おやじのつぶやき

おやじの日々の暮らしぶりや世の中の見聞きしたことへの思い

丸谷才一さん死去。

2012-10-14 17:21:37 | 読書無限
 丸谷才一さんがなくなりました。87歳。ここでも丸谷さんの作品(といっても、随想ばかりですが)をいくつか取り上げています。追悼の意味を込めて。再録。


『人魚はア・カペラで歌ふ』文藝春秋(2012.3.4投稿)
 これほど己の嗜好に合はせ、ものせる方は稀有な存在です。本文中にもあるやうに、その基本は、人間的関心がなせる技(術?)。古今東西、その(人間的)関心の広がりと深さはとどまるところを知らず、ただただあきれるばかり。あきれるといつても飽きがくるといふのではなくて、ますます興味関心を持たせられるほどといふこと。
 事物へのこだはり、そこに薀蓄を傾ける情熱と執念にああ脱帽、といふ感じですか。
 取り上げる題材は、まさに「雑学」。野坂昭如さんが昨日だかに、朝日新聞に投稿してゐて久々に読みましたが、病いにある方とは思へない、鋭い舌鋒でした。野坂さんにおほくを望めない今、丸谷才一さんが「雑学」にプラスして「ゴシッ(ここはツにはならないのです)プ」「冗談」の3点セットで自らのたまふところの「雑文」を、失礼、随想を書かせたら第一人者でせう。ただの教養主義に陥らず、きちんとした文明批評になつてゐるのですから。
 人間、いくつになつても貪欲なほどの知識欲、好奇心が「生きる」ことには、一番必要なことでもあるでせうから。
 この「随想集」、2009年4月号から2011年9月号まで「オール読物」に掲載されたもの。この間に政権交代、東日本大震災といふ歴史的事件に遭遇したにもかかはらず、一言も触れずひたすら「避けて通つて」いるふりをしてゐます。
 「帝国」の行方とか「歴史の書き方」とか「小股の切れ上がつたいい女」とかの考証にひたすら「うつつを抜かし」てゐることに読者はどう感じるか、それを百も承知の上で、丸谷さんはお書きになつてゐるのです。
 目をとほしたところ、二箇所のみ。「われわれは今、日本国が前代未聞の変なことになつて、自民党も駄目なら民主党もいけない。大国難に際会してると感じ、古風なメシア信仰にすがつてゐるのである。何だかかはいさうな日本人」(P251)「アニメとカラオケとパチンコしか文化がないのに、もうすぐ亡びさうな国もある」(P357)。
 ぽんと投げ込まれたこの表現をどう読み解くか、読者に突きつけられてゐます。もちろん、一笑に付すもよしですが、はたして・・・。
 ところで、この方の小説で「裏声で歌へ君が代」といふ台湾独立運動をベースにしたものがあります。発端が、たしか営団地下鉄(東京メトロ)の新御茶ノ水駅、あの長く深いエスカレータを彷彿させる場面での邂逅だつたのが、印象的でした(つまらない感想ですが)。
 実は、裏声それ自身は、なかなかテクニックの必要な、地声では出しにくい高音部の発声方法らしい。大阪では、教員たちは、起立するだけでなく、口を動かして歌つているかどうかが校長・教頭によつてチェックされたさうです。
 どうせならとてつもない「裏声」で「君が代」を歌ふといふのは、いかがでせう。「たつた一人の反乱」であつても起こす。地声ではないことに意味がありますから。亡くなつた忌野清志郎さんにすばらしい変調・君が代がありました。さうなると、今度は、ピアノ(大方は、ピアノだと思ふ)伴奏にきちんと合はせて唱和しろ!といふ職務命令が出されることになるでせう。
 もうぢき90歳に手が届きさうなこの方。生涯、文人としての気概を持つて現役宣言、といふ趣の書でした。


『人間的なアルファベット』講談社(2010.6.8投稿)
 ふう!やっと「読書100」。本を読むということは、なかなか進まないものですね。もちろん、他にも何冊か読んでいますし、ここに載せるものも少しは残っていますが、やっと到達した、記念すべき100冊目はこの書に決定。お年を召しても、いまだにどん欲な読書三昧、文章を「ものす」、ペダンティックな丸谷さんの心意気に、心からの敬意を表して。
 まさに「人間」そのものの発露である色好みエッセンス。柔らかくエッチな(ホントは堅くなければ役には立たない)話をそれを柔らかくオブラートに包むことで、かえって芯をときめかす、その手練手管でまたまた煙に巻く・・・、丸谷ワールド(悪~度)です。
 和田誠さん。この方は、先日惜しくもお亡くなりになった井上ひさしさんの戯曲本の装幀をよくなされたことで、小生には親しみ深い方。今回も洒脱な味わい深いものを「ものし」た。実に古今東西、蘊蓄の傾け方が並ではない。どうやってこれだけの書物を繙くことが出来るのか? 普通ならこの年、ご自分の眼で活字を読み通すことは至難の業になってもおかしくないのに・・・。 
 こうしてまた新たな、ためになる?知識を得ることになったのですが・・・。年老いても日々に新た!これがまた残り少ない人生を楽しくさせる。中身は談論風発、つい夜中過ぎまで一気に読み通してしまった、おかげで興奮したまま、なかなか眠れないのだ。
 こういう軽い(実は深い)口語体には、旧仮名遣いはちと合わなかった! でも丸谷さんの真骨頂がそれにあるのだから仕方がないか。


『ゴシップ的日本語論』文藝春秋(2005.5.30投稿)
 「ゴシップ的日本語論」(丸谷才一)より一節を紹介します。この中で、丸谷氏は鳥居民氏の著書を引用されながら、昭和天皇の言語能力について書かれています。
 「昭和史は、昭和天皇の言語能力といふところから攻めてゆけば、かなりよくわかつてくる。そのことをどうしてしないのか。一国の基本のところにあるものは言語問題なんです。
 たいていの国の元首とか総理大臣は、信頼する将官や政治家、学者を招いて食事を共にする習慣があるものである。つまり、社交をすることによって情報を得たり教訓を得たりする。文明国ならば、たいていの国の元首はみんなやつてゐることです。
 ところが昭和天皇の場合、すくなくとも戦前がさういふ習慣はまつたくなかつた。他人との親密なコミュニケイションといふ経験は一度もなかつた。これはまあ、無理もないといへば無理もないのでして、天皇家にはかういふふうに首相とか参謀総長とかに親しく語りかけて詳しく論じ合ふやうな伝統はまつたくないわけですね。
 天皇の言語生活の伝統はどういふものであつたかといふと、宣命といふ和文体の勅語を口で言ふ。口で言つたかどうかもだいたい怪しいのであつて、これはみんな女房たちが書いたのぢゃないかといふ説もあるくらゐです。それから和歌を詠む。この二つが天皇の言語生活であつた。
 とすれば昭和天皇は、あの家柄において突如として政治向きの言語生活を要求された非常にかはいさうな方であった。
 昭和天皇が皇太子であつた時代の教育がいかに貧弱なものであり、欠陥の多いものであつたかといふことからいささか思ひ出されることがあります。昭和二十年八月十五日の例の玉音放送ですね。あの声の出し方が変だつたでせう。あれは昭和史の本には誰もが書いてゐていろんな形容が使つてあります…、なぜあんな異様な声の出し方をするのかといふことは、わたしは好意的に、この人はマイクを使つたことがないからだなあといふやうなことを考えてをりました。日本人は誰でもマイクを使つたことはないのだから、かういふふうになるのかなあなんて思つた。かなり好意的でしたねえ(笑)。
 そしてすぐ戦後のころ日本中を巡幸なすつた。そのときに、何を言はれても天皇は、『ア、ソウ』としか答へなかつた。なかでも有名なのは、九州にいらしたときに、『あれが阿蘇山でございます』と県知事が言つたとき、『ア、ソウ』と言つたといふ話がある(笑)。」
 丸谷氏に言わせれば、昭和天皇の孤立した生き方とコミュニケイションの不足による言語能力の低さのせいで、情報が手に入らなかった上に、政府と軍との意見が分かれたときに、口を出すことを回避する方になってしまった。そこに、日本の敗因(敗因のなかには戦争を起こしたことも含まれるが)の重大な一つとして、昭和天皇の言語能力の低さがあげられるとしています。丸谷氏は、これは昭和天皇個人を攻めることはできない、明治憲法をはじめ一国の言語がシステム的におかしかったとしています。
 他にも評論家・小林秀雄の文章を何だか分からない明治憲法みたいだとこき下ろしたり、実に痛快な内容になっています。
 少し前の作品ですが、携帯電話インターネット大流行の今、ますます軽くなる言語表現を改めて考えてみるのもいいのではないでしょうか。
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古代東海道の跡をたどる。その2(「上小岩遺跡通り」)

2012-10-13 16:25:43 | 歴史・痕跡
 「立石様」付近を通る道のどれが古代東海道かは定かではない。
 「立石」を動かして祟りがあったとか、石に霊験があり削られたりしたなど、地元民から長く尊崇されたものであったため、「石」そのものの位置が古代からさほど変わっていないとは思うが・・・。
 室町時代以降、中川の流路変更や新田開発などによって、このあたりは大きく変貌する。「奥戸の渡し」の位置に大きな変化がなかったとすれば、現在の「奥戸橋」付近にあたる。さらに、中川を越したあたりも古代道を正確には分からない。しばらく進むと、環七を越え、奥戸小あたりから、はっきりとした直線道路が「京成小岩駅」踏切以東にまで延びている。明治以前には一部、南に迂回する道筋の方が顕著だったが、それも本来の直線道に改修されている。
 現在、この道路は、柴又街道付近まで道路の拡幅整備工事が盛んに行われ、用地買収も進んでいる。かつて古代人の東西往復道としてにぎわったであろう「官道」が、今また便利な葛飾区南部の東西を貫く幹線道路として蘇ってきている。実に歴史のおもしろさを感じる。
 「古代東海道」は、柴又街道を過ぎると、「上小岩遺跡通り」と名付けられた直線道としてそのまま京成線の踏切を越え、「岩槻街道」と交差、しばらく行くと、江戸川堤防手前の寺院のところで突き当たりになる。
 この先、どの地点で江戸川を越したのか? 「小岩市川関所(渡し場)」はしばらく南下したところに位置する(のちの佐倉道あるいは岩槻街道を利用)。対岸の市川には「駅家(うまや)」があった。そのすぐ北側は湿地帯、その北が国府台(和洋女子大、千葉商科大等がある一帯)。一直線のままで川を越えていったわけではなかったようだ。
奥戸橋付近。「立石様」からの東に向かう道の一画。
奥戸橋から東を望む。
葛飾区立奥戸小学校前の道。整備拡幅工事も完了。
「新金貨物線」の踏切。「立石大通踏切」とある。新金線の踏切名には旧「街道」名が目立つ。かつての通りの名称が残されていて興味深い。
新中川を越えると、拡幅工事のための用地が続く。「東用水」との交差付近。
石碑。近年建てられたもの。
「東 小岩 下総国府へ至る 西 隅田 武蔵国府へ至る」。この道標は南側に迂回していた道の傍らにある。「小岩用水」との交差付近。
西側を望む。石碑には「五堰跡」と記され、「上之割用水から小岩用水が分かれ五番目の堰」とある。
「愛国学園」脇の道。直線化されるまで、長年用いられていた道。正面奥が今の「古代東海道」跡としての現在の道路。
「小岩用水」に架かっていた橋の跡。「末広一橋」。
「上小岩遺跡」説明板。柴又街道を過ぎると「上小岩遺跡通り」となる。

 上小岩遺跡は、区内で最も古く大きな遺跡とされ、現在の北小岩6、7丁目付近と推定されています。この地域はもとの上小岩村にあたることから遺跡名を上小岩遺跡とよんでいます。
 上小岩遺跡は、昭和27年に当時の小岩第五中学校の生徒が自宅裏の用水路から土器片を発見し、同校の中村教諭に連絡したことからその存在が知られるようになりました。その後、中村氏らの調査によりこの遺跡が古墳時代前期(今から1600年前)を中心とする低地の集落遺跡であることがわかりました。
 出土品は、弥生時代中期のものが発見されており、古墳時代前期の土器類が中心です。とくにS字状の口縁をもつ台付カメが大量に出土したほか、土錘も多く出土し、半農半漁の生活をしていたことがうかがえます。・・・          昭和63年3月 江戸川区教育委員会
 
 「土錘」とは「魚を捕る網に使った土のおもり」のこと。区域としては「上小岩遺跡通り」(古代東海道)が踏切を過ぎ、もう少し東に進んだあたり、北側一帯のようだ。

〈参考〉「エドルネ日記」様のブログより。

◎平成23年度 江戸川区郷土資料室 文化講演会文化講演会 平成24年3月10日(土)「上小岩遺跡が語る 卑弥呼の頃の江戸川区」
 上小岩遺跡捜査団長とし遺跡捜査にあたった熊野正也(江戸川区文化財保護審議会会長)氏の講義です。
 上小岩遺跡は、倭の女王卑弥呼のころから古墳時代前期にかけての生活跡であることが推測され、現時点で東京低地における最も早い人間活動の痕跡とのことでした。しかし、、住居跡などの遺構が発見されておらず、定住し集落が営まれたか、短時期ごとに移動して生活をしていったのかなど、解明が待たれる問題があります。

江戸川区文化講演会「上小岩遺跡が語る 卑弥呼の頃の江戸川区」資料より引用。縄文中期以降、海退が進み、沖積化による陸域が形成され、縄文時代が過ぎると人々は砂州、微高地を選び住み始めます。江戸川右岸、国府台に面した上小岩遺跡は、上の図の黒丸のあたりで、微高地となっています。

 上小岩遺跡の出土品にS字状口縁というものがあるのですが、その分布が興味深かったです。S字状口縁は愛知県尾張地方で制作された独自の土器で、その土器がまとまって出土したことは、当時たいへん注目されたそうです。
 専門家のなかに「S字状口縁はパイオニアの土器」と評する人もいて、弥生以降、東京低地が沖積化して陸域ができたからといって、下総台地や武蔵台地の人々が低地に降りてきたという単純な状況をしめすものではなく、東海地方の開拓者によって開拓されていったという考え方もあり、S字甕出土は、東海地方と深い関わりがうかがえるというお話でした。

京成小岩駅東の踏切より西を望む。
西を望む。
「岩槻街道」との交差点。正面奥(千葉街道方面)に延びる道が岩槻街道。
正面が突き当たり。
ここが「上小岩遺跡通り」の終点。
住宅地を横切る、どこまでもまっっすぐな道。
明治13年頃の古地図。中央の道が「岩槻街道」右に見える道が「佐倉道」。東西の道(「古代東海道」)はその交差地点あたりで不明確になっている(右に折れて南に向かう道も何となくあるようだが)。右中央が「小岩市川の関所」付近。右の川が江戸川。「上小岩遺跡」はちょうど道が不明確になるあたりの北側の区域。
対岸(千葉県・「下総国」側)。湿地帯の北に台地状に張り出しているのが「国府台」。下総国府のあったところ。
 「市川関所跡」の説明板には、「江戸時代以前の江戸川は太日川(ふといかわ)と呼ばれていた。奈良・平安時代には井上駅家(いかみのうまや)がおかれ、都と下総国を往来する公の使いが渡し船と馬の乗りかえをおこなった」とある。
 その点から、「古代東海道」は江戸川(太日川)右岸(西側)を南下し「小岩市川の渡し」(江戸時代の名称)付近で渡河していたと考えられる。渡った後は北上して国府に向かったのだろう。
 年代が下って、平安時代。『更級日記』では、父の任官が終わって「上総」から「京」に上る旅では「そのつとめて、そこをたちて、しもつさの國と、武藏との境にてある太井川といふが上の瀬、まつさとのわたりの津に泊まりて、夜ひと夜、舟にてかつがつ物などわたす・・・」とあり、「まつさと」(現松戸)で下総から武蔵に渡ったというふうになっている。 
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東京スカイツリー。展望デッキ。展望回廊。「魚力」。

2012-10-11 21:48:42 | つぶやき
 10月9日(火)。連休明けの今日ならきっと空いているだろう、とスカイ・ツリーに。空模様も、まあまあ。9時30分到着。「天望デッキ」へは、20分待ちで。「天望回廊」には、40分待ちで。お一人様・計3,000円。安いとみるか高いとみるか。
 思えば、「東京タワー」。完成してしばらくした頃、親に連れられて一度しか行った記憶がない。それ以後、「東京タワー」というと、松本清張の「鬼畜」という映画でのワン・シーンがえらく印象に残った(記憶に間違いがなければ)。
 さて、まったくの更地の頃から完成するまで、その「成長」ぶりを地べたから眺めてきた「スカイツリー」。いかがなものか? 
 思ったよりも小学生などの子供連れが多い。聞くともなしに耳にすると、子供の「運動会」の振り替え休みだ、とか。親は休暇をとって。あとは小生くらいのじいさん、ばあさんたちが、大勢(余談だが、今「TSUTAYA」ではシニア―60歳以上―対象に、1日1本無料貸し出しキャンペーン中。ここでは、シニア料金は設定されてはいなかった)。
 外国人観光客の姿は、ほとんど目につかないほど。中国語・韓国語はまったく聞こえてこなかった。「スカイツリー」も観光シーズンなのにあてがはずれているのでは、と余計な心配。
 エレベーターも快適、あっという間に到着。耳がつーんとするも、ほんの一瞬。景色は見事。特に「天望回廊」。ぐるっと回りながらの眺めは、最高451.2mの展望。
 富士山や筑波山など周囲の山々が霞んで見えなかったのは、残念。しかし、まあまあの視界。東西南北、よく見渡せた。目の下の景色も意外に高度感があった。でもそのうち、既視感(デジャブ)。特に直下の景色。そう、最近、調べついでによく利用する「Gooole Earth」の世界。 だんだんインターネットの画像を今度は実体験する、というようになってしまって、景色が「パソコンと同じだ!」・・・。向こうは、対象にどんどん近づけるが、こちらは、そうはいかない。しかし、下界に動くものが、たくさん・・・。ここが、貴重な唯一の大違いですな。
 東京タワーでは望遠鏡があって、それを覗いた記憶があったが、ここにはそういうものは置かれていなかった。じっくりフェンスにもたれて下界を見下ろす、空を見上げる、ということは出来そうだが・・・、結局、ぞろぞろ歩いている感じ。「あっちが家のあたり、あれが高砂橋、東京タワー、都庁、浅草寺、あれが出身高校、あのあたりが勤め先、あの人が住んでるマンション、あの川は、あの建物は・・・」、とその方向の景色を見ながら、ご近所話しに花が咲く。
 まったくこの土地に見ず知らずの観光客は、どういう面持ちなのだろう。名古屋に行っても(駅前の高層ビル)、京都(比叡山あたり)に行っても、長崎(何とかいう山)でもどこでも、展望台に上がってあそこは何々、あそこは何々、と地元の方に解説されても、今ひとつピンとは来ない。
 そういうわけで、2時間30分ほどの充実した「展望体験」でした(待ち時間込みで)。
 次回来るとすれば、夕方か夜間にしよう、と思った。「Gooole Earth」ではぜったいに実現しない体験だから。
 昼飯は、2階に下りて『魚寅』にしようかどうしようかと迷ったが、結局、『魚力』の生しらす丼+サンマのお寿司。食べ過ぎ!
エレベーターホールの天井。照明が変化。
展望デッキより目の下。大横川親水公園。
新宿・都庁方向。
上野方向。
言問通り。
こんな感じで展望を楽しむ?
「展望回廊」へのエレベーターの表示。
「400㍍」。
エレベーター。上る空間が見える。皆、見上げる。
隅田川。
展望デッキの屋上部分。
最高到達点451.2mの表示。
隅田川上流方向。
北十間川。亀戸方向。
桜橋。
江戸一目図屏風。
ほどほどの混み具合だった。
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「維新」への気負い過ぎがとんだ方向に

2012-10-10 00:17:26 | つぶやき
「大日本帝国憲法が現存」請願に賛成 東京維新の会(朝日新聞) - goo ニュース
 ここまでくると、自民党などの「自主憲法」制定路線よりも超過激。今や「明治維新」の壮士に自らの身をなぞらえ、心身が高揚しているからといって、今も日本(国民)は「大日本帝国憲法」下にあるとする、とは。
 民間人が己の信念に基づいて議会に請願するのはかまわないが、都議会議員でしかも「日本維新の会」の地方組織(議員団)の構成員が請願の紹介者になっているのは、何をか言わんや。この御仁、以前は自民党都議だった。その何とかの会に所属している議員には、民主党を離党したメンバーもいるはず。
 「日本国憲法は占領憲法で国民主権という傲慢(ごうまん)な思想を直ちに放棄すべきだ」。今の「象徴天皇制」はナンセンス、戦前の「天皇主権」という立場こそが絶対正しいのだ、ということ。
 占領(押し付け)憲法を破棄して自主憲法を制定すべき、というのがアベさんやイシハラさんたちの考え。その焦点は、「憲法9条」にある(もちろん、「天皇元首」も想定している)。それをあっさり越えて、「国民主権」を傲慢な思想だとして真っ向から否定。(他の報道記事によると、請願の文面は旧仮名遣いで実に仰々しいものだったらしい。)
 現憲法は、形式的(法的)には旧憲法の改正ということで成立したが、国会に於ける「改正」議論の中で、「天皇主権」という規定を「国民主権」という内容に変更させることが法的に可能かどうか法学者の間で論争が生じた、その一方の側の立場のようだ。
 橋下さん、傘下組織の今回の行動を許容するおつもり。が、国会議員のパフォーマンスを嫌ったお方のはず。まして、「憲法」改正論議という国民生活の根幹をなす事柄について、あいまいにはしておけない、と思う。 
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「鹿骨親水緑道」。谷河内1丁目。千葉街道~京葉道路。(「小岩用水」跡をたどる。その3)

2012-10-09 19:32:43 | 河川痕跡
 千葉街道を越えて南下する「小岩用水」跡。東側にある「柴又街道」とほぼ並行して進みます。このあたりは、かつては田園地帯。田畑に供給する「水路」も縦横に走っていました。「小岩用水」も分岐したり、江戸川からの新たな水路ができたりとはっきりと本流の流路が特定できません。
 すでに明治13年作成の地図でも開発による農業環境をとりまく変化があるように見えますが、特に、戦後の農地解放や統合・区画整理などでかなり流路が変わっています。その傾向は、昭和22年と昭和38年の航空写真との比較でも顕著です(あぜ道などが込み入った田畑の整然とした区画整理状況は、昭和38年の航空写真ではっきりとします)。
 その後、さらに都市人口の流入・増加によってそれまでの農地が宅地化され、それに伴う道路や区画の整備によって流路の変更・廃止(道路化など)がありました。京葉道路以南は昭和38年の航空写真でもほとんどが区画整理された田畑となり、今は、いっそうびっしりと住宅地になっています(道路はその当時の道をそのまま道路化したようで、碁盤の目のように整然となっています)。現在もなお、区画整理の進行している地域が「柴又街道」沿道周辺などに見られます。
 近年、農業用水としての役割を終えて、次第にどぶ川化していった旧水路を、下水道の完備とともに江戸川区では整備し、「親水緑道」として、流れの復活再生事業を積極的に行ってきました。JR小岩駅周辺やその以南にはそうした緑道が多くあります。
 さて、南下した「小岩用水」跡の行方はどうなっていったでしょうか。
 西側を流れていた「東用水」の跡は「鹿本通り」として京葉道路まで続き(その先も)ます。「小岩用水」は、現在の京葉道路手前でそれに合流していた、さらに越えて南西に延びていた、また、少し上流の方で南東の方向へ何本にも分岐し、最終的には旧「江戸川」に注いでいた、などと幾通りか考えられます。
明治13年作成の地図。「旧江戸川」下流付近に注いでいる水路。中央斜めの道は「篠崎街道(市川橋西詰付近で「岩槻街道」に)」。北西からの流れは、「東用水」? 北東からの流れが「小岩用水」(からの分岐水路)? 現在の南篠崎5丁目、江戸川1丁目付近。
千葉街道を越えて街路樹のあるほぼ直線の道になる。
平日の午後のせいか車の往き来は少ない。
来た道を振り返る。
「鹿骨(ししぼね)親水緑道」の案内。ここから親水緑道に。
「興農親水緑道」。旧江戸川から引いた水路跡。
「鹿本親水緑道」。「小岩用水」と「東用水」とを結んでいた水路跡。
「本郷親水緑道」。「篠崎公園」内。戦後に造成。江戸川と鹿骨用水(小岩用水)とを結ぶ。
「鹿見塚」の「説明板」。

 この鹿見塚のある神社は昔から鹿骨発祥の地といわれている。伝説によるとこの地は昔戦国時代の頃、 興亡のはげしい世の中を離れ、 安住の地を求めて石井長勝・牧野一族・田島一族・中代一族および別系の石井一族が開拓し住みついた所といわれる。ある日のこと日頃尊崇している鹿島大神が、常陸の国から大和の奈良に向かう途中、大神の杖となっていた神鹿が急病で倒れたので、塚を築きねんごろに葬った所だと伝えられている。
 昭和四十二年八月氏子中によって碑が建てられた。台座はコンクリート三段組で高さ九八・碑石は高さ八一・幅五二・厚さが一三(単位センチメートル)あり表面に「鹿骨発祥の地 鹿見塚」と刻まれている。鹿見塚神社は昭和四十八年に再建築されたものである。
                                     昭和五十二年十一月         江戸川区教育委員会

 このことについて、「発祥の地コレクション/鹿骨発祥の地」(hamadayori.com/hass-col/timei/Sisibone.htm)には次のようにある。
 
 鹿骨東小学校の南に「鹿見塚神社」があり, その境内に「鹿骨発祥の地・鹿見塚」という石碑が建っている。また 神社の鳥居横には 江戸川区教育委員会の建てた 説明板がある。「鹿骨」は この辺りの地名で「ししぼね」と読む。説明板に書かれた文章は 誤解を招きかねない書き方になっている。
 奈良時代(8世紀)、 藤原氏によって奈良の春日大社が創建されるに際して、常陸の鹿島神宮から分霊されたが、その際に多くの神鹿を引き連れておよそ1年かけて奈良まで行ったと言い伝えられており、 その途中、鹿が死んだためこの地に葬った。これが「鹿骨」の地名の由来。
 戦国時代(16世紀)になって, 石井長勝や牧野一族などが この地の開拓に入って住みつき, 発展の基礎を築いたとされる。
 この二つのことを一緒に書いたために 話が混乱している、と。
 
「鹿骨親水緑道」の一画にある「親子の鹿」像。
車道と区分された緑道。並木の木陰が心地よい。
「流堀親水はなのみち」。水流に泳ぐ鯉。「小岩用水(鹿骨用水)」から分かれて「東用水(現・鹿本通り)」に結ぶ水路跡。
「はなのみち」にふさわしく草花が水路に沿って。「曼珠沙華」の赤い花も。
左の通りが「鹿本通り」。右からの道は水路跡。なお、「鹿骨親水緑道」はもう少し北側の「鹿本通り」を越えて南下していったようにも見えるが、昭和22年の航空写真では、「鹿本通り」(東用水)と交わっている、現在の「鹿骨親水緑道」になぞらえる水路は存在していなかった。
 戦後の農地改革、それ以降の農地整理、区画整理などによって「小岩用水」など、近辺地域のでの流路変更、新たな用水路の設置など盛んに進められた可能性がある。昭和22年時点では、この水路跡の方が本来の「鹿骨用水」(「小岩用水」の分水?)のようだが。
「谷河内(やごうち)1丁目」。京葉道路と鹿本通り、「鹿骨親水緑道」に囲まれた三角形の土地。昔から集落のあったところのようで、家々の路地もかつての農道のよう。また、ハウス栽培や畑がある。周りの宅地開発の中にあって、まだかつての懐かしい田園風景が残っている(かつてこの周辺は区画整理された田畑が広がっていた。今回行く前は、周囲の田んぼに比べて小高い丘陵のようなイメージがあった。実際は、「谷」「河」の「内」という名称のごとく、江戸時代中期頃、谷あいの湿地帯を開墾した土地。「椿」や「新堀(荒堀)」も同じ頃開墾された、と「江戸川区」関連の資料にあった。)
明治13年作成の地図。まとまった集落であることが分かる。中央上から右下への水路が「東用水」。「京葉道路」によって南北に分かれてしまった。南西には「椿村」。
ハウス栽培。この一画の道は昭和22年、38年の航空写真でもほとんど変化がなく、現在もそのまま。曲がりくねった農道・広いあぜ道の面影がある。
畑地。新しい住宅も多いが、道は昔のまま。
住宅地を抜ける道。

 
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「鎌倉かなえ通り」。中央通り。千葉街道。(「小岩用水」跡をたどる。その2)

2012-10-08 17:26:44 | 河川痕跡
 京成線の線路脇から「小岩用水」跡が続きます。「鎌倉かなえ通り」としてJR小岩駅方向に。ほとんどが道路。途中、「小岩用水」跡の標識があるくらい。
モニュメントから南を望む。
「小岩用水」の変遷・沿革が記された説明板。ただし、葛飾区が設置したもののため、区内の部分のみ紹介し、北部の小合溜井(水元公園)からの流れの図が掲示されている。
モニュメント。「水曼荼羅」。
「鎌倉かなえ通り」。広い道路ですが、交通量はそれほど多くはなかった。京成線の北側もそうですが、幹線道路に直接つながっていない(東側には「柴又街道」あり)ためか。
葛飾区内最古の道・東海道(古道)との交差点。現在、東武・鐘ヶ淵駅付近から四ツ木・立石を経由し、京成小岩駅付近まで確認できるほぼ直線の道。正面奥が小岩方向。
明治13年の地図。この付近は後の時代になって耕地などの関係か、道が南側に迂回していることが分かる。昭和40年代まではそのままだったが、近年、本来のまっすぐな道筋に改修された。
振り返って鎌倉方向を望む。
「愛国学園」の手前。「小岩用水」跡の標識。すぐ近くには「祠」がある。
蔵前橋通りとの交差点付近から、北側を望む。
蔵前橋通りからJR小岩駅方向。にぎやかな商店街・「中央通り」となる。
総武線ガードをくぐったあたり。
 JR「小岩駅」周辺は、戦後、急速に住宅が増え、大きな人口をかかえる町になった。駅前広場から千葉街道まで、長いアーケードのある商店街も出現し、今でも賑やかな商店街として存在している。一方、このあたり。昭和22年の航空写真では「小岩用水」の水路が隠れ、その上に商店が建ち並んでいるように写っている。その後、昭和38年の航空写真では、その部分が道路となって現在に至っている。
千葉街道との交差点付近から駅方向を望む。
千葉街道との交差点。正面左に進む道が「千葉街道」。この先で、「蔵前橋通り」と合流する。昔のままに一直線の道路。
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「東用水せせらぎ通り」。鹿本(しかもと)通り。「西小岩親水緑道」・・・。(「東用水」跡をたどる。)

2012-10-06 23:21:10 | 河川痕跡
 高砂付近で「西用水」を分岐した「東用水」はそのまま南下します。途中、細田あたりでは「せせらぎ通り」となり、JR「小岩」駅方向へほぼ直線で進みます。「東用水(東井堀)」は、葛飾区から江戸川区に入ると、「鹿本通り」となって、JR「小岩」駅と「新中川」の間にある高架線をくぐります。
 小岩地区には、かつての用水路が親水緑道として整備され、小さな流れの続く小道が住宅地の間を抜けています。JR「小岩」駅界隈は戦後まもなく住宅地として開け、駅に通じる商店街も発展してきました。小岩駅東側のガード下の通りは、新宿の「大堰枠」で「東用水」と分岐した「小岩用水」路の跡。
高砂橋通りから南に向かいます。
車道と区別された道。緑がほとんどなく、流れで水遊びをするスタイル。ただし、水が目や口に入ったらよくすすぐようにとの注意書きが、多々、掲示されています。
かつて架かっていた「橋名」がプレートに記されています。「穂高橋」。
中にはこんな橋も。「無名橋」。
「東用水せせらぎ通り」。
途中で葛飾最古の道「古代の東海道」と交差します。環七・奥戸方向を望む。
京成小岩駅方向を望む。ほぼ一直線の道。
農業用水として機能を果たしていた。今でも水路沿いの一部には農地が広がっています。ちょうど刈入れどき。
もともとはほぼ直線で幅の広い水路でしたが、道路の中央にゆるやかな流れを模してつくられています。「せせらぎ」をはさんだ東西の道は車の一方通行になっていて、せせらぎ通りを安心して歩くことができます。
ここまでが「東用水せせらぎ通り」。高砂方向を振り返る。
「鹿本通り」という案内板。
通りのところどころに植え込みや並木が目立ちます。「奥戸街道」(立石大通り―東海道古道の一部―・奥戸橋経由)との交差点名は、「東井堀」となっています。
「西小岩親水緑道」。奥戸街道から蔵前橋通りを越えて新中川までの区間。
説明板。江戸川区の積極的な取り組みがうかがわれます。かつて生活用水で汚れきっていた「どぶ」の清流への変身です。
JR総武線の高架線をくぐって「鹿本通り」(「東用水」跡)は、南下していきます。
「下小岩親水緑道」。小岩駅方向に進んでいきます。
案内。江戸川区の「親水公園」は、木々も多く、流れには魚もいる、さらによく整備されてい、て落ち着いた静かな緑道歩きが楽しめます。
西のはずれ。流れ口。「小岩ポンプ場」南側。
住宅地の中を流れていきます。家の中から親子の会話もきこえてくる、そんな小道です。
 「東用水」跡は「鹿本通り」として「二枚橋」、「西之橋」を経由していきます。「鹿本通り」とは江戸川区と葛飾区との区界から京葉道路までの通り(「東水路」跡)の名称。「鹿本」という名の小・中学校は新中川をはさんだ西側にあり、新中川に架かる橋の名が「鹿本橋」(鹿骨街道)。 鹿骨付近で現在の「一之江境川親水公園」に通じていた水路を分岐するなど、かつては江戸川南部の農村地帯の水をうるおす大事な水路でした。まだまだ探索は続きます。
京葉道路側からの「鹿本通り」。
やや中央の北西から南東に流れる水路が「東用水」斜めに横切る道は「元佐倉道(旧千葉街道)」。右上、斜めに流れる水路が「小岩用水」。

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一之江境川親水公園~都営新宿線「一之江駅」(「中(仲)井堀」跡をたどる。その3)

2012-10-05 19:07:10 | 河川痕跡
 「仲井堀」は現在はほとんどが道路として残っていますが、一之江付近では親水緑道として存在しています。
高速道路方向を望む。
左の土手は、新中川。水路はここで右にカーブします。新中川開削の影響はあまりなく、昔のままのカーブのようです。右からの道路、本来はそのまま左(北東)方向に続いていた道ですが、新中川開削によって寸断されました。
新中川の土手から南を望む。新中川に沿った道路が「仲井堀通り」。
来た道を振り返る。
しばらく行くと、親水緑道になります。ただし「仲井堀」と「中」が「仲」に変わっています。「中井堀」あるいは「仲井堀」「中居堀」などという言い方はあちこちにあるようです。
「中居堀」は、墨田区・向島に。曳舟川(葛西用水)から分岐した流れです。
道路の脇に流れがあります。その流れ沿いには桜並木。 
すぐ西側は幹線道路の「環七」ですが、ここは車の通りも少なく、生活道路といった感じ。奥戸の「中井堀」跡の道路と雰囲気が似ています(歩道と車道が区分されて緑が濃い分、こちらの方がより「用水路」跡といえますが)。
一之江側の親水緑道入り口の表示。
「環七」交差点近く。右が環七の陸橋。
交差点の南側。「中(仲)井堀」は交差点を過ぎて少し西に折れ、さらに葛西工業付近を通って南西に下っていきます。その跡の探索は、また後に。
「環七・一之江陸橋」。
明治13年作成の地図。急角度で折れているのが「中用水(中井堀)」。中央の流れは現在の「一之江境川親水公園」。「中用水」も「西用水」と同様、土手道として一之江地域の先まで続いていたようです。現在でも、奥戸から一之江まで、けっこうな道のりです。
 新中川・環七・JR総武線・・・、かつてのほぼ直線だった水路(跡)は変わらなくても、いざたどるとなると、けっこうな回り道をせざるを得なくなりますが。
 高砂で「西用水」を分岐した「東用水」。「大堰枠」で「東用水」と分岐して南下する「小岩用水」(正式名称は?)。それぞれ、その流れの跡はどうなっているのでしょうか? そして、江戸川区内の「一之江境川」、「小松川境川」・・・、まだまだ探索する道筋はたくさんありそうです。意外な発見も・・・。
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江戸川区・菅原橋~一之江境川。(「中(仲)井堀」跡をたどる。その2)

2012-10-04 19:16:01 | 河川痕跡
 「菅原橋交差点」は千葉街道の他、「同潤会通り」、「仲井堀通り」、「鹿骨街道」とが交差する地点。「中(仲)井堀」は、そのまま南東に下り、新中川をかすめながら環七「一之江交差点」にまで続きます。途中から親水緑道になります。
「仲井堀」は「菅原橋」交差点から南に下ります。菅原橋方向を望む。
明治13年作成の地図。「歴史的農業閲覧システム」参照。上方が「菅原橋」交差点。斜めに通る道が「元佐倉道(旧千葉街道)」。左(西)に見える水路が現在の「小松川境川親水公園」。この水路は曲がりくねっていますが幅も広く、土手道になっていたようで、奥戸方向からの道(「西用水」から途中で分かれています)と合流して南下し、小松川方向に向かっていました。中川(古利根川)以東の地域の南北を結んでいた通りだったようで、こちらの方が「小松川街道」である可能性も・・・。
この辺は、かつての田園地帯。水路が分岐して広がっていきます。右側に進む細い道もかつての水路跡。大杉1丁目付近。
古地図ですとほぼ直線ですが、現在はわずかながら左右にカーブして、一直線で望むことはできません。所々、道の傍らに「仲井堀通り」という標識あり。
通り沿いには旧家が多くあり、古めかしい家・屋敷がちらほら。これは、昔の長屋門をかたどったしゃれた建物。
大きな庭を持つ農家が目立ちます。
京葉道路にぶつかって、用水(跡)はそのまま向かい側・斜めに進みます。
京葉道路と環七とに囲まれた一画。まだ現役の畑地が残っています。
水路脇あるいは元の水路が土地化され、そこに何軒もの家が細長く並んで建っています。
「環七」から来た道を望む。道の右側に整然と家が並んでいます。
高速道路橋脚下近く。「一之江境川親水公園」の北東の外れ。かつては「仲井堀」と交差していました。よく用いられた「サイフォン」の原理に基づく「乗越(のっこし)」か逆サイフォンの原理での「伏越(ふせこし・ふせごし)」の仕組みだった。古地図を見る限りでは、「一之江境川」の方が「乗越」でクロスしていたようですが・・・。この「境川」とは東・西一之江村の境の川というところから来ているようです。
現在は豊富な水量が勢いよく吹き出しいます。この用水は新中川開削のため、北東側と切り離されてしまいましたが、まだ新中川の対岸に水路跡が残っています。水路は葛飾区・奥戸方向(おそらく「東用水」)から伸びてきていたわけです。


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葛飾区・奥戸~江戸川区・菅原橋(「中井堀」跡をたどる。その1)

2012-10-03 22:54:22 | 河川痕跡
 高砂駅北西付近で「東用水」と分岐した「西用水」は南下してしばらくすると、また二手に分かれます。東の用水を「中井堀」と称したようです。新中川によってその分岐点は今は不明となっていますが、新中川を越えて、「西用水(西井堀)」の東側をほぼ並行して南下していきます。「新小岩駅操車場」の東のはずれ、「新金貨物線」がカーブして本線に合流するあたりで鉄橋の下を流れていました。しばらく進み、「菅原橋」(元佐倉道・旧千葉街道)から南に向かっていきます。どんな痕跡が残っているか?
明治13年当時の地図。右下のところで、「西」と「中」とに分かれている。中川の旧水路(広大な河川敷)で囲まれたところは、現在は「環七」が通り、周囲は葛飾区の野球場、温水プールなどのあるスポーツ施設や消防庁の災害訓練場などになっています。下方に見えるカーブした道は、葛飾区内最古の「古代の道」の一部。このあたりは、中川(古利根川)の氾濫流域のため、道は複雑に曲がっていますが、マクロ的に地図を見ると、もともと、西から東へほぼ一直線の道になっています。
環七と新中川にはさまれ、この道沿いにある「区立奥戸小学校」脇に設置されている説明板。
「古代東海道」(武蔵の国府―府中市―・平城京―奈良市―~下総の国府―国府台―、常陸の国府)の跡。大化の改新以後、国内の道路整備の一環として、宝亀2(西暦771)年に制定された道路だという。現在も隅田川・東武線鐘淵駅付近から、葛飾区内を東西に貫く道として江戸川・京成小岩駅付近まで、その跡をたどることができます。
新中川。このあたりで「西」と「中」に分岐していたようです。
新中川方向を望む。
車の往来の激しい「環七」の一本東側の道。広い道ですが、住宅や営業所、お寺などのある静かな道になっています。
環七との合流近く。水路だった面影はありません。
「環七」に突き当たり、その角地にある思いがけず広くて整った広場。
そこから振り返って来た道を望む。
「環七」と蔵前橋通りとの交差点「総武陸橋下」。元々の水路は斜め左から右上に続いていました。
斜めに渡ったところ。水路跡はそのままJR総武線の方向へ。「案内板」にはこのまままっすぐ行くと「都立小岩高校」へ700㍍で着くかのような表示。
ところがここで行き止まり。さて線路の向こうに行くのは・・・。
 向こう側(南側)に渡る通路はまったくこの付近にはありませんでした。「総武陸橋」は幅の広いJR線を越えるため、長く、急で、高い陸橋。自転車用のレーンもなさそう。たくさんの車が通過するので、その脇を上って行くのはかなり怖いものが・・・。歩道橋はありますが、階段のみ。それも急で、見上げるほどの高さ。
 自転車を通す幅状のものもなく、自転車で行くには上りも下りも担いで上がるしかない! 参った、参った! 後は西に進み、「小松橋」を渡るか、新小岩駅近くでガードをくぐるか、さもなければ・・・。しばしあたりをうろついたあげく、しかたなく自転車をかついで上りました。折り畳み自転車(軽量でも10㎏あり)をたたんでやっこらさ。見ると、普通のママチャリを担いで上っている強者が・・・。
 何とかならないものでしょうか? 環七にはこういう自転車では通りにくい交差点・陸橋があります(足立区内にもあり)。
菅原橋。横切るのは「元佐倉道・旧千葉街道」。水路はまだまだ南東に進み、「一之江」方向へ。
菅原橋近くの「小松川境川親水公園」入り口付近。水しぶきを上げて勢いよく流れ落ちていました。「小松川境川」は、東西・小松川村の境に流れる川だったようです。ちなみに「一之江境川」は、東西・一之江村の境となった流れ。
せせらぎ公園風。よく整備された親水公園になっています。ここからほぼ南方向に。平和橋通り、旧千葉街道、京葉道路、首都高・小松川線などを通り抜けて延々、中川・荒川まで、親しみやすくすてきな緑道になっています。
案内図。
 「小松川境川」用水は、明治以前から幅も広く土手道もあったようで、中川以東の南北道(奥戸からの道を合わせ、新宿・奥戸地域と小松川地域を結ぶ)として農作物などの物流や人の往き来も多かったことを広い道幅で感じさせます。「小松川街道」は、こちらの道を指していたのか?
菅原橋付近。斜め一直線の水路が「中井堀」。左の曲がった水路が現在の「小松川境川親水公園」の北側一部。中央の広い道は「元佐倉道(旧千葉街道)」。
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世襲制。家業としての政治家商売。

2012-10-02 21:11:59 | つぶやき
中川秀直氏、引退へ 元自民幹事長、次期衆院選出馬せず(朝日新聞) - goo ニュース
 もうこうなると、社会現象です。自民党議員の引退宣言。福田さんもこの方も、他の方も後任は、実の息子たち。形式的には「公募」などとうそぶいているが、内実は、この通り。自民党の総裁候補者たちも5人とも二世、三世。ますますその傾向に拍車がかかる。かの森さんは不幸にも壮年の息子さんが亡くなって、気の毒ですら。民主党にも何人もいそうだし・・・。共産党と公明党くらいですか、世襲でないのは。
 実業界だけでなく、TV界でもスポーツ界も親子何代というのが目立ちます。けっして「売り家と唐様で書く三代目」にだけはならないように。
 「唐様で」云々は、このブログ三回目の登場。
 苦労知らずの三代目のお坊ちゃん。初代が苦労して築き上げた財産・信用をすっかり忘れ(二代目までは何とか親の苦労が分かっている)、贅沢三昧、芸事や遊び事にうつつをぬかし、家業をないがしろにし(こういうときに厳しく小言を言う番頭もすでになく、「お友達」ばかり集まってくる)、そのうち財産をすっかり使い果たして、ついには家・屋敷を手放すはめに。が、「売り家」の文字は見事な「唐様」で書くというプライド(「教養」なんてものじゃない)だけはすごい!
 アベお坊ちゃまも危ない、危ない。3,500円の特注の「カツカレー」を召し上がって選挙に臨んだ「お大尽」。これだって自分の分だけ払ったんのではなくて、一族郎党の分までおごった(はず)。学生時代、お坊ちゃまの家庭教師だったらしい平沢さん、ここで何とか忠告して下さい。
 この際、いっそのこと、古典芸能の歌舞伎や落語界のように(あるいは古い商店のように)「襲名制」にし、「三代目岸信介」とか「三代目鳩山一郎」とかにすれば、ご本人も自覚し、名前負けしないよう努力するかも知れない(悪いイメージが強すぎて、かえってダメ!)。
 歌舞伎役者や落語家は襲名することで、俄然、芸に磨きがかかることがほとんど。なかには ? なのもいますが・・・。かの世界、若くして才能のある人物を養子縁組にしたり、師匠が徹底して弟子を訓育するなど、跡を絶やさぬように自他共に並々ならぬ努力をしています。それに比べて政治家家業は、せいぜいおやじの秘書を付け焼き刃でするくらい、これではどうしようもない。橋下さんではないが、それでいっぱしの「玄人」気取りなのが、一番、国民にとっての不幸。
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狙いは「憲法9条」。「衣」の下に「鎧」がもう見えている、という単純なお坊ちゃんだが。

2012-10-01 00:13:07 | つぶやき
安倍総裁、憲法改正を争点化の考え 次期衆院選(朝日新聞) - goo ニュース
 次期総選挙で第一党になれば、首相の座に就くことになるお方の発言。内容はもちろん、特に言葉に端々に出てくる姿勢。「(改正発議に)反対と思っているような横柄な国会議員には次の選挙で退場してもらいたい」と語る「横柄」な言葉遣い。憲法96条で発議要件が国会議員の3分の2以上となっていることについて、「たった3分の1ちょっとの・・・」。国民のさまざまな意見(少数であっても)を代弁する政党の存在など、まったく眼中にない。
 国民の過半数が憲法改正に賛成だ、という世論調査。それを「国会の過半数で憲法改正ができるように」とすり替える。これは橋下維新も同様な立場、そこで橋下維新を高く評価する。
 実は「憲法9条」をやり玉に挙げているのは誰の目にも見え見えなのに、「改正要件」のみを取り上げるというせこさ。本音・本心を隠したまま。橋下維新の場合には、参議院の廃止、首相公選制、道州制、議員定数半減などに関わって、憲法改正を取り上げているふしがある。賛否はともかく、その魂胆はよくわかる。それに比べて、・・・。
 そういえば、コイズミ郵政選挙で国会の圧倒的多数を占めていたとき、一貫して「日教組」を目の敵にする彼が首相時代にやった「唯一ともいえる」成果は、3分の2近くという数の力で通した「教育基本法」改正と教員の免許更新制度であった。 
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