おおざっぱに言うと、太陽神崇拝を行おうとすると、「アワビだけでなく、もれなくヘビも付いてきます」という、「抱き合わせ商法」にはまってしまうのである。
爬虫類が大好きな「鰐さん」(ちゃんねる鰐)のような人であれば、それも大歓迎だろうが、女性や子供などは、おそらくしり込みしてしまいそうな信仰である。
「お不動さまは大日如来の成り代わった御姿です(人々の一切の煩悩と迷いを断ち、すべての人を救うお不動さま)」というのとは、話がちょっと違うのである。
さて、太陽のヒエロファニーについては、大きく2つの問題があると思う。
一つは、モース先生が説いたような、”贈与”の強制の問題である。
太陽神に限らず、「聖」なる/不死の存在を観念してしまうと、これが人間に”贈与”(通常は生贄)を求めてくる。
しかも、これを拒否すると、災難が降りかかってしまうのである。
ポリュドロスの亡霊「だが今は、いとしい母上ヘカベ殿の上を、身体を抜け出て、飛んでいる。お痛わしい母上がトロイアからこのケルネソスの地においであってよりもう三日目、その間わたしは空に漂っている。アカイア人はみんな、船があるのに動かず、このトラキアの地の浜辺に坐っている。ペレウスが子アキレウスが塚より現れ出でて、海を渡る櫂を家路にむけようとするギリシアの軍勢をみんな押し止めたからだ。姉上ポリュセクネを自分の塚への好ましいいけにえ、償いとしてうけることを求めているのだ。これを彼は得るであろう、彼の友は、この贈り物を拒みはせぬ。定めは今日のこの日死へと姉上を導くであろう。・・・」(p348)
死んだアキレウスは、(当時のギリシャ人がそう考えていたように)地中で生活を続けており、「いけにえ」としてポリュセクネを所望した。
対して、これを友は拒むことが出来ない。
同様に、伊勢の人たちは常にアワビをアマテラスに奉納しなければならず、皇族のうち独身の女性:「斎宮」は(ヘビ=男性神としての)アマテラスに奉仕しなければならないのである。
このように、”贈与”の強制は、「聖」なる/不死の存在通有の問題である。
これに対し、エリアーデは、太陽のヒエロファニー特有の問題を指摘している。
太陽のヒエロファニーは、「選ばれた」少数者に特権をもたらし、これが多大な弊害を生むというのである。
「以上、簡潔に述べてきたこの太陽のヒエロファニーの形態論を、全般的概括でしめくくるつもりはない。そうしても結局は、これまでにわれわれが強調してきた次のような主要なテーマを、もう一度むしかえすことになってしまうであろうから。そのテーマとは、至高存在者の太陽化、太陽と至上権・加入儀礼・選ばれた者との関連、太陽のアンビヴァレンス、太陽と死者や豊饒との関係、などである。しかし、君主であれ、加入儀礼を受けた者であれ、あるいは英雄や哲学者であれ、選ばれた者と太陽神学との類縁性を強調しておくほうがよいだろう。太陽のヒエロファアニーは、他の宇宙的ヒエロファニーと違って、ある閉鎖的な集団や、「選ばれた」少数者の特権となりがちである。その結果、合理化の過程を促したり、早めたりするようになる。・・・」(p240)