「この曲の素晴らしさは、作品全体の構成とそれらが生み出す物語性にあると思います。つまり、ヴィルトゥオーゾ的な要素を持つ変奏、性格小品のような変奏、カノンで書かれた変奏がどのように調和しているかという点ですね。確かに、カノンで書かれた変奏はどれも素晴らしいですが、だからと言って、カノンの変奏がいちばん優れているなどと言うのは、少々尊大な態度であるというか、この作品の重要なポイントを見逃しているんじゃないかと思います。要するに、1年の365日のうち、どれがいちばん素晴らしい日か答えるようなものです。1日として同じ日はありませんからね。≪ゴルトベルク変奏曲≫の素晴らしさは、個々の変奏の平等性の中に存在しています。」(公演パンフレットより)
「一年の計は元旦にあり」というが、私は全く同感出来ない。
だって、学校も会社もだいたい4月1日スタートではないか!
それに、365日の中の一日だけを抜き出して「特別な日」に格上げするのは、ヴィキングル・オラフソン流に言えば、「ひとつひとつの日の平等性」に反する。
なので、ゴルトベルクにおける”元旦”=「アリア」を抜き出してアンコール曲として演奏したファジル・サイ、あるいはなぜか第13変奏を抜き出してやはりアンコール曲として演奏したラン・ランは、ヴィキングル・オラフソンから批判されるのかもしれない。
また、この「平等性」の観点以外に、1月1日を「特別な日」とすることは「暦」の本質に照らして問題があるのかもしれない。
「政治的決定に導かれない軍事力、命令に従わない勝手な軍事力、分裂やサボタージュ、クーデタや陰謀ほど、政治にとって致命的なことはない。かくして、軍指揮権のみならず軍事編成自体を民会に基礎づける。・・・
しかしなお、人々はこの制約に満足しなかった。軍指揮権をさらに制約するメカニズムが精緻に発達した。まず第一に consul の任期が1年に限られ(annalité )、連続して就任することを禁止された。1年任期は、実に暦のメカニズムの利用であった。暦にはアジェンダが書き込まれ、これは人々の協働を統御する力を持つ。休日は人々を労働から解放し、祭日は身分を無礼講によって解消する。労働の予定、特に著しい共同の予定は暦に書き込まれている。他方、太陽のリズムと月のリズムを調整するために、暦には空白を設けなければならない。2月の末に設定されるが、ローマの場合、この期間は極大化される。暦の空白は協働組織の空白を意味する。人々は流動化する。ここで選挙を行い、軍事編成し、3月以降も軍事編成されたその一部はそのままの状態に置かれ、日常の隊形に戻らないこととする。これがローマ流の軍事化である。暦に完全に依存するため、1年後にはこの編成は完全に一旦解消される。選挙の結果を含めて。」(p21~22)