(昨日の続き)
「ギリシャ・ローマ世界では、「知性の火」と同視された太陽は、ついには宇宙の原理になってしまう。そして、いくつかの天空神(イ・ホ、ブラフマン、など)がたどった過程と同じ過程を経て、太陽はヒエロファニーから観念に変化してしまう。すでにヘラクレイトスでさえ、「太陽は日々に新らし」といっていた。プラトンにとって太陽は、目に見えるものの世界に顕現している「善」のかたちなのであり、オルフェウス派にとって、太陽は世界の知性である。・・・
古代のたそがれ時における、この最後の太陽頌は、けっして意味のないことではない。この何度も重ね書きされた羊皮紙は、新たに書かれた文字の下に、真正の、古代的なヒエロファニーの痕跡を判読させてくれるのである。そのいくつかをここに挙げるなら、太陽が神に従属していること、これは太陽化した造物主という原始の神話を思い起こさせる。また太陽が豊饒や植物のドラマなどと関係していること、など。とはいえ、概してここには、かつて太陽のヒエロファニーが意味したものの、色あせたイメージ、合理主義によってますます色あせてきたイメージしか、もはやみいだせないのである。「選ばれた者」の中で一番最後にやってきた者、哲学者は、こうして、宇宙のもっとも強力なヒエロファニーのひとつを脱聖化するのに、成功したのであった。」(p241~242)
何とも味わい深い文章で、ちょっと感動してしまう。
俗界に降臨した太陽神は、大和王権、ハイダ族、ヘラクレイトス、プラトン、オルフェウス派など、ありとあらゆる人たちからさんざんもてはやされた挙句、再び「聖化」されて「観念」の世界に舞い戻ってしまい、結局は無内容なものと化してしまうのである。
まるで、歌・ダンス・ドラマ・バラエティなど殆どあらゆるジャンルで活躍しながら、ふとしたことで社長の逆鱗に触れて解散→独立の道をたどった元国民的アイドルグループのようではないか!
あるいは、サラリーマンであれば一度は目にするであろう、「超優秀な社員が、各部署から引っ張りだこ状態となり、種々雑多な仕事を任せられるうちに、本人の個性や才能が劣化して、しまいにはポンコツ社員となる現象」を想起させる。
だが、最後の「選ばれた者」=哲学者の中には、こうした「太陽アンセム」の哀れな末路を初めから予見していた人がいた。
エリアーデによれば、その人物はアリストテレスである。
アリストテレスは、太陽ヒエロファニーの「全体性」(ここでは、あらゆるものに顕現しうるといったくらいの意味)に対する人間の感受性を鈍らせようとする哲学者の嚆矢だった。
この点で、彼は師であったプラトンとは別の道を選んだと言える。
そして、エリアーデの言いぶりからすると、アリストテレスらの活動は成功したようだ。
確かに、太陽を何にでも顕現できるオールマイティーな存在≒神とみなすからこそ、レシプロシテ原理が発動して”贈与”が強制され、「夜」=「闇」=「ヘビ」の側面をも抱え込んでしまうことになり、一部の「選ばれた者」が特権を握るようになってしまうのである。
だから、太陽を「アイドル」化してはいけないのである。
それだけでなく、太陽の運行を規準として時間を「日」に区分し、そのうちの特定の1日(例えば1月1日)を「特別な日」として祝うという行為も、実は、太陽の神格化につながっているのではないか?
こういう考え方のもと、私は、今年の抱負は、
「太陽をアイドル化するな!」
「『特別な日』をつくるな!」
にしようか考えた。
そして、元旦も、「特別な日」にしない、つまり特別なことをしないことにして、よく晴れたいつもの休日のように、近くの公園にジョギングに出かけることにした。
すると、イヤホンを装着してiPodで音楽を再生したとたん、これまでの私の思考をぶち壊すような出来事が起こったのである。