Don't Kill the Earth

地球環境を愛する平凡な一市民が、つれづれなるままに環境問題や日常生活のあれやこれやを綴ったブログです

<第三の生命>は”生命”か?

2023年04月20日 06時30分00秒 | Weblog
 「古代エジプト文明の根底にあるのは、この世は過ぎ去るもので、死後、復活再生した来世こそ、永遠に生きる世界であるという独特の死生観である。ただし復活するには現世で悪いことをせず、最後の審判をパスしなければならない。この思想はユダヤ教、キリスト教、イスラム教へと受け継がれていく。
 古代エジプトでは現世で夫婦であったものは、復活した来世でも夫婦なのである。物語の最期に王女アイーダと将軍ラダメスはこの世の死を受け入れるが、それは彼らが来世では永遠の生命が約束されていることを知っているからなのだ。
 オペラ『アイーダ』はこの究極の古代エジプトの死生観が見事に凝縮された、時空を超越した愛の物語なのである。」(公演パンフレットp29 岩出まゆみさんの解説より)

 <第二の生命>中心主義は、何もパウロの専売特許ではない。
 広く「霊魂不滅説」について言えば、一般的には古代エジプトに淵源をもつとされているようだ(但し、これは「個別的霊魂不滅説」であり、パウロの「集合的霊魂不滅説」とは異なる点に注意が必要と思われる。)。
 なので、トーマス・マンが、ハンス・カストルプ(ちなみにこの「ハンス」は、「(洗礼者)ヨハナン」が語源である)のお気に入りのレコードの冒頭に「アイーダ」のラストを持ってきたのは、<第一の生命>と<第二の生命>のコントラストを極大化するためだったと思われる。

 「歌劇のなかのラダメスとアイーダの気持ちにとっては、二人を待っている現実の姿は存在していなかった。二人の声は溶けあって第八音の半音まえの音にのぼり、そこで繫留されて、天国の扉がついにひらかれて、二人のあこがれである永遠の光りが射しはじめることを信じてうたった。この現実美化の慰藉にみちた力は、耳を傾けているハンス・カストルプの気持を異常に快く撫でてくれ、彼が愛好する何枚かのレコードのなかでこのレコードをとりわけ好ましく感じたのは、この現実美化がすくなからず原因をなしていた。」(p527~528)
 
 トーマス・マンは、そもそも存在しない<第二の生命>でもなければ、最終的には醜悪な形態に至る<第一の生命>でもない、ある現象=「現実美化」を描写している。
 これは、ラダメスとアイーダの声(<第一の生命>の作用)がつくりだすものである。
 これを、おそらく小倉先生は、先生のカテゴリー:<第三の生命>のうちの「美的生命」、あるいは「間主観的生命」や「偶発的生命」という言葉で呼んでいるように思われる。
 だが、ここで誰もが抱くであろう疑問が生じる。
 果たしてこの現象=「現実美化」に、「生命」という言葉を与えてよいのだろうか?
 
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<第一の生命>とアイーダの末路

2023年04月19日 06時30分00秒 | Weblog
 「わたしは、人類がこれまでに想定してきた生命には、ごく大雑把に分けて、三つの種類があると考えている。・・・三つの生命を整理してみると、
<第一の生命>:個別的生命、生物学的生命、肉体的生命、相対的生命、物質的生命
<第二の生命>:集合的生命、全体的生命、普遍的生命、霊的生命、超越的生命、絶対的生命、非物質的生命、宗教的生命、精神的生命
<第三の生命>:「あいだ」的生命、間主観的生命、多重主体的生命、偶発的生命、美的生命」(p39)

 <第二の生命>を全否定したニーチェだが、それでは、彼は<第一の生命>に絶対的な価値を置いていたと断言してよいのだろうか?
 小倉先生の考えからすれば、この見方は正しくないということになるだろう。

 「私たちはこの場合に現実に起こった現象を想像してみるだけで十分であった!生きながら埋められた二人は、土牢のガスに肺をみたされ、二人が一しょに、わるくすれば、二人が前後して、痙攣しながら餓死をとげ、二人の体は腐敗して二目と見られない姿にかわり、土牢のなかには骸骨が二つ横たわるだけになり、どちらの骸骨にとっても一人で横たわろうと二人で横たわろうと問題ではなくなり、それに無感覚になるだろう。」(p527)

 生き埋めにされたアイーダとラダメスのその後を描いたものだが、<第一の生命>は、現実にはこういう最期を迎えるわけである。
 これを、トーマス・マンがわざわざ書いた理由が重要である。
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パクリ疑惑(2)

2023年04月18日 06時30分00秒 | Weblog

 2018年に観た/聴いたときは、アイーダ役がややうるさい感じがしたものの、それを除けばまずまずの出来栄えだったという記憶である。
 だが今回は、初っ端の「清きアイーダ」でラダメスが躓いた感がある。
 声量は一応あるのだが、声質がやや伸びやかさに欠けるのである。
 これに対し、アイーダ&アムネリスは演技も含め素晴らしかった。
 目玉とも言うべき第2幕では、ゾウは登場しないものの馬が舞台に登場するという豪華なプロダクションだが、ラストのセリフの翻訳がやや気になる。
 これは原文からかなり離れた、思い切った意訳なのだ。

ラダメス「エジプトは要らぬ、私はアイーダが欲しいのだ!

ラダメス「・・・ああ、いや! エジプトの玉座は、アイーダの心に値しはしない。」(p56)

 さて、古代エジプトという特殊な設定に幻惑されることなく冷静にストーリーを分析すると、これは色んなオペラをミックスした設定ではないかという疑惑、つまりパクリ疑惑が湧いてきた。
 まず、「死によって成就される愛」という結末(25年前(4))は、このオペラの少し前に公開された「トリスタンとイゾルデ」と共通している。
 次に、三角関係(ラダメスをアイーダとアムネリスが取り合う)は、「仮面舞踏会」の男女を入れ替えたものに見える。
 さらに、3幕でアモナズロが抵抗するアイーダを「わしの娘ではない・・・そなたはファラオどもの奴隷だ!」と非難するくだりは、「椿姫」でジェルモンが息子:アルフレードに「ヴィオレッタと別れろ!」と迫る場面と似ている。 
 つまり、息子(アルフレード)を娘(アイーダ)に置き換えたように見えるのである。
 もちろん、ヴェルディが台本を書いたわけではないので、原案を作ったオギュスト・マリエットに責めは帰せられるということになるだろう。
 まあ、「仮面舞踏会」と「椿姫」の設定の逆転は、いわばセルフカバーなので、「パクリ」には当たらないと言ってよいだろう。
 

 
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<第二の生命>中心主義

2023年04月17日 06時30分00秒 | Weblog
 「ニーチェの考えでは、このようにソクラテス以後のギリシアの「哲学」は肉体的生命を蔑することによって堕落し、この堕落が、のちのキリスト教につながって、「西洋」というものの根本的頽落の原因となる(ニーチェは「原因」という概念を嫌うから、この言い方はほんとうは正しくないのだが)。キリスト教において肉体的生命への侮蔑は頂点に達し、この世の背後にある「永遠に生きる世界」への崇拝と信仰が人間を支配するようになる。これはパウロによって定式化された生命観である。人間の肉体的生命は有限だが、信仰者のみが神から与えられる「霊のいのち」つまり<第二の生命>は永生する、という考え方である。もっとも唾棄すべきものとしてニーチェが全否定したのが、この彼岸的生命観つまり<第二の生命>中心主義だ。」(p123)

 近年出版されたニーチェの研究書の中では出色の出来栄えだと思う。
 内容は盛りだくさんで、いっぱい引用したいところだが、まずは上に挙げたくだりを引用したい。
 <第二の生命>中心主義は、私が「モース=ユべールモデル」として解釈していた旧約聖書やリグ・ヴェーダ的な世界観・死生観(命と壺(5))に近いと思うが、小倉先生はパウロを起源と見ているので、「パウロ・モデル」と呼んでもいいように思う。
 ニーチェは、この思考を、「彼岸的生命観」として全否定したのである。
 ちなみに、私の見立てでは、この<第二の生命>中心主義が、西欧とは違う形で、日本社会の根っこのところで、”執拗低音”のように響き続けている。
 それにしても感心するのは、小倉さんが、シュレヒタ版で500頁以上の「遺稿から」全部を、”目を皿のようにして”読んだというところである。
 これには4年以上かかったということだが、こういう地道な努力が、ニーチェの思考に肉薄するために必要な作業だということなのだ。
 
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トランスクリプションとパラフレーズ

2023年04月16日 06時30分00秒 | Weblog

 ナビゲーターの方によると、約700曲あるリストの作品のうち、半分近くが編曲なのだそうである。
 編曲には、原曲に忠実な「トランスクリプション」(本公演で言えば「夕星の歌」)と、原曲に着想を得てアレンジされた「パラフレーズ」(本公演で言えば「ヴァルハラ」)の2種類がある。
 ちなみに、中学時代以来のワグネリアンである私が「決定版」だと考えるトランスクリプションは、以下の2盤である。
 問題を孕んでいるのは、言うまでもなく「パラフレーズ」であり、リストはショパンの夜想曲を弾くときも、原曲にない音を沢山加えてしまい、ショパンから苦言を呈されている(楽譜の解釈(3))。
  「ドン・ジョヴァンニの回想」をモーツアルトが聴いたとすれば、ひっくり返ってしまうかもしれない。
 あのシンプルで美しいメロディが、原型をとどめないくらいに切り刻まれ、他の音が加わって、別物になってしまっているからだ。
 ・・・と思いきや、ワーグナーもフォーレの「パラフレーズ」によって、殆どパロディ化されていた!
 「バイロイトの思い出 連弾 フォーレ(メサジェとの合作)」をワーグナーが聴いたとしたら、癇癪持ちの彼の事なので、激怒したのではないだろうか?
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パクリ疑惑

2023年04月15日 06時30分00秒 | Weblog

 予想したほど客席が埋まっていないので、どうしたことかと疑問を抱く。
 客席の会話から察するに、新国立劇場の「アイーダ」と日程がかぶっていて、オペラ愛好家の一部がそちらに流れた模様である。
  確かに、オペラを観る/聴くには、お金と時間とそれなりの体力が必要であり、「トスカ」と「アイーダ」を数日のうちに両方鑑賞するというのは難しい人もいるのだろう。
  とはいえ、1幕ラストのブリン・ターフェルのド迫力、2幕の「歌に生き恋に行き」は今まで聴いた中ではベストの出来ばえであり、満足度は高いと思う。
 さて、「トスカ」と言えば、三島由紀夫はこれを借用して「鹿鳴館」を書いたのではないかという指摘、つまり「パクリ疑惑」が存在するらしい。

 「ところで、話はやや横道に逸れるが、『鹿鳴館』は「トスカ」を下敷きにした戯曲ではないかと思われる。・・・それというのも、『鹿鳴館』と「トスカ」にはいくつかの共通点があるからである。
 その共通点とは、情の深い女主人公と狡知に長けた男との対決のドラマだという点である。・・・
 最後は両作とも銃弾による悲劇となるのだが、この銃弾が”誤配”されるところも共通している。」(p165~166)

 なるほど、こういう指摘を読むと、”パクリ疑惑”はもっともらしいように思えてくる。
 だが、影山朝子(=トスカ)と清原永之輔(=スカルピア)はかつて愛人関係にあり、清原久雄(=カヴァラドッシ)はその子であるという設定、久雄が故意に撃たれて死ぬところ、最後の銃声が永之輔の自殺を暗示しているところなどは、「トスカ」(スカルピアはトスカが殺害)と大きく異なっており、印象はまるで違う。
 それに、セリフの共通点・類似点は、以下の一箇所だけを除いて全く存在しない。

カヴァラドッシ(読む)「自由通行許可証、フローリア・トスカおよび・・・
トスカ(息を弾ませ震え声で彼と一緒に読む)「彼女に同行する 騎士に宛て。--(カヴァラドッシに対し喜びの叫び声をあげ)貴方は自由なのよ!」(p102)

久雄「したの旅立ち、・・・・・・あなたのお母様はこう言っておいででしたね。朝八時四十五分に新橋を発つ汽車で横浜まで行き、横浜で二三日待っていれば、そのあいだにお母様が奔走されて、アメリカか、それとも香港を経てヨーロッパへ行く飛脚船の切符を手に入れて、それを私たちに届けて下さるって。
顕子「どこか見知らぬ外国で私たちは時をすごして、お父様の結婚のおゆるしをいただけばいいんですわ。」(p75)

 総合的に判断すると、おそらく結論は、「パクリとまでは断定出来ない」ということになるだろう。
 他方、「星は光りぬ」の前のチェロの二重奏は、殺人行為の直前に意図的に置かれているところだけでなく、メロディからして「仮面舞踏会」と似ており、こちらこそパクリではないかと思われる。
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”職人”の時代

2023年04月14日 06時30分00秒 | Weblog
"Face à Polyphème, il est l'homme de la technè, et lorsqu'il crevé I'œil du Cyclope avec un pieu qu'il a  taillé lui-même, son action est, métaphoriquement, celle d'un carpentier et d'un bronzier. "(p310)
(拙訳:ポリュペーモス(彼もテクネ(技術)の男である)に対面し、彼(オデュッセウス)はキュクロープスの眼を彼自身が削って作った杭で破裂させたのだから、彼の行為は、比喩的に言えば、大工と鋳造師の行為なのである。)

 オデュッセウスもキュクロープスも、実は”職人”(artisan, Meister)だったという指摘である。
 ”職人”と言えば、80年代以降、西欧と北米では、心ある人々は、専門職層(つまり”職人”)を育成するための高等教育に力を注いできている。
 そして、アジアの一部の国・地域でも、この流れに乗ろうとする動きが続いてきた。
 ところが、非常に残念なことに、わが国は、この動きに完全に"乗り遅れ”、相対的に若い世代がまるごと取り残されてしまった(最後の棒倒し(10))。
 このままでは、わが国に(層をなすほどの数の)オデュッセウスたちが誕生するのは難しい。
 それでは、キュクロープスはどうだろうか?
 「一つ目の巨人」は、歴史的には、製鉄・鍛造・鋳造などの鉄器製造に関する神として位置づけられてきた。
 これについては複数の解釈が可能だろうが、「武器」製造の”職人”を象徴していると見るのが素直だろう。
 現代で言えば、「軍産複合体」あたりだろうか?
 そうなると、現在進行中の政治的な動き、例えばトマホーク(もともとネイティヴ・アメリカンの斧)が大好きなところからすると、わが国にも今後「小さな巨人」くらいの”職人”たちが生まれる可能性はありそうだ。
 だが、巨人の好物は人間なので、多くの人が犠牲になるかもしれない。

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個人の覚醒(2)

2023年04月13日 06時30分00秒 | Weblog
 「議事録からみられるのは、殆どの委員は、憲法学の基本的な知見を持っておらず、これまで積み上がってきた憲法をめぐる議論に基づいて法律を論じる能力はないということだ。・・・
 具体的な憲法論が行われない そのような独演会の場と化しているのが、第208回国会と第210回国会でそれぞれ一回ずつ行われた「憲法に対する考え方について意見の交換」だ。この会議では文字通りそれぞれの委員がそれぞれの「考え方」を述べるばかりで、議論の場にはなっていない。それぞれの委員が語っている内容も、先述の「合区」問題を初め、自衛隊、緊急事態、デジタル化、憲法裁判所、道州制など、自分が思いついたこと、あるいは自分の党の政策をただアピールしているだけ、といった様相となっている。中には憲法に日本の伝統を書き込もうとする西田昌司委員のように、近代憲法の根本を理解していない意見を述べる委員もいる。 

 憲法は、そもそも個人の自由を保障するためのものであるが、この基本すら押さえられていないことに愕然とする。
 もっとも、それ以前の問題がある。
 すなわち、国会という場において、”言葉が意味を持たず、議論が成り立たない”という状況は、「政治の不成立」という深刻な問題を露呈しているのである。
 もちろん、政治家の能力不足や人選ミスなど、要因についてはいろいろな説明が可能だろう。
 だが、「政治」が「自由を指導原理とする全体社会組織の、その自由を実現する仕組みないし装置」であるとすれば、結局のところ、「わたしたち個人個人が、本心では自由を求めていない(より大きなもの=集団に依存したい)からである」というのが、いちばん説得力のある説明だと思う。
 そうでなければ、こういうトンチンカンな言葉しか出てこない人物たちが、国民の代表として国会に登場してくるはずがないからである。
 「個人の覚醒」の欠如という、永井荷風の指摘は、いまだに有効なのだ。
 
  
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「ふつう」のこと

2023年04月12日 06時30分00秒 | Weblog
 「来春、関西地方の私立大大学院の修士課程を終える女子学生(23)はインターンシップ(就業体験)に参加し、昨年12月の早期選考で内々定を得たIT企業の担当者に、他社の選考を受けないよう迫られた。オンライン面談で繰り返し念を押され、内定を辞退しないことを求める「承諾書」へのサインも求められた。

 就職氷河期以前の人がこの記事を見れば、隔世の感を禁じ得ないことだろう。
 かつて、「他の会社は回らなくていいよ」というフレーズは、(内)内定の”合言葉”であり、この言葉を受けて就活生はようやく安心し、たいていは就活をやめたからである。
 だが、これが今や、「ハラスメント」になり得るというのである。
 さて、法曹界でも、これに似た状況を見ることがある。
 いわゆる五代事務所(五大法律事務所とは?)においては、「サマー・クラーク」を開催するなどにより、司法試験を受ける前から有望そうな若手を囲い込んでいる(ロースクールにおける人格蹂躙とクソな競争)。
 司法試験に合格し、修習が始まると、こうした若手は”任官”、つまり裁判所や検察庁からの勧誘を受けることが多い。
 裁判所・検察庁も、若い優秀な人材を求めているからである。
 このため、人材を巡る競争が生じることになるが、私が修習していたころ、内定を出した裁判所・検察庁サイドは、「ゴダイ/ヨンダイを辞退せよ」という指示(オワハラ?)を出していたようである(但し、今もこういう指示が出ているかどうかは分からない)。
 実務修習時代のある同期は、(当時の)四大事務所の一つのA事務所から内定をもらっていたが、修習開始後は検察から強く勧誘を受けていた。
 こういう修習生にとっての大きな悩みは、やはり「転勤地獄」の問題である。
 例えば、配偶者が弁護士(の卵)だと、一緒に転勤出来ず単身赴任生活が長くなってしまうため、これを懸念する人がいるのだ。
 その同期は、交際相手の女性が都内の法律事務所から内定をもらっていたので、「仕事(検察官)を取るか、彼女を取るか」で悩んでいた。
 そこで、同期の修習生たち(みんな年上)に相談したのだが、私は、「その問題設定自体がおかしいのでは?『転勤族の人とは結婚しない』というのであれば、しょせんそういう人物だということではないか?」と指摘し(今思えばなんと無責任な発言であることか!)、他の先輩方も「やはり仕事が第一」という助言をしたのである。
 結果、その同期はA事務所に内定辞退を告げたのだが、A事務所側の反転攻勢(オワハラ?)も猛烈だったようで、何度か呼び出しを受けて説得を受けていたらしい。
 最終的に、彼は検事に任官された。
 だが、振り返ってみてつくづく思うのは、どうして採用する側は、相手に対して「ふつうのこと」が出来ないのだろうか、ということである。

 「「オワハラ」と非難されないようにすることは、別に何ということはなく、人と人が出会う時にする「ふつう」のことをすればよいのだと思います。それができない/ついやってしまう採用活動は異常と言われても仕方がありません。
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設定変更(2)

2023年04月11日 06時30分00秒 | Weblog
 「ハンス、ジャン、ジョン、ジョヴァンニ、ヤン、イワン。キリスト教文化圏にみられるこれらの名は、もとを質せばみな同じ「ヨハナン」に由来する。あの洗礼者ヨハネと同じ名であり、「聖ヨハネ祭」にいうヨハネとは、この洗礼者のことで、その誕生日とされる6月24日が祭の日。・・・そこでハンス・ザックスを洗礼者ヨハネに見立ててみると、このオペラの骨格がよく見えてくる。」(プログラムにおける舩木篤也氏の解説)

 「ワーグナーはこの年代史(注:ヴァ―ゲンザイルのニュルンベルク年代史)から、劇に出て来る十二人のマイスタージンガーたちの名前をとっている。ただし実在の人物フリッツ・ツォルンの名をバルタザール・ツォルンと変え、ニコラウス・フォーゲルを病気だということにして登場させず、ハンス・ザックスを入れて12人ということにしたのである。」(p317)

 「なお、「ダビデ王」はキリスト教史上、ギリシャ神話のオルフェオと「合体」し、音楽の守護者と見なされるようになった存在であるために、その動機が本作に登場するわけです。

 ハンス・ザックス=「洗礼者ヨハネ」、ヴァルター=「イエス」という舩木氏の指摘が見事である。
 これによって、ワーグナーが、わざわざ設定を変更してまで、マイスターを12人(十二使徒)にしたことも説明出来るわけである。
 残る問題は、第1幕の初めと第3幕の終わり近くに出て来る「ダヴィデ王」の位置づけである。
 というのも、「ダヴィデ王」はユダヤの王・英雄であるが、ワーグナーは、はっきりとした反ユダヤ主義者だったからである(この思考は、「マイスタージンガー」におけるベックメッサーの人物造形にも現れているそうである(ワーグナーとユダヤ人))。
 考えられる一つの説明は、マイスターたちは、キリスト教におけるオルフェオとの「合体」を果たし、音楽の「守護者」化したものとしての「ダヴィデ王」を崇めているというものである。
 だが、私見では、この説明はあくまで表向きのものに過ぎないと思う。
 ヒントはやはり登場人物の設定にあり、ワーグナーがハンス・ザックスの(おっちょこちょいの)「弟子」に、わざわざ「ダーヴィット」という名を付けているところがポイントと思われる。
 つまり、ハンス・ザックスとヴァルター=「洗礼者ヨハネとイエス」を、ダーヴィット=「ユダヤの王・英雄」の上(マイスター:親方)に位置付けようとしたのではないか、という気がするのである。
 ワーグナーの思考は、「ダヴィデ王はキリスト教に包摂された限りにおいて尊重すべきものであり、あくまでキリスト教が「上」」というものではないだろうか?
 ところで、「設定変更」と言えば、映画版「進撃の巨人」でも、リヴァイ(人類最強の兵士!『進撃の巨人』"リヴァイ"を徹底考察)を登場させないという設定変更が行われているが、こちらは”ヴ”の音がアジアには存在しないためという理由のようで、深い意味はないようだ。
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