「その「切られ与三郎の墓」(厳密には、物語のモデルになった四代目伊三郎の墓)が八鶴湖畔の安国山最福寺にあります。最福寺にある説明板では、大網清名幸谷の紺屋の中村家の次男として寛政12年(1800年)に生まれたとあり、名を中村大吉といったそうです。好きな長唄を習いに通った掛茶屋で茂原生まれのおきち(お富のモデル)と出会います。しかし、おきちには地元の親分山本源太左衛門という旦那がいました。二人の間柄はすぐに親分の知るところとなり、、、といった具合で描かれています。
実際の大吉のその後の運命は歌舞伎とも落語とも違います。「東金町誌(志賀吾鄕著/昭和二年初版・十三年再版)」によれば、九死に一生を得た大吉は江戸で唄かたとなり巡業の際に二人は再会、大吉は32歳で伊三郎を襲名して一門の師道となります。四十四歳の時に芸道の恨みか水銀を盛られ天性の美声を失い引退、郷里である東金に戻ります。二人はその後東金・大網あたりを巡回し長唄の教師として三味線を教えます。最福寺観行坊霊帳には法號『勇猛院徳翁日遊信士』弘化四年(1847年)6月16日、48歳で亡くなったとあるそうです。」
実際の大吉のその後の運命は歌舞伎とも落語とも違います。「東金町誌(志賀吾鄕著/昭和二年初版・十三年再版)」によれば、九死に一生を得た大吉は江戸で唄かたとなり巡業の際に二人は再会、大吉は32歳で伊三郎を襲名して一門の師道となります。四十四歳の時に芸道の恨みか水銀を盛られ天性の美声を失い引退、郷里である東金に戻ります。二人はその後東金・大網あたりを巡回し長唄の教師として三味線を教えます。最福寺観行坊霊帳には法號『勇猛院徳翁日遊信士』弘化四年(1847年)6月16日、48歳で亡くなったとあるそうです。」
実話だと、おきち(お富)は入水自殺を図るも遂げなかったとあり、これが歌舞伎でも踏襲されている。
やはり、「海」はこのストーリーの重要な要素である。
親分から妾として囲われていたおきち(お富)が「海」に入ったことの意味は、「綱引き」(ルデンス)における「海」の意味を参照するとよく分かる。
(生徒)「ーーー海は共有ということは、海で見つかったトランクも共有なんじゃないか。」
(木庭先生)「そうだ。ここで「共有」というのは、コンムーニスというラテン語なんだけれど、「誰のものでもない」という意味です。ということは、「公共の」という意味です。公共の空間ということは、物がここへ入ったときは誰も取ってはいけない、皆スルーしなければならない。だから物の輸送に使えます。誰のものにもならずに無事に相手のところへ着きます。」(p196)
そう、おきち(お富)は、ただ死のうとしたのではない。
「海」に身投げをすることによって親分の物理的な支配を逃れ、自由になろうとしたのである。
歌舞伎だと、そこをたまたま鎌倉の和泉屋多座左衛門の商船が通りかかってお富を救い出す筋書きだが、実話では、その後、(どうやら自由の身になった)おきちは、江戸で暮らしているうちに伊三郎と運命の再会を果たしたとある。
このように、江戸時代においても、「海」は公共の(コンムーニス、誰のものでもない)空間として機能していた。
なので、この演目の序盤の舞台設定が「周辺」=木更津(実話だと東金)となっているのは、「葛の葉」における安倍野や信太の森と同じく、決定的な意味を持つ。
要は、「木更津海岸見染」を見逃してはいけないのである。
ちなみに、昔見たNHKの解説では、
「当時、江戸の遊び人の若旦那を、木更津に預けて教化することが行なわれており・・・」
とあったから、木更津はいわば「補導委託」のメッカだったのかもしれない。
海浜地域への「補導委託」といえば、昭和の時代には「戸塚ヨットスクール事件」というのもあった。
・・・それにしても、私は、「赤間別荘」もきちんと上演してくれた昨年4月の歌舞伎座での公演(いまの歌舞伎俳優として届けたい 片岡仁左衛門、波乱のラブストーリー『与話情浮名横櫛』を語る)を見逃したことが悔やまれてならない。
・・・ところで、ギリシャ・ローマには存在していたものの、江戸時代には存在していなかった、もう一つ(というか最重要)の公共空間がある。
それは、「神殿」である。