Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

特別な日(7)

2024年01月07日 06時30分00秒 | Weblog
 (神としての)太陽→アワビという風に、「聖」なるものが「俗」なるものに姿を変えて現れること(又は姿そのもの)を、ミルチャ・エリアーデは、「ヒエロファニー(Hierophany)」と呼んだ(私が勝手に使っている「第2の animus」という言葉(不健全な自我の拡張(7))も、これに近いかもしれない。)。
 造語なので訳しづらいが、「聖なるものの顕現(物)」とでも訳しておくか、なじみのある「化身」という近似語で済ませるか、ということでよいと思う。
 さて、いにしえの三重県では、海洋生物であるアワビが太陽神のヒエロファニーとされていたわけだが、お隣の奈良県ではどうだったのだろうか?
 結論から言えば、大和王権が樹立されたいにしえの奈良県・三輪山の麓における太陽神のヒエロファニーは、何とヘビだった!
 
 「・・・『日本書紀』にみられるアマテラスオオミカミは、三回ほどカミの観念のうえで変化しているからです。はじめ”太陽そのもの”であり、つぎに”太陽神をまつる女”となり、それから”天皇家の祖先神”にと転々して完成しているのです。・・・
 太陽のたましい=日のカミは、太陽の妻=ヒルメ=棚機つ女を訪問するときは蛇の姿となってやってくると思われたのでした。」(p14~15)
 「しかも、この日祀部は、敏達天皇のすまいのある他田におかれていました。他田は、いまの奈良県桜井の町のすぐ北側(奈良盆地の東南端)のところで、有名な神体山の大三輪神社(大神神社)のあるところです。大三輪のカミは蛇で、夜な夜な女性のもとにかよっていたことは古典にしるされていて、名高いはなしです。・・・
 このような皇大神宮の前身の信仰の形は、三輪山の信仰の形でした。この三輪山の場所のあたりに、日本古典がしるしているアマテラスオオミカミを最初にまつった笠縫邑があったのでした。」(p62~63)

 「森羅万象における”超自然”として、生き物も驚異の対象でした。列島の山野に棲息する蛇は敏捷さ、獰猛さのみならず、脱皮をくり返す強靭な生命力ゆえに縄文時代から畏れられ、崇められてきました。・・・
 神社によく見られるしめ縄は、雌雄の蛇が交尾をしている姿を模したものです。また神前にお供えする餅は、蛇がトグロを巻く姿を象っています。実際、トグロを巻いた太い縄がしめ縄とともに神前を飾ることもあります。」(p31~32)

 脱皮を繰り返して成長するところから「死と再生」の象徴とされるヘビは、太陽のヒエロファニーとみなされたのである。
 これは、社会人類学的に見れば、驚くにはあたいしない。
 太陽も、日々「昼(光)と夜(闇)」、すなわち「死と再生」を作り出しているからである。

 「しかしすでに『リグ・ヴェーダ』において、とくにブラーフマナ書の思弁において、太陽はその暗い様相においても見られている。『リグ・ヴェーダ』は太陽の様相の一方を「光り輝く」と呼び、他方を「黒い」(つまり目に見えない)と呼んでいる。・・・
 夜と昼(nakutoshasa=両数の女性名詞)とは姉妹である。同様に、神々と悪魔「阿修羅」(asura)とは兄弟である。・・・太陽もまたこの神の二元性の中に入り、同じように、いくつかの神話の中で、蛇の様相(換言すれば、「暗い」、「区別できない」)をあらわしている。これは太陽の青天白日的様相の正反対である。」(p232~233)

 ヘビを太陽のヒエロファニーととらえる点で、日本神話はインド神話との共通性を持っている。
 だが、日本神話の独自性は、蛇を、神宮のご神体(の一つ)である”神鏡”としてまでも崇めている(らしい)ところにあるのではないだろうか?
 何しろ、「カガミ」の語源は、「かが」(ヘビ)の「め」(目)だというのだから。

 

コメント
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