。一方通行の狭い道で、あまり車は通りません。「追分」を振り返って見たところ。このあたりも、あと何年かすると、大きく変貌した街並みになるでしょう。
正面の十字路を左折します。
来た道を望む。
明治13年当時の古地図。中央部分。北からの道がカギのように折れて南東に向かっていました。真ん中の細い用水路は小合溜(現水元公園)からの流れ。
区内最古の道標。正面には「是より右ハ下川原村 さくら海道」右面には「これより左ハ下の割への道」左面には年号が彫られている、とのこと。「下川原」は、新宿の小字名。「下の割」は葛西の南の地域、現在の江戸川区をさしています。
左折してすぐ右折して広い通り。貨物線(金町~新小岩)の踏切を越えます。小合溜からの用水路が埋め立てられ、広い舗装道路になっています。大がかりな水道工事中のところも。踏切脇には鉄橋が残っています。
踏切を渡った南側から望む。
高砂駅前の通り(柴又帝釈天への道)との交差点。向かい右の角の建物が街道筋風の店構え。
京成線「高砂」駅の北側の道を進み、商店街を越えしばらく行くと、桜の並木に覆われた散策道になります。遠くに歩く生徒の姿は佐倉街道沿いにある「区立桜道中」の生徒、らしい。
「親水さくらかいどう」の碑。
道の脇には小さな流れ。
しばらくのんびり進むと江戸川の堤防にぶつかり、旧道はここでいったん途切れます。
「善兵衛樋」。
かつてこの辺りの農村は、江戸川を目の前にしながら水不足の悩みが絶えなかったそうです。明治に入って、上小岩村の石井善兵衛を中心に運動を進めた結果、明治11(1878)年に取水口が完成し、「善兵衛樋」と命名されました。
大正13(1924)年、地元の人達が、その功労者の氏名並びに石井善兵衛の功績を称えるために作ったものが、「水神」碑。人々には、まさに「水神」様に思えたのでしょう。
「善兵衛樋」は、高く組み上げた岩と岩との間から、江戸川の水が勢いよく噴き出し、流れ落ちる仕組みになっていて、まるで滝のようです。その背後、見上げるような土手の向こうには、江戸川からの取水口と流れがそのまま残っています。
この「善兵衛樋」からほぼ南に向かって約1キロメートル、「上小岩親水緑道」が続きます。
道標。正徳3(1713)年建立。江戸川区内最古のものだそうです。
「右面 是より右岩附慈恩寺道 岩附迄七里 これより左 千手道 新宿迄壱里千手迄弐里半」とある。注:「岩附」=「岩槻」、「千手」=「千住」
古地図(明治13年)。左上(北西)あたりに「道標」がありました。現在の「岩槻街道」は、江戸川・一里塚から南東は「篠崎街道」。
「福島原発の第一サティアン」 石原幹事長が発言(朝日新聞) - goo ニュース
「明智光秀」(これは他人の評価ですが)「ナマポ」(これはご本人の発言)に続いてまたしても。
この方、小泉内閣の閣僚のときもやたら責め立てられ、サンドバッグと称されていました。今また、総裁選前にして、自ら進んで「サンドバッグ」に大変身。
サンドバッグ=布地等の中に比較的軟らかい素材を詰め、ぶら下げて使用するダミーの標的のこと。和製英語。
「長老」のダミーかオヤジのダミーか。はたまた「標的」か。
この方が自民党総裁、そして来るべき総選挙の顔になるとしたら、すでに「サンドバッグ」男として名を馳せることになるのかと思うと・・・。ま、これで総裁の目はなくなったか!
これでは、谷垣さんもやりきれないでしょう。「長老」森さんの「神の国」発言以上のインパクトありすぎ。天下・国家を語る政治家としては失格ですな。
「明智光秀」(これは他人の評価ですが)「ナマポ」(これはご本人の発言)に続いてまたしても。
この方、小泉内閣の閣僚のときもやたら責め立てられ、サンドバッグと称されていました。今また、総裁選前にして、自ら進んで「サンドバッグ」に大変身。
サンドバッグ=布地等の中に比較的軟らかい素材を詰め、ぶら下げて使用するダミーの標的のこと。和製英語。
「長老」のダミーかオヤジのダミーか。はたまた「標的」か。
この方が自民党総裁、そして来るべき総選挙の顔になるとしたら、すでに「サンドバッグ」男として名を馳せることになるのかと思うと・・・。ま、これで総裁の目はなくなったか!
これでは、谷垣さんもやりきれないでしょう。「長老」森さんの「神の国」発言以上のインパクトありすぎ。天下・国家を語る政治家としては失格ですな。
旧中川。中川(古利根川)が明治末の荒川放水路開削によって分断され、中川は荒川沿いに流れるようになり、西側の部分が取り残されてしまいました。現在、上流は江戸川区・墨田区、下流は江戸川区・江東区の区界となっています。
かつて、旧中川一帯は、増水・決壊など台風などの被害が続出していた地域でした。また家庭や工場からの排水で淀んだ川になっていましたが、近年は、護岸工事・治水工事、環境整備によってかつての清流を取り戻し、両側の土手沿いの道も川の流れにも親しめる自然環境になっています。都内の広い河川の中では、一番水辺に近く散策できるようです。しかし、蛇行する流れは今も昔も変わりません。北東は荒川に接し、南東も再び荒川に接しています。
旧中川の最上流。「木下川(きねがわ)排水機場」。下町の河川の氾濫から地域を護るための施設。この施設は旧中川の水をくみ上げ浄化して荒川に流すためのもの。
そのため、現在の旧中川には、かつてのような川上から川下へという流れはない。旧中川全域が潮の満ち干に関係なく、ほぼ一定の低水位に保たれるようになっている。
「きねがわ」は荒川をはさんだ葛飾区側に「木根川(きねがわ)」として存在する。荒川開削以前は同じ地域・集落と考えられる。荒川の少し上流にある「堀切」なども同じ。
南側を望む。一頃よりはずいぶんと水質も改善され、魚の泳ぎ回る姿も。
川沿いを通ると魚が跳ねるほど。散歩していた地元の方に聞くと「ボラ」だとか。この魚、出世魚として有名。一番大きくなってこれ以上成長しなくなると「トド」。「結局」「行きつくところ」などを意味する「とどのつまり」の語源となった魚。その「ボラ」がたくさん棲息しているらしい。自由に釣りもできるようで、釣り人の姿もみかける。
蛇行する流れは昔のまま。このあたり一帯は昭和20年3月10日の東京下町大空襲によって壊滅的な被害を受けた地域。それにちなんで、毎年夏には精霊流しが行われる川でもある。
「平井の渡し」跡付近からの「スカイツリー」。行徳道(浅草道)はその方向に向かって進む。
墨田区側。「平井の渡し」案内板(江戸川区)の対岸。
東武亀戸線「東あずま」駅そばにある「地図」。中央、左上から右下に通じる道路がほぼ「浅草道」の跡と思われる(赤線でなぞった道)。地図の下方、交差点を左に曲がる。
秋の祭礼の飾り付けで忙しそう。
駅前の商店街を抜け、明治通りを越えた付近。
正面から来た道を左に曲がる。右手奥に広がっているのが「花王東京工場」。かつて西側には用水が流れていた。「浅草道」は用水に沿って左に曲がった。
北十間川・境橋からのスカイツリー。橋を渡って「浅草通り」に出る。
明治13年の地図。北の方にまっすぐ伸びる道が「木根川薬師」への道。この道は、葛西用水(曳舟川)から四ツ木付近で分岐し、小村井方向に流れていた水路(中居堀)沿いの道。中央東から来た道が「浅草道」。下方・北十間川に架かる橋が「境橋」。
かつて、旧中川一帯は、増水・決壊など台風などの被害が続出していた地域でした。また家庭や工場からの排水で淀んだ川になっていましたが、近年は、護岸工事・治水工事、環境整備によってかつての清流を取り戻し、両側の土手沿いの道も川の流れにも親しめる自然環境になっています。都内の広い河川の中では、一番水辺に近く散策できるようです。しかし、蛇行する流れは今も昔も変わりません。北東は荒川に接し、南東も再び荒川に接しています。
旧中川の最上流。「木下川(きねがわ)排水機場」。下町の河川の氾濫から地域を護るための施設。この施設は旧中川の水をくみ上げ浄化して荒川に流すためのもの。
そのため、現在の旧中川には、かつてのような川上から川下へという流れはない。旧中川全域が潮の満ち干に関係なく、ほぼ一定の低水位に保たれるようになっている。
「きねがわ」は荒川をはさんだ葛飾区側に「木根川(きねがわ)」として存在する。荒川開削以前は同じ地域・集落と考えられる。荒川の少し上流にある「堀切」なども同じ。
南側を望む。一頃よりはずいぶんと水質も改善され、魚の泳ぎ回る姿も。
川沿いを通ると魚が跳ねるほど。散歩していた地元の方に聞くと「ボラ」だとか。この魚、出世魚として有名。一番大きくなってこれ以上成長しなくなると「トド」。「結局」「行きつくところ」などを意味する「とどのつまり」の語源となった魚。その「ボラ」がたくさん棲息しているらしい。自由に釣りもできるようで、釣り人の姿もみかける。
蛇行する流れは昔のまま。このあたり一帯は昭和20年3月10日の東京下町大空襲によって壊滅的な被害を受けた地域。それにちなんで、毎年夏には精霊流しが行われる川でもある。
「平井の渡し」跡付近からの「スカイツリー」。行徳道(浅草道)はその方向に向かって進む。
墨田区側。「平井の渡し」案内板(江戸川区)の対岸。
東武亀戸線「東あずま」駅そばにある「地図」。中央、左上から右下に通じる道路がほぼ「浅草道」の跡と思われる(赤線でなぞった道)。地図の下方、交差点を左に曲がる。
秋の祭礼の飾り付けで忙しそう。
駅前の商店街を抜け、明治通りを越えた付近。
正面から来た道を左に曲がる。右手奥に広がっているのが「花王東京工場」。かつて西側には用水が流れていた。「浅草道」は用水に沿って左に曲がった。
北十間川・境橋からのスカイツリー。橋を渡って「浅草通り」に出る。
明治13年の地図。北の方にまっすぐ伸びる道が「木根川薬師」への道。この道は、葛西用水(曳舟川)から四ツ木付近で分岐し、小村井方向に流れていた水路(中居堀)沿いの道。中央東から来た道が「浅草道」。下方・北十間川に架かる橋が「境橋」。
「平井の渡し」は、現在の平井橋のすぐ南の位置にあったようです。かつての「行徳道」は東方・四股から直線で都立小松川高校の北側の道を北西に進み、平井の集落に入ってからはちょっと入り組みますが、「平井の渡し」を過ぎると、南西にほぼ一直線。途中、左に折れて北十間川の橋を越えて西に向かいます。現在の浅草通りに重なる部分もあるようです。
明治13年の地図。中央の蛇行する流れが中川。右(東)に見える直線道が「行徳道」。平井の集落に入ってから道は少し曲がって中川に向かう。「平井の渡し」で左に折れる道が「行徳道(浅草道)」。
荒川右岸(西)から対岸を望む。正面高速道路橋脚下あたりに「四股」があったようだ。そこで、「元佐倉道」(旧千葉街道)と交差していた。
西側を振り返った見たところ。正面の細い道が「行徳道」跡のようです。
古地図上ではこの細い道だと思いますが。
ちょっと横道に入ったところにあった「公園」。「逆井公園」とありました。逆井という地域はかなり広かったようです。
JR総武線ガード付近から荒川方向を望む。細いが一直線の道。
道路整備のため道がカーブし、広い道路に合流する。
JR平井駅付近は道路整備など再開発が進んで、ここから「平井の渡し」までの「行徳道」の道筋は不明確。
路地に入り込んで。この道が行徳道の可能性あり。
「平井の渡し」跡の「説明板」。
説明板の右側の細い坂道が、かつての「行徳道」。
「行徳道」から中川の方向を望む。建物の奥が中川。
明治13年の地図。中央の蛇行する流れが中川。右(東)に見える直線道が「行徳道」。平井の集落に入ってから道は少し曲がって中川に向かう。「平井の渡し」で左に折れる道が「行徳道(浅草道)」。
荒川右岸(西)から対岸を望む。正面高速道路橋脚下あたりに「四股」があったようだ。そこで、「元佐倉道」(旧千葉街道)と交差していた。
西側を振り返った見たところ。正面の細い道が「行徳道」跡のようです。
古地図上ではこの細い道だと思いますが。
ちょっと横道に入ったところにあった「公園」。「逆井公園」とありました。逆井という地域はかなり広かったようです。
JR総武線ガード付近から荒川方向を望む。細いが一直線の道。
道路整備のため道がカーブし、広い道路に合流する。
JR平井駅付近は道路整備など再開発が進んで、ここから「平井の渡し」までの「行徳道」の道筋は不明確。
路地に入り込んで。この道が行徳道の可能性あり。
「平井の渡し」跡の「説明板」。
説明板の右側の細い坂道が、かつての「行徳道」。
「行徳道」から中川の方向を望む。建物の奥が中川。
「日本維新の会」国政進出 「八策の下結集」 理想と打算交錯(産経新聞) - goo ニュース
「打算」政党集団が最適な表現。これほどまで徹底した「打算」言い換えれば、自己利益追求・自己顕示欲に満ちた党首を抱く政党は、既成政党にはなかった。
が、これまで、理念も何もかなぐり捨てて、離合集散を繰り返す政治家の実態をイヤというほど見てきた(見せつけられてきた)国民(有権者)は、ふわっとしたマスコミをも取り込んだ、橋下目くらまし言動作戦(多分裏にいる松井さんが仕切っているのだろうが)に乗せられて、「まだまし」くらいな感覚で気にもしなくなっているだろう。橋下さんならこうした閉塞状況を打破してくれるだろう、と。
大衆の心の動きをつかむ天才的なトリックスターではある、彼は。百戦錬磨のはずの「みんなの党」渡辺さんも軽く手玉に取るほどだから。ま、世間の中で「悪戯好きの憎めない男」くらいなら、無難なのだが・・・。
「打算」。それは、公明党への選挙協力に如実に表れている。市議会の多数派工作(都構想実現のためという「大義名分」はあるが)のために、公明党候補者の選挙区には候補者を出さない、推薦もやぶさかではない、と。
前回すべての小選挙区で議席を失った公明党・創価学会は、雪辱戦に組織のすべてをかけて挑んでいる。そこへ「維新」からの頼み。うまく立ち回って、願ったり叶ったりの展開。「維新八策」など政策のすりあわせなど全くなし、という状況。それでもいい、と。国会での共闘態勢はどうしていくのか?
今後、大阪市議会で「都構想」に賛意を示す政党に対して「維新」はどう対応する? 公明党と組めばすでに過半数だから「今さらもう必要ない」「支援も考えない」! あるいは?
7日には、橋下、松井両氏が公明党の白浜一良副代表と会談、公明党が次期衆院選で擁立する9小選挙区の候補者を支援することを伝えた。大阪と兵庫の計6選挙区については、維新として推薦を出す方針だ。しかし、公明党とは八策を基に政策のすり合わせをしていない。「大阪都」構想実現に向け、大阪市議会で公明の協力を得るための「見返り」なのだという。〈「産経新聞〉
国家的な政策・枠組みを実に矮小化している。
さらに危険なのは、「維新八策」は半ば理想的・抽象的政治課題の羅列。しかし、選挙で勝てば(多数を占めれば)国民からの支持を受けたことで、政策の具体化は「白紙委任」を受けたこととみなす、と公言していること。特に労働組合への徹底した敵視・偏見は、手っ取り早い政策実現課題として、すぐさま政策に反映されるだろう(大阪がそのいい例)。
二度の選挙でいかに「風」によって政治が混乱し、生活が停滞させられたか(民主党政権は政・官・マスコミ一体になっての総叩きによる側面も全くないとはいえないが)、その反省の上に立って、来るべき総選挙での投票行動を考えたい。
これでいいのか、日本!(日本の政治!)
大阪の地域政党にすぎなかった維新の会は国政進出を決定し、衆院での過半数獲得を目指している。大政党を脅かすほどの影響力を持ち始めているが、今のところは橋下人気が頼りの政党だ。
次期衆院選公約としていた「維新八策」について、橋下氏は「公約ではない。政治は予想だにしないことが起きる。マニフェストのように細かなことを記す必要はない」との見解を示した。選挙で勝てば、具体的な政策についてはある程度の「白紙委任」が許される、とも取れる。
討論会を見ている限り、橋下氏の顔色をうかがうような人材ばかりだと、党内で多様な意見を戦わせることができないのではと、不安を感じた。にぎやかな演出に惑わされず、われわれをどこに導こうとしているのか、冷静に見極める必要がある。〈「神戸新聞」(9/10)〉
(追)
自民党の谷垣さん、総裁選出馬せず! その旨、ご本人が午前中に会見。しかし昼過ぎのワイドショー。まったくふれられもせず。どのチャンネルも「維新の会」の話に終始(1時過ぎまで)。まさに「去る者は追わず、来るものは拒まず」。打算と駆け引きの中で捨てられて「政治家」失格。が、「人間的には悪くはない」谷垣さんの最後の会見とマスコミの扱い。河野太郎のお父さんと同じ結末でした。
「打算」政党集団が最適な表現。これほどまで徹底した「打算」言い換えれば、自己利益追求・自己顕示欲に満ちた党首を抱く政党は、既成政党にはなかった。
が、これまで、理念も何もかなぐり捨てて、離合集散を繰り返す政治家の実態をイヤというほど見てきた(見せつけられてきた)国民(有権者)は、ふわっとしたマスコミをも取り込んだ、橋下目くらまし言動作戦(多分裏にいる松井さんが仕切っているのだろうが)に乗せられて、「まだまし」くらいな感覚で気にもしなくなっているだろう。橋下さんならこうした閉塞状況を打破してくれるだろう、と。
大衆の心の動きをつかむ天才的なトリックスターではある、彼は。百戦錬磨のはずの「みんなの党」渡辺さんも軽く手玉に取るほどだから。ま、世間の中で「悪戯好きの憎めない男」くらいなら、無難なのだが・・・。
「打算」。それは、公明党への選挙協力に如実に表れている。市議会の多数派工作(都構想実現のためという「大義名分」はあるが)のために、公明党候補者の選挙区には候補者を出さない、推薦もやぶさかではない、と。
前回すべての小選挙区で議席を失った公明党・創価学会は、雪辱戦に組織のすべてをかけて挑んでいる。そこへ「維新」からの頼み。うまく立ち回って、願ったり叶ったりの展開。「維新八策」など政策のすりあわせなど全くなし、という状況。それでもいい、と。国会での共闘態勢はどうしていくのか?
今後、大阪市議会で「都構想」に賛意を示す政党に対して「維新」はどう対応する? 公明党と組めばすでに過半数だから「今さらもう必要ない」「支援も考えない」! あるいは?
7日には、橋下、松井両氏が公明党の白浜一良副代表と会談、公明党が次期衆院選で擁立する9小選挙区の候補者を支援することを伝えた。大阪と兵庫の計6選挙区については、維新として推薦を出す方針だ。しかし、公明党とは八策を基に政策のすり合わせをしていない。「大阪都」構想実現に向け、大阪市議会で公明の協力を得るための「見返り」なのだという。〈「産経新聞〉
国家的な政策・枠組みを実に矮小化している。
さらに危険なのは、「維新八策」は半ば理想的・抽象的政治課題の羅列。しかし、選挙で勝てば(多数を占めれば)国民からの支持を受けたことで、政策の具体化は「白紙委任」を受けたこととみなす、と公言していること。特に労働組合への徹底した敵視・偏見は、手っ取り早い政策実現課題として、すぐさま政策に反映されるだろう(大阪がそのいい例)。
二度の選挙でいかに「風」によって政治が混乱し、生活が停滞させられたか(民主党政権は政・官・マスコミ一体になっての総叩きによる側面も全くないとはいえないが)、その反省の上に立って、来るべき総選挙での投票行動を考えたい。
これでいいのか、日本!(日本の政治!)
大阪の地域政党にすぎなかった維新の会は国政進出を決定し、衆院での過半数獲得を目指している。大政党を脅かすほどの影響力を持ち始めているが、今のところは橋下人気が頼りの政党だ。
次期衆院選公約としていた「維新八策」について、橋下氏は「公約ではない。政治は予想だにしないことが起きる。マニフェストのように細かなことを記す必要はない」との見解を示した。選挙で勝てば、具体的な政策についてはある程度の「白紙委任」が許される、とも取れる。
討論会を見ている限り、橋下氏の顔色をうかがうような人材ばかりだと、党内で多様な意見を戦わせることができないのではと、不安を感じた。にぎやかな演出に惑わされず、われわれをどこに導こうとしているのか、冷静に見極める必要がある。〈「神戸新聞」(9/10)〉
(追)
自民党の谷垣さん、総裁選出馬せず! その旨、ご本人が午前中に会見。しかし昼過ぎのワイドショー。まったくふれられもせず。どのチャンネルも「維新の会」の話に終始(1時過ぎまで)。まさに「去る者は追わず、来るものは拒まず」。打算と駆け引きの中で捨てられて「政治家」失格。が、「人間的には悪くはない」谷垣さんの最後の会見とマスコミの扱い。河野太郎のお父さんと同じ結末でした。
墨田区・両国から竪川の北側を東に向かう元佐倉道(旧千葉街道)は、中川(現・旧中川)を「逆井の渡し」で越え、現在の江戸川区小松川地域に入ります。そのまま北東に直進、「四股」で行徳道と交差して市川方向に進みます。
「逆井の渡し」付近は東京大空襲による壊滅的な被害を受けた後の街並みの整理・復興、竪川上の首都高の建設、北側の通りを通っていた都電(かつての城東電車)の撤去、荒川(放水路)スーパー堤防の建設などによって30年前、40年前の面影は全くありません。かすかに残る道筋と戦災の被害を生々しく伝える「元江戸川区役所文書庫」、浅間神社内に保存された都電のレールなどわずかで、旧千葉街道であったことを示す案内板が立てられていることで、昔の街道を偲ぶのみです。
「逆井の渡し」付近(明治13年)。すでに中川には橋が架けられています。西から来て橋を越えて北東への直線道が元佐倉道(旧千葉街道)、右上斜めに通る道が行徳道。「逆井(さかさい)」という地名は中川の北東側に見えます。
江東区・亀戸付近。右が竪川上の首都高の橋脚。
逆井橋。明治12年に橋が架けられ、「渡し」が廃止された。「渡し」跡の案内板は少し下流の江戸川区寄り(左岸)にある。右に渡り市川(北東方向)に向かった。
江東区側から。
「案内板」。風光明媚な場所だった、らしい。
街道は、逆井橋を渡って右に曲がり最初の角を左に曲がって北東に向かう。
道路沿いの案内板。
百日紅の並木道になっている。
行き止まり(荒川沿いの工事現場)近くの公園にある案内板。所々、親切に設置されている。
正面で行き止まり。
西側を望む。
「亀小橋」。かつて都電が中川を渡っていた。
「逆井橋」から「亀小橋」を望む。右手が江戸川区、左手が江東区。
橋の歩道上のモニュメント。
このあたりが都電の終点。
高速道路下。旧千葉街道もこの付近で北東に向かって一直線に進み、「四股」で行徳道と交差することになる。
「逆井の渡し」付近は東京大空襲による壊滅的な被害を受けた後の街並みの整理・復興、竪川上の首都高の建設、北側の通りを通っていた都電(かつての城東電車)の撤去、荒川(放水路)スーパー堤防の建設などによって30年前、40年前の面影は全くありません。かすかに残る道筋と戦災の被害を生々しく伝える「元江戸川区役所文書庫」、浅間神社内に保存された都電のレールなどわずかで、旧千葉街道であったことを示す案内板が立てられていることで、昔の街道を偲ぶのみです。
「逆井の渡し」付近(明治13年)。すでに中川には橋が架けられています。西から来て橋を越えて北東への直線道が元佐倉道(旧千葉街道)、右上斜めに通る道が行徳道。「逆井(さかさい)」という地名は中川の北東側に見えます。
江東区・亀戸付近。右が竪川上の首都高の橋脚。
逆井橋。明治12年に橋が架けられ、「渡し」が廃止された。「渡し」跡の案内板は少し下流の江戸川区寄り(左岸)にある。右に渡り市川(北東方向)に向かった。
江東区側から。
「案内板」。風光明媚な場所だった、らしい。
街道は、逆井橋を渡って右に曲がり最初の角を左に曲がって北東に向かう。
道路沿いの案内板。
百日紅の並木道になっている。
行き止まり(荒川沿いの工事現場)近くの公園にある案内板。所々、親切に設置されている。
正面で行き止まり。
西側を望む。
「亀小橋」。かつて都電が中川を渡っていた。
「逆井橋」から「亀小橋」を望む。右手が江戸川区、左手が江東区。
橋の歩道上のモニュメント。
このあたりが都電の終点。
高速道路下。旧千葉街道もこの付近で北東に向かって一直線に進み、「四股」で行徳道と交差することになる。
小名木川・旧中川合流点付近と荒川を結んでいた「小松川閘門」。すでに役目を終えて、元あった場所に埋もれたまま保存されています。大島小松川大島公園南のブロック「風の広場」の丘の上。
説明板。
この建物は、その昔、小松川閘門と呼ばれていました。
閘門とは水位の異なる二つの水面を調節して船を通行させる特殊な水門のことです。
川は、現在のように車などの交通機関が普及するまでは、大量の物資(米、塩、醤油など)を効率よく運べる船の通り道として頻繁に利用されました。
ここは、その船の通り道である荒川と旧中川との合流地点でしたが、たび重なる水害を防ぐために明治44年、荒川の改修工事が進められ、その結果、水位差が生じて舟の通行に大きな障害となりました。
この水位差を解消させるために昭和5年、小松川閘門が完成し、その後、車などの交通機関が発達して、舟の需要が減少し閉鎖に至るまでの間、需要な役割を果たしました。
本来、この閘門は、二つの扉の開閉によって機能を果たしていましたが、この建物はそのうちの一つで、もう一つの扉は現在ありません。
また、この建物も全体の約2/3程度が土の中に埋まっていて昔の面影が少ないのですが、今後、この残された部分を大切に保存して周辺地域の移り変わりを伝えるのに役立てる予定です。
この遺構は、旧中川側のもの。かつては、今の「荒川ロックゲート」付近にも「小名木川水門」があり、また、対岸の船堀側には荒川(放水路)と中川(放水路)を結ぶ「船堀閘門」がありました。これらによって、隅田川~小名木川~荒川~中川~新川という水運が開かれていました。
出典「歴史的農業環境閲覧システム」。
もともと荒川放水路が開削される以前(明治44年以前)は、江戸・隅田川(大川)から江戸川以東まで水運が盛んで、小名木川・中川・新川・江戸川・利根川と結ばれていました。
地図の左の水路が「小名木川」、中央の流れが「中川」、右下が新川、上から合流するのは小松川境川。
右の赤い線が「新川」、左の赤い線が「小名木川」。
左の○は、旧中川と荒川の間にあった「小名木川水門」の位置、右の○は、荒川と中川の間にあった「船堀閘門」の位置。
荒川と中川との間にあった「船堀閘門」が撤去されています(×のところ)。
現在は、「荒川ロックゲート」によって、旧中川(小名木川・隅田川 注:隅田川と小名木川とは「扇橋閘門」で結ばれている。)と荒川とは船で行き来できるのみです。なお「船堀閘門」の上部遺構は北区赤羽にある「荒川知水資料館」前に保存されている、とのこと。
頑丈な造りになっている。
上部。
全体像。かなり大型な建築物。
閘門遺構から西側を見る。正面は、旧中川と小名木川との合流点。小名木川は「塩の道」とも呼ばれていた。遠くに見えるのはスカイツリー。
旧中川の流れ。ずいぶんと浄化されています。
「荒川ロックゲート」旧中川と荒川の水位の差をなくして船を航行させる仕組み。2005(平成17)年完成。荒川側のゲート。
旧中川側。
ゲート間の水路。
ゲートから荒川を望む。対岸が船堀地区。かつて「船堀閘門」が荒川と中川との間にあったが、撤去された。首都高・橋脚下あたり。
説明板。開いている時間帯には施設内を見学できる。
「大島小松川公園」。広大な敷地。多目的広場や遊具アスレチック、ジョギング・サイクリングロードなどあり。
旧中川と荒川にはさまれた地域。かつては工場があり、船の接岸施設などもあった。この地域の北西側一帯(写真上では左側地域)は、昭和20(1945)年3月10日・東京大空襲で壊滅的な被害を受けた。
遠くに見えるのはスカイツリー。
説明板。
この建物は、その昔、小松川閘門と呼ばれていました。
閘門とは水位の異なる二つの水面を調節して船を通行させる特殊な水門のことです。
川は、現在のように車などの交通機関が普及するまでは、大量の物資(米、塩、醤油など)を効率よく運べる船の通り道として頻繁に利用されました。
ここは、その船の通り道である荒川と旧中川との合流地点でしたが、たび重なる水害を防ぐために明治44年、荒川の改修工事が進められ、その結果、水位差が生じて舟の通行に大きな障害となりました。
この水位差を解消させるために昭和5年、小松川閘門が完成し、その後、車などの交通機関が発達して、舟の需要が減少し閉鎖に至るまでの間、需要な役割を果たしました。
本来、この閘門は、二つの扉の開閉によって機能を果たしていましたが、この建物はそのうちの一つで、もう一つの扉は現在ありません。
また、この建物も全体の約2/3程度が土の中に埋まっていて昔の面影が少ないのですが、今後、この残された部分を大切に保存して周辺地域の移り変わりを伝えるのに役立てる予定です。
この遺構は、旧中川側のもの。かつては、今の「荒川ロックゲート」付近にも「小名木川水門」があり、また、対岸の船堀側には荒川(放水路)と中川(放水路)を結ぶ「船堀閘門」がありました。これらによって、隅田川~小名木川~荒川~中川~新川という水運が開かれていました。
出典「歴史的農業環境閲覧システム」。
もともと荒川放水路が開削される以前(明治44年以前)は、江戸・隅田川(大川)から江戸川以東まで水運が盛んで、小名木川・中川・新川・江戸川・利根川と結ばれていました。
地図の左の水路が「小名木川」、中央の流れが「中川」、右下が新川、上から合流するのは小松川境川。
右の赤い線が「新川」、左の赤い線が「小名木川」。
左の○は、旧中川と荒川の間にあった「小名木川水門」の位置、右の○は、荒川と中川の間にあった「船堀閘門」の位置。
荒川と中川との間にあった「船堀閘門」が撤去されています(×のところ)。
現在は、「荒川ロックゲート」によって、旧中川(小名木川・隅田川 注:隅田川と小名木川とは「扇橋閘門」で結ばれている。)と荒川とは船で行き来できるのみです。なお「船堀閘門」の上部遺構は北区赤羽にある「荒川知水資料館」前に保存されている、とのこと。
頑丈な造りになっている。
上部。
全体像。かなり大型な建築物。
閘門遺構から西側を見る。正面は、旧中川と小名木川との合流点。小名木川は「塩の道」とも呼ばれていた。遠くに見えるのはスカイツリー。
旧中川の流れ。ずいぶんと浄化されています。
「荒川ロックゲート」旧中川と荒川の水位の差をなくして船を航行させる仕組み。2005(平成17)年完成。荒川側のゲート。
旧中川側。
ゲート間の水路。
ゲートから荒川を望む。対岸が船堀地区。かつて「船堀閘門」が荒川と中川との間にあったが、撤去された。首都高・橋脚下あたり。
説明板。開いている時間帯には施設内を見学できる。
「大島小松川公園」。広大な敷地。多目的広場や遊具アスレチック、ジョギング・サイクリングロードなどあり。
旧中川と荒川にはさまれた地域。かつては工場があり、船の接岸施設などもあった。この地域の北西側一帯(写真上では左側地域)は、昭和20(1945)年3月10日・東京大空襲で壊滅的な被害を受けた。
遠くに見えるのはスカイツリー。
細野氏、首相に不出馬伝える…民主代表選(読売新聞) - goo ニュース
朝方の新聞社ニュース。「朝日」は出馬辞退、「讀賣」は出馬。正反対の記事がgooに掲載されました。それも同じ発信時間。細野さん、どうなっているの? 出る気なの? という感じでした。
フタを開けてみれば「朝日」の記事通り。何しろ朝日では2面まで使っての情勢分析。どうも読売の方が大誤報。早朝に配信した記事との整合性はどうなのか? それとも、言い訳がましい記事の編集にでもするのですかね。あいにく「讀賣新聞」は取っていないので、はたしてどういう落とし前をつけたのか、興味津々です。
自民党総裁選ではこういうことがないように。谷垣、石原、・・・、どうなっていることやら。今度は「朝日」が勇み足になることになったら、オモシロイですが・・・。ま、新聞ではよくあること。ニュースソースの信頼性の問題でしょう。ガセネタに飛びつくのも記者根性の一端?
そういえば、小沢さんが「竹島は韓国にあげる」、というような内容の韓国マスコミ発のガセネタを大々的に取り上げた日本のマスコミもあったようです。
朝方の新聞社ニュース。「朝日」は出馬辞退、「讀賣」は出馬。正反対の記事がgooに掲載されました。それも同じ発信時間。細野さん、どうなっているの? 出る気なの? という感じでした。
フタを開けてみれば「朝日」の記事通り。何しろ朝日では2面まで使っての情勢分析。どうも読売の方が大誤報。早朝に配信した記事との整合性はどうなのか? それとも、言い訳がましい記事の編集にでもするのですかね。あいにく「讀賣新聞」は取っていないので、はたしてどういう落とし前をつけたのか、興味津々です。
自民党総裁選ではこういうことがないように。谷垣、石原、・・・、どうなっていることやら。今度は「朝日」が勇み足になることになったら、オモシロイですが・・・。ま、新聞ではよくあること。ニュースソースの信頼性の問題でしょう。ガセネタに飛びつくのも記者根性の一端?
そういえば、小沢さんが「竹島は韓国にあげる」、というような内容の韓国マスコミ発のガセネタを大々的に取り上げた日本のマスコミもあったようです。
荒川河口より4.8㎞(江戸川区松島2丁目)、小松川大橋の北側、サイクリングロード沿いの「案内板」。その中に、
「旧千葉街道と行徳街道」
現在、江戸川区北部を横切る旧千葉街道は、明治8(1875)年に千葉街道と改称されるまでは、元佐倉道と呼ばれていました。現在の小松川大橋と中堤の接点付近で、行徳街道と十字に交差し、そこは四股(よつまた)と呼ばれて交通の要所であり、生活の中心地でもありました。しかし、四股とその周辺の地域は大正2(1913)年に荒川放水路の開削により水没しました。四股近くの行徳街道には橋が架けられていましたが、この橋の一部は2つの道標とともに現在も保存されています。
とあります。
明治13年から17年にかけて作成された「古地図」によれば、はっきりと「四股(四つ又)」という地点が分かります。しかし、交差地付近には民家も少なく(集落は平井・小松川村側にある)、田んぼの中の「十字路」(大正時代になると、役場や学校、道沿いに商家があった、ということです:江戸川区教育委員会「江戸川区の史跡と名所」より)。行徳街道はここから少し道が広くなっているようです。
出典「歴史的農業環境閲覧システム」
まだ荒川放水路(荒川)が開削されていなかった当時の地図(明治13年作成)。現在の小松川大橋の北、荒川と中川との中堤に位置する。南西から北東に進むのが「元佐倉道」(千葉街道)。北西から南東に向かうのが「行徳道」(今井街道)。元佐倉道は中川(地図の西方)を「逆井の渡し」で渡り、行徳道は「平井の渡し」で渡りました。元佐倉道(旧千葉街道)は、南西に進むと両国、東北に進むと市川へ。行徳道(今井街道)は、北西に進むと浅草、南東に進むと行徳へ。ちょうど「四股」はそれぞれへのほぼ同じくらいの距離に位置していたようです。地図の右(東)に流れる川は、小松川境川(現在は親水公園)。
旧千葉街道と船堀街道の交差点近く。「八蔵橋」。
橋近くにある「元佐倉道」の説明板。
四股にあった「橋」の遺構部分が、これ? 上記・荒川沿いの「案内板」にも同じものが掲載されている。実は、まったく別のもののようで、本物は違う場所に保存されている、らしい。その現物は、旧千葉街道近くの個人宅の中にあるため、確認できず。
八蔵橋から中川までが「五分一通り」。
五分一通り(元佐倉道)東側を望む。
日光街道・千住の宿より分岐した水戸街道(陸前浜街道)から新宿(葛飾区)で分岐した街道が「佐倉道」。それに対して、この道が「元佐倉道」と称されたと思われます。
中川土手から八蔵橋までは、昔ながらの街道筋になっています。
中川にぶつかると、直角に道が曲がるのがきわめて不自然で、荒川・中川放水路の開削によって「元佐倉道(旧千葉街道)」が分断されたことが分かります。
松江橋近くにある「行徳道」についての案内板。それによると、もともとの道はこの橋の下流の「椎橋」を通っていた、という。
「椎橋」。当時の「行徳道」。
首都高橋脚下。少し左に曲がってそのまま直進する狭い道筋。
元の「行徳道」。突き当たりが、中川の土手。今、このあたり、首都高小松川線と中央環状線とのインター設置計画が浮上、またまた大きく様変わりしそうです。すでに土地の買収が始まっています。
行徳道。現在の「今井街道」。この道の南に沿って城東電車(後に市電・都電)が走り、廃止後は、この道にトロリーバスが走っていました。城東電車江戸川線(東小松川~今井)が廃止されてすでに60年近く、上野公園~今井間のトロリーバスが消えてからも既に40年以上が経過しました。
「四股」の橋の遺構の他に、秋元邸内と川野邸内には四股にあった「道標」が保存されている、とのこと。
その一つ。秋元さんのおうちの前の説明板。全く薄くなり読み取りにくくなってしまって、残念。道標はお庭にあるようです。
銘文には、「大山石尊大権現 此の向キ市川道 秩父三峯山大権現 此の向キ浅草道 讃州金毘羅大権現 此の向キ行徳道 遠州秋葉大権現 此の向キ両国道」と四面(北東・北西・南東・南西方面)と銘記されている、とのことです。文化2年建立。
左手が「秋元邸」。
高速道路下、正面の草地あたりがかつての「四股」付近。
遠くにスカイツリー。その向こうに浅草がある。「平井の渡し」を越えた「行徳道」は、スカイツリー近く、北十間川沿いの道(一部は現在の「浅草通り」と重なる)につながっていた、らしい。
2010年代のようす。○が「四股」付近。
「旧千葉街道と行徳街道」
現在、江戸川区北部を横切る旧千葉街道は、明治8(1875)年に千葉街道と改称されるまでは、元佐倉道と呼ばれていました。現在の小松川大橋と中堤の接点付近で、行徳街道と十字に交差し、そこは四股(よつまた)と呼ばれて交通の要所であり、生活の中心地でもありました。しかし、四股とその周辺の地域は大正2(1913)年に荒川放水路の開削により水没しました。四股近くの行徳街道には橋が架けられていましたが、この橋の一部は2つの道標とともに現在も保存されています。
とあります。
明治13年から17年にかけて作成された「古地図」によれば、はっきりと「四股(四つ又)」という地点が分かります。しかし、交差地付近には民家も少なく(集落は平井・小松川村側にある)、田んぼの中の「十字路」(大正時代になると、役場や学校、道沿いに商家があった、ということです:江戸川区教育委員会「江戸川区の史跡と名所」より)。行徳街道はここから少し道が広くなっているようです。
出典「歴史的農業環境閲覧システム」
まだ荒川放水路(荒川)が開削されていなかった当時の地図(明治13年作成)。現在の小松川大橋の北、荒川と中川との中堤に位置する。南西から北東に進むのが「元佐倉道」(千葉街道)。北西から南東に向かうのが「行徳道」(今井街道)。元佐倉道は中川(地図の西方)を「逆井の渡し」で渡り、行徳道は「平井の渡し」で渡りました。元佐倉道(旧千葉街道)は、南西に進むと両国、東北に進むと市川へ。行徳道(今井街道)は、北西に進むと浅草、南東に進むと行徳へ。ちょうど「四股」はそれぞれへのほぼ同じくらいの距離に位置していたようです。地図の右(東)に流れる川は、小松川境川(現在は親水公園)。
旧千葉街道と船堀街道の交差点近く。「八蔵橋」。
橋近くにある「元佐倉道」の説明板。
四股にあった「橋」の遺構部分が、これ? 上記・荒川沿いの「案内板」にも同じものが掲載されている。実は、まったく別のもののようで、本物は違う場所に保存されている、らしい。その現物は、旧千葉街道近くの個人宅の中にあるため、確認できず。
八蔵橋から中川までが「五分一通り」。
五分一通り(元佐倉道)東側を望む。
日光街道・千住の宿より分岐した水戸街道(陸前浜街道)から新宿(葛飾区)で分岐した街道が「佐倉道」。それに対して、この道が「元佐倉道」と称されたと思われます。
中川土手から八蔵橋までは、昔ながらの街道筋になっています。
中川にぶつかると、直角に道が曲がるのがきわめて不自然で、荒川・中川放水路の開削によって「元佐倉道(旧千葉街道)」が分断されたことが分かります。
松江橋近くにある「行徳道」についての案内板。それによると、もともとの道はこの橋の下流の「椎橋」を通っていた、という。
「椎橋」。当時の「行徳道」。
首都高橋脚下。少し左に曲がってそのまま直進する狭い道筋。
元の「行徳道」。突き当たりが、中川の土手。今、このあたり、首都高小松川線と中央環状線とのインター設置計画が浮上、またまた大きく様変わりしそうです。すでに土地の買収が始まっています。
行徳道。現在の「今井街道」。この道の南に沿って城東電車(後に市電・都電)が走り、廃止後は、この道にトロリーバスが走っていました。城東電車江戸川線(東小松川~今井)が廃止されてすでに60年近く、上野公園~今井間のトロリーバスが消えてからも既に40年以上が経過しました。
「四股」の橋の遺構の他に、秋元邸内と川野邸内には四股にあった「道標」が保存されている、とのこと。
その一つ。秋元さんのおうちの前の説明板。全く薄くなり読み取りにくくなってしまって、残念。道標はお庭にあるようです。
銘文には、「大山石尊大権現 此の向キ市川道 秩父三峯山大権現 此の向キ浅草道 讃州金毘羅大権現 此の向キ行徳道 遠州秋葉大権現 此の向キ両国道」と四面(北東・北西・南東・南西方面)と銘記されている、とのことです。文化2年建立。
左手が「秋元邸」。
高速道路下、正面の草地あたりがかつての「四股」付近。
遠くにスカイツリー。その向こうに浅草がある。「平井の渡し」を越えた「行徳道」は、スカイツリー近く、北十間川沿いの道(一部は現在の「浅草通り」と重なる)につながっていた、らしい。
2010年代のようす。○が「四股」付近。
四ツ木橋から荒川河口まで約8㎞。快適なサイクリングロードが続きます。中川と荒川の中堤、高速道路下の道は、段差があって走りにくいが、左右両岸の景色がすばらしい。荒川の河川敷の方は、快適。両方の道を下りたり上ったりで楽しめます。
河口。左の中川の堤はまだ先まで続いて、葛西臨海公園近くまで、サイクリングができますが、荒川はここが河口。中川との合流点。上流を望む。橋の向こう遠くに、スカイツリー。
明治時代に荒川放水路が出来て、中川もそれに沿って並行して流れるようになった。荒川によって分断された中川(江戸川区・墨田区の区界)は、旧中川として残っています。
左奥に「葛西臨海公園」の観覧車が見えます。左手が中川。
大きな「テトラポット」を身近に見るのも、久々。親子連れが生き物を採集していました。このあたりは、海水が混じっている、らしい。海の一部ということ。
案内板。管理が「小名木川出張所」となっているのは興味深い。
対岸(江東区夢の島)の風景。
サイクリングロード。自転車、歩き、ジョギングとけっこう人々と行き交います。日陰で休んでいる人も・・・。
「清砂橋」。荒川下流の橋にはこういうかたちのものを見かけます。江戸川区小川区清新町と江東区砂町を結ぶ。
江戸川競艇場。中川にある。
開催日ではなかったので、一艇だけ走行していました。
1955(昭和30)年8月初開催。江戸川区にある競艇場ということから江戸川の名を冠しています。現在、全国で唯一、河川の水面を利用した競艇場。河口に近い位置にあるので水質は海水。川の流れと上げ潮や下げ潮による水位の影響を受け、全競艇場の中で屈指の難水面として知られている、とのこと。中堤から無料観戦できる。
荒川の対岸。正面にあるのが、旧、中川と荒川を結ぶ「水門」。「荒川ロックゲート」。パナマ運河のような仕組みになっています。その奥に見えるのが、スカイツリー。
荒川河川敷の水辺公園。水辺の自然を残しています。橋脚は、都営新宿線。
葦の原。木道なども設置されています。
河口。左の中川の堤はまだ先まで続いて、葛西臨海公園近くまで、サイクリングができますが、荒川はここが河口。中川との合流点。上流を望む。橋の向こう遠くに、スカイツリー。
明治時代に荒川放水路が出来て、中川もそれに沿って並行して流れるようになった。荒川によって分断された中川(江戸川区・墨田区の区界)は、旧中川として残っています。
左奥に「葛西臨海公園」の観覧車が見えます。左手が中川。
大きな「テトラポット」を身近に見るのも、久々。親子連れが生き物を採集していました。このあたりは、海水が混じっている、らしい。海の一部ということ。
案内板。管理が「小名木川出張所」となっているのは興味深い。
対岸(江東区夢の島)の風景。
サイクリングロード。自転車、歩き、ジョギングとけっこう人々と行き交います。日陰で休んでいる人も・・・。
「清砂橋」。荒川下流の橋にはこういうかたちのものを見かけます。江戸川区小川区清新町と江東区砂町を結ぶ。
江戸川競艇場。中川にある。
開催日ではなかったので、一艇だけ走行していました。
1955(昭和30)年8月初開催。江戸川区にある競艇場ということから江戸川の名を冠しています。現在、全国で唯一、河川の水面を利用した競艇場。河口に近い位置にあるので水質は海水。川の流れと上げ潮や下げ潮による水位の影響を受け、全競艇場の中で屈指の難水面として知られている、とのこと。中堤から無料観戦できる。
荒川の対岸。正面にあるのが、旧、中川と荒川を結ぶ「水門」。「荒川ロックゲート」。パナマ運河のような仕組みになっています。その奥に見えるのが、スカイツリー。
荒川河川敷の水辺公園。水辺の自然を残しています。橋脚は、都営新宿線。
葦の原。木道なども設置されています。
辺見さんの出身地が昨年の3月11日の大震災で壊滅した。その時まで行き来し、親しんでいた故郷。多くの人の命を奪い、懐かしい土地を一瞬うちに奪い去られたという現実の「出来事」への言語による痛切な総括。未来への言葉を紡ぐため自らを励ましながら、屈折した思いを語る。
特に震災後の言論界が詩人も小説家も評論家も自己規制のもとで画一的な言動を吐いていることへの厳しい批判、ともすればそれに屈服してしまいそうな自らをも「叱咤激励」しながら言論活動。脳出血で倒れ、ガンに冒されまだまだ不自由な身体とも対峙しながら「闘う」作者のすさまじい「思い」をひしひしと感じる。
以前から気になって読み進めていた作者であった。続けざまに病で倒れ、死というものに否応なしに向き合ってきた作者の言論活動。昨年の東日本大震災、福島第一原発事故、その直後、なすすべもなく右往左往した政治、経済・・・。それが人ごとではなく、自らのこれまでの生き様、言論戦への「総括」にもつながっていく、という視点。
「よいひと」吉本隆明の言動批判、堀田善衛「方丈記私記」の記述作法批判など、また桜本富雄さんの文学者の戦争責任追求の諸作に関わって、震災以降の言論状況が新たなファシズムを内包していることへの指摘、さらには自身の詩集「目の海」にもふれながら渾身の(といっては失礼だが)の「パンセ」。「思い」とは、「思」であり「想」であり、人を含む生きとし生きるものへの「愛」(根源的な)である。
『パンセ』(仏: Pensées)。晩年のブレーズ・パスカルが書きつづった断片的なノートを彼の死後に編纂して刊行。「パンセ」とは「思想」「思考」の意。初版は、1670年。
多様性(人間の欲望の構造、個人と共同体の問題、他者の存在によって想像的な自我が生ずること、認識と視点・言語との関係、テキスト解釈の問題、等々)をもち、鋭く重要で深遠なテーマが扱われている。「人間は考える葦である」・・・。
辺見さんが自らの著作に「パンセ」と名付けた意味もそこにある。
特に震災後の言論界が詩人も小説家も評論家も自己規制のもとで画一的な言動を吐いていることへの厳しい批判、ともすればそれに屈服してしまいそうな自らをも「叱咤激励」しながら言論活動。脳出血で倒れ、ガンに冒されまだまだ不自由な身体とも対峙しながら「闘う」作者のすさまじい「思い」をひしひしと感じる。
以前から気になって読み進めていた作者であった。続けざまに病で倒れ、死というものに否応なしに向き合ってきた作者の言論活動。昨年の東日本大震災、福島第一原発事故、その直後、なすすべもなく右往左往した政治、経済・・・。それが人ごとではなく、自らのこれまでの生き様、言論戦への「総括」にもつながっていく、という視点。
「よいひと」吉本隆明の言動批判、堀田善衛「方丈記私記」の記述作法批判など、また桜本富雄さんの文学者の戦争責任追求の諸作に関わって、震災以降の言論状況が新たなファシズムを内包していることへの指摘、さらには自身の詩集「目の海」にもふれながら渾身の(といっては失礼だが)の「パンセ」。「思い」とは、「思」であり「想」であり、人を含む生きとし生きるものへの「愛」(根源的な)である。
『パンセ』(仏: Pensées)。晩年のブレーズ・パスカルが書きつづった断片的なノートを彼の死後に編纂して刊行。「パンセ」とは「思想」「思考」の意。初版は、1670年。
多様性(人間の欲望の構造、個人と共同体の問題、他者の存在によって想像的な自我が生ずること、認識と視点・言語との関係、テキスト解釈の問題、等々)をもち、鋭く重要で深遠なテーマが扱われている。「人間は考える葦である」・・・。
辺見さんが自らの著作に「パンセ」と名付けた意味もそこにある。
古賀氏、谷垣氏の協力要請拒否=「若い人を支援」―自民総裁選(時事通信) - goo ニュース
まさに「つぶやき」です。政治の世界は冷酷無比ですね。自分たちの栄耀栄華のために、大将の首はいとも簡単に取られてしまう、という現実。自民の流れはこれで「維新」との連立政権づくりとなっていきます。イシハラが出てくるのか。
その後、どういう政治体制になるのか。維新にはふわぁっとした気分だけで支持が集まる、けっして自民党にはない。「庇を貸して母屋をとられる」という構造に。
まさに「つぶやき」です。政治の世界は冷酷無比ですね。自分たちの栄耀栄華のために、大将の首はいとも簡単に取られてしまう、という現実。自民の流れはこれで「維新」との連立政権づくりとなっていきます。イシハラが出てくるのか。
その後、どういう政治体制になるのか。維新にはふわぁっとした気分だけで支持が集まる、けっして自民党にはない。「庇を貸して母屋をとられる」という構造に。
葛飾区役所の通りから立石駅方向への道。
このあたりにもサクラの並木があり、緑道風の道が続きます。小間物屋さんなどちょっとしたこじゃれた商店が並んでいます。左手に少し見えるショー・ウィンドーは「タカラトミー」。
青戸方向から来た水道(すいどう)道に合流。このあたり、以前は石屋さんの土地になっていて、区役所へ行くのに少し迂回していました。
水道(すいどう)道に沿って。左側の歩道。このあたりは、かなりごみごみした街並み。京成線の高架工事とも関連して「再開発計画」が持ち上がっています。反対運動の幟などもちらほら。立石は古くから商店街など賑わったところ(「ハイボール」「酎ハイ」の発祥の地?)。街おこしのイベントがさかんに行われています。
京成線の踏切付近から北側を望む。
用水路は左に向かい、立石大通り方向へ。
立石大通り(奥戸街道)際、「大道橋」跡。「大道橋」と記された柱が残っています。
大通りを越えて進みます。
桜並木が続きます。
用水路跡は駐輪場になっています。その案内板に「古道橋」という記載がありました。
これがその橋があったところ。「立石大通り」は律令制時代からの「古道」。市川の国府台までほぼ一直線でつながっています。しかし、ここに「古道橋」という橋名があることは、この東西に続く道がもともとの「古道」? 残念ながら、西は渋江公園で遮られ、東は民家になってしまい、昔の古道(直線道路)だったかどうかは、不明でした。左の角は「菊島小児科医院」。
用水路跡の緑道はほぼ直線で木根川方向に続きます。
木根川方向から立石方向を望む。
車が時々通りますが、両側を木に覆われた静かな道。途中には児童館や児童公園などがあります。
正面が綾瀬川。遠くに見えるのはスカイツリー。上は首都高の橋脚。このあたりは、高速道路の建設などで大変化し、元々の水路(跡)は確認できず。
この付近の今昔。
1880年代のようす。 2010年代のようす。上方に葛飾区役所。下方に京成立石駅。
このあたりにもサクラの並木があり、緑道風の道が続きます。小間物屋さんなどちょっとしたこじゃれた商店が並んでいます。左手に少し見えるショー・ウィンドーは「タカラトミー」。
青戸方向から来た水道(すいどう)道に合流。このあたり、以前は石屋さんの土地になっていて、区役所へ行くのに少し迂回していました。
水道(すいどう)道に沿って。左側の歩道。このあたりは、かなりごみごみした街並み。京成線の高架工事とも関連して「再開発計画」が持ち上がっています。反対運動の幟などもちらほら。立石は古くから商店街など賑わったところ(「ハイボール」「酎ハイ」の発祥の地?)。街おこしのイベントがさかんに行われています。
京成線の踏切付近から北側を望む。
用水路は左に向かい、立石大通り方向へ。
立石大通り(奥戸街道)際、「大道橋」跡。「大道橋」と記された柱が残っています。
大通りを越えて進みます。
桜並木が続きます。
用水路跡は駐輪場になっています。その案内板に「古道橋」という記載がありました。
これがその橋があったところ。「立石大通り」は律令制時代からの「古道」。市川の国府台までほぼ一直線でつながっています。しかし、ここに「古道橋」という橋名があることは、この東西に続く道がもともとの「古道」? 残念ながら、西は渋江公園で遮られ、東は民家になってしまい、昔の古道(直線道路)だったかどうかは、不明でした。左の角は「菊島小児科医院」。
用水路跡の緑道はほぼ直線で木根川方向に続きます。
木根川方向から立石方向を望む。
車が時々通りますが、両側を木に覆われた静かな道。途中には児童館や児童公園などがあります。
正面が綾瀬川。遠くに見えるのはスカイツリー。上は首都高の橋脚。このあたりは、高速道路の建設などで大変化し、元々の水路(跡)は確認できず。
この付近の今昔。
1880年代のようす。 2010年代のようす。上方に葛飾区役所。下方に京成立石駅。
安倍元首相が5日に勉強会発足へ…発起人61人(読売新聞) - goo ニュース
「問責決議」に賛成したのは「評判が悪くて・・・」程度の認識の自民党執行部。国民をバカにするにもほどがあります。しかし、口先での反省の弁であることはご本人も重々承知。次の総選挙では首相の座がくっついてくるに違いない「総裁」のイス。ここに来て、俄然盛り上がってきた、国会審議は拒否したままで。
あわよくばもう一度の方、出戻りながら頑張ってる方、はたまた在野で苦しんだ派閥の領袖・・・、いずれも原発や安保では「タカ」の保守派ばかり。「維新」のご意向では、アベさんが筆頭。というわけで、マスコミ、どのTVも新聞も自民党総裁選へシフト。してやったりの御仁は誰かしら。
「出たい人より出したい人を」なんてとっくに死語ですな。自薦・他薦・新・旧こもごも。何しろ「選挙に勝つ顔」という一点のみでの選択肢。「大阪維新」にもいい顔が出来る人、という条件付き。
待てよ、麻生さんの時も選挙に勝てる顔ということで選んだはず。それが瞬く間に失言・漢字知らず・飲み過ぎで、あっという間に機を逸してぼろぼろ。結局、民主党にボロ負け。まして、今回は自分たちで選挙日程を決定できない、という弱みを抱えている。
それでも、総裁=内閣総理大臣(位、人臣を極める)の座が転がり込んできそう、ここで立たねば・・・。政治家の本懐、ここで一気に勝負といきましょう。海千山千の御仁が立候補、今や、乱立気味。マスコミは、いっそう、おもしろおかしく取り上げる。
一方で、民主党。ボロ負けして野党転落の代表になってもいいという奇特な方もいなさそう。野田さん、責任を取って続けるしかない。その点で、与野党(当選目当てで維新詣でのあげく右往左往している方々)のいい加減、無節操な連中よりも「骨」があります。ま、それだけでは、首相の器だとは、むろんいえませんが。
いずれにしても、マスコミの思惑通りに事が進むか。国民の目は、それほど節穴ではないと信じたい。
しかし、天下国家の行く末を語り、行動するリーダー的存在のはずだった「政治」家が経済学者(小泉のブレーンで今のはちゃめちゃな世の中の因を招いて、しかも全く反省無しの方)や評論家(中途半端な政治的活動好みの方)などから「維新」党の候補者として立候補できるかどうか、採点評価される世の中なのだから、変わったといえば変わりましたな。昔「軍隊」今「維新」ですか。
「問責決議」に賛成したのは「評判が悪くて・・・」程度の認識の自民党執行部。国民をバカにするにもほどがあります。しかし、口先での反省の弁であることはご本人も重々承知。次の総選挙では首相の座がくっついてくるに違いない「総裁」のイス。ここに来て、俄然盛り上がってきた、国会審議は拒否したままで。
あわよくばもう一度の方、出戻りながら頑張ってる方、はたまた在野で苦しんだ派閥の領袖・・・、いずれも原発や安保では「タカ」の保守派ばかり。「維新」のご意向では、アベさんが筆頭。というわけで、マスコミ、どのTVも新聞も自民党総裁選へシフト。してやったりの御仁は誰かしら。
「出たい人より出したい人を」なんてとっくに死語ですな。自薦・他薦・新・旧こもごも。何しろ「選挙に勝つ顔」という一点のみでの選択肢。「大阪維新」にもいい顔が出来る人、という条件付き。
待てよ、麻生さんの時も選挙に勝てる顔ということで選んだはず。それが瞬く間に失言・漢字知らず・飲み過ぎで、あっという間に機を逸してぼろぼろ。結局、民主党にボロ負け。まして、今回は自分たちで選挙日程を決定できない、という弱みを抱えている。
それでも、総裁=内閣総理大臣(位、人臣を極める)の座が転がり込んできそう、ここで立たねば・・・。政治家の本懐、ここで一気に勝負といきましょう。海千山千の御仁が立候補、今や、乱立気味。マスコミは、いっそう、おもしろおかしく取り上げる。
一方で、民主党。ボロ負けして野党転落の代表になってもいいという奇特な方もいなさそう。野田さん、責任を取って続けるしかない。その点で、与野党(当選目当てで維新詣でのあげく右往左往している方々)のいい加減、無節操な連中よりも「骨」があります。ま、それだけでは、首相の器だとは、むろんいえませんが。
いずれにしても、マスコミの思惑通りに事が進むか。国民の目は、それほど節穴ではないと信じたい。
しかし、天下国家の行く末を語り、行動するリーダー的存在のはずだった「政治」家が経済学者(小泉のブレーンで今のはちゃめちゃな世の中の因を招いて、しかも全く反省無しの方)や評論家(中途半端な政治的活動好みの方)などから「維新」党の候補者として立候補できるかどうか、採点評価される世の中なのだから、変わったといえば変わりましたな。昔「軍隊」今「維新」ですか。