「旧ソ連映画界の巨匠にして現代映画に多大な影響を与え続ける不世出の映画作家、アンドレイ・タルコフスキー。・・・
イタリアで撮影された本作は、タルコフスキーが「祖国を離れたロシア人特有の精神状態=ノスタルジアを描きたかった」と述懐した作品である。」
イタリアで撮影された本作は、タルコフスキーが「祖国を離れたロシア人特有の精神状態=ノスタルジアを描きたかった」と述懐した作品である。」
「イタリア中部トスカーナ地方、朝露にけむる田園風景に男と女が到着する。モスクワから来た詩人アンドレイ・ゴルチャコフと通訳のエウジェニア。ふたりは、ロシアの音楽家パヴェル・サスノフスキーの足跡を辿っていた。18世紀にイタリアを放浪し、農奴制が敷かれた故国に戻り自死したサスノフスキーを追う旅。その旅も終りに近づく中、アンドレイは病に冒されていた。古の温泉地バーニョ・ヴィニョーニで、世界の終末が訪れたと信じるドメニコという男と出会う。やがてアンドレイは、世界の救済を求めていく…。」
学生時代のある時期、私は江戸川区に住んでいて、近くにあるキネカ錦糸町によく行っていた。
そこで出くわした「ざくろの色」に大変な衝撃を受け、当時のソ連映画を立て続けに観た記憶がある。
ソ連出身の映画監督であるタルコフスキーの作品は一作だけ観た記憶があり、同じ映画館で上映されていたのかと思いきや、記憶違いであった。
三十数年前の記憶と言うのは頼りないもので、私が観たのは長らく「ノスタルジア」か「サクリファイス」か「ソラリス」ではないかと思っていたが、「ノスタルジア」ではないことが、今回分かった。
ストーリーが完全に初見だったのだ。
おそらく、別の映画を観た際に「ノスタルジア」のラストシーンが予告編に出て来て、記憶に染みついていたのだろう。
また、「サクリファイス」についても、YouTubeで予告編をみる限り記憶とは違っている。
なので、消去法でいくと「ソラリス」の可能性が高そうだ。
・・・さて、今回痛感したのは、この監督の作品は、やはり映画館で観るべきだということである。
おそらく言い尽くされていることだと思うし、この映画でもそうなのだが、彼の作品においては、水や火の映像と音が極めて重要な役割を演じている。
彼の作品は、「水や火の映像と音を味わうための芸術」であると言い切ってしまってよいと思う。
「水」は、現実と幻、現世と冥界(または天界)とを繋ぐ媒体であり(アンドレイが夢想や幻覚に陥るときは必ず近くに水がある)、本作では、ホテルの部屋に窓から降り込む雨、ドメニコが住む廃墟に天上から落ちてくる水滴、泉の広場(温泉)、などといった形で登場し、それぞれ個性を持った音を奏でる。
「火」は、生命の象徴であり、ドメニコ(ローマの広場で焼身自殺を遂げる)を荒々しく呑み込む火として、あるいは、アンドレイが泉の広場を渡り切る間その手の中の蝋燭で弱々しく灯る火として、「第九」や「レクイエム」のメロディーとともに立ち現れる(前者はガソリンによって勢いよく燃える音が生じているが、後者はさすがに音は出ていない。)。
「蝋燭」の意味は、監督の父である詩人アルセーニイ・タルコフスキーの「蝋燭」と題された詩に示されている。
「黄色い舌をゆらめかせ
蝋燭がゆっくりとけて流れてゆく。
そうやって僕たち二人も生きているね。
魂は燃え、肉体は溶けてゆく。」(パンフレットより)
この詩は、インド・ヨーロッパ系の宗教(ざっくり言えば旧約聖書とリグ・ヴェーダ)に顕著な生命観(命と壺(5))をあらわしている。
ドメニコ(精神に異常を来した数学者という設定のようだ)の住居の壁に大きく書かれた「1+1=1」という数式も、おそらく「蝋燭」と深く関係している。
上に引用した詩を若干敷衍すれば、父(あるいは母)と子は、「1」から「1+1」になった後、最後は「1」になるからである。