「2017年に初演された本作は、ウエイン・イーグリングによる華麗でスピーディーな振付、上品で華やかな美術や衣裳によって、古典名作の新境地を開いたと高く評価された人気演目です。「少女クララの夢」をテーマに、恋心を抱いた青年との冒険を通して大人への入り口を踏み入れていくクララの成長を描いています。」
新国立劇場は、芸術監督の発案により、年末年始に「くるみ割り人形」を上演するようになったので、1月になっても「くるみ割り人形」を鑑賞することが出来る。
これは有難いことである。
というのは、12月に各バレエ団がこぞってこの演目を上演するため、スケジュールのバッティングが多発してしまうからである。
さて、「くるみ割り人形」のテーマが、「少女の通過儀礼」であることは疑いを容れない。
これは、身もふたもない話だが、くるみ割り人形とくるみが象徴するものが何であるかを考えれば、すぐに分かることである(通過儀礼の作送り)。
次に問題となるのは、ドロッセルマイヤーの位置づけである。
東京バレエ団(斎藤友佳理 版)は、マーシャとくるみ割り人形/王子のパ・ド・ドゥをドロッセルマイヤーが見守るという振付だが、新国立劇場(イーグリング版)は、クララとくるみ割り人形/王子の二人にドロッセルマイヤーも加わってパ・ド・トロワを踊るという振付になっている。
これが大きなヒントだと思うのだが、王子=ドロッセルマイヤーの甥という設定を、文字通りに受け取ることは出来ないと思われる。
ドロッセルマイヤーの位置づけを正確に理解するためには、原作をよく読む必要がある。
「上級裁判所顧問官のドロセルマイアーさんというのは、見た目にはけっして格好のいいひとではなくて、ちびで痩せっぽち、顔は皺だらけ、右目には目玉のかわりに大きな黒い眼帯、髪の毛だって一本もない、だからとてもきれいな白い鬘をつけている。ガラス繊維でできている精巧な模造品だけどね。
そもそも彼自身が手さきのとても器用なひとで、時計のことなど、なんでもよく知っていて、自分で作ることだってできるんだ。だからシュタールバウム家のりっぱな時計のどれかが病気になって、歌がうたえなくなったりすると、ドロセルマイアーさんのお出ましとなる。」(p10)
このくだりが示唆しているのは、ドロセルマイアー(ドロッセルマイヤー)は、「時間を操ることが出来る人物」ということである。
なので、読む者は、彼は現在・過去・未来を自由に行き来することが出来るのではないかと想像する。
そうすると、マリー(バレエではマーシャ/クララ)は、「夢」の中で、「未来」(大人になった将来の自分)ではなく、実は、少女のままで「過去」(若かりし頃のドロセルマイアーがいる世界)にタイムトリップしているという解釈も成り立つわけである。
また、次のくだりからは、「くるみ割り人形」=「ドロセルマイアーおじさんの分身」という解釈が成り立つ。
「「ねえ、おじさんがあたしのくるみ割りさんみたいに、きちんとおめかしして、こんなぴかぴかのブーツをはいたとしても、これほどすてきに見えるかしらね!」
どうしてなのかマリーにはわからなかったけれど、パパとママは大きな声で笑いころげ、上級裁判所顧問官は鼻をぽうっと赤く染めただけで、さっきみたいに陽気な笑い声はたてなかった。きっとなにか、とくべつなわけがあるんだろうね。」(p27~28)
さらに、以下のくだりによって、「若いドロセルマイアーさん」=「くるみ割り人形」という等式が成り立つことも明らかとなる。
「「でも、ママ」とマリーが口をはさむ。「あたしはよく知っているのよ、この小さなくるみ割り人形はニュルンベルクの若いドロセルマイアーさんで、ドロセルマイアーさんの甥だってことを。」(p129)
原作には4人の「ドロセルマイアー」が出て来るようだが、上に引用したくだりを総合すると、「ドロセルマイアーおじさん」と「若いドロセルマイアーさん」(=「くるみ割り人形」)は同一人物であって、タイムトリップしているだけなのではないか、という見方が出来る。
なるほど。
「少女の通過儀礼」において、老人/若者の両方を兼ねる男性が登場し、少女を導く役目を演じるというわけか・・・。
・・・ここで私は、「ダフニスとクロエ」を思い出した。
「ダフニスとクロエ」では、リュカイニオンという好色な中年女性が、少年ダフニスに愛の手ほどきを行う。
これと同様のことを、ドロセルマイアーは、マリー(マーシャ/クララ)に対して試みているのではないか、という解釈が出来そうなのだ。
ちなみに、原作では、バレエにおけるような「成長して大人になったマリー」は出て来ず、マリーは少女(「やっと7歳になったばかり」(p9 ))のままである。
夢の中で、マリーの目の前に若返ったドロセルマイアーが現れたのだとしたら・・・。
・・・なんと恐ろしいドロセルマイアー!