「古代エジプト文明の根底にあるのは、この世は過ぎ去るもので、死後、復活再生した来世こそ、永遠に生きる世界であるという独特の死生観である。ただし復活するには現世で悪いことをせず、最後の審判をパスしなければならない。この思想はユダヤ教、キリスト教、イスラム教へと受け継がれていく。
古代エジプトでは現世で夫婦であったものは、復活した来世でも夫婦なのである。物語の最期に王女アイーダと将軍ラダメスはこの世の死を受け入れるが、それは彼らが来世では永遠の生命が約束されていることを知っているからなのだ。
オペラ『アイーダ』はこの究極の古代エジプトの死生観が見事に凝縮された、時空を超越した愛の物語なのである。」(公演パンフレットp29 岩出まゆみさんの解説より)
<第二の生命>中心主義は、何もパウロの専売特許ではない。
広く「霊魂不滅説」について言えば、一般的には古代エジプトに淵源をもつとされているようだ(但し、これは「個別的霊魂不滅説」であり、パウロの「集合的霊魂不滅説」とは異なる点に注意が必要と思われる。)。
なので、トーマス・マンが、ハンス・カストルプ(ちなみにこの「ハンス」は、「(洗礼者)ヨハナン」が語源である)のお気に入りのレコードの冒頭に「アイーダ」のラストを持ってきたのは、<第一の生命>と<第二の生命>のコントラストを極大化するためだったと思われる。
「歌劇のなかのラダメスとアイーダの気持ちにとっては、二人を待っている現実の姿は存在していなかった。二人の声は溶けあって第八音の半音まえの音にのぼり、そこで繫留されて、天国の扉がついにひらかれて、二人のあこがれである永遠の光りが射しはじめることを信じてうたった。この現実美化の慰藉にみちた力は、耳を傾けているハンス・カストルプの気持を異常に快く撫でてくれ、彼が愛好する何枚かのレコードのなかでこのレコードをとりわけ好ましく感じたのは、この現実美化がすくなからず原因をなしていた。」(p527~528)
トーマス・マンは、そもそも存在しない<第二の生命>でもなければ、最終的には醜悪な形態に至る<第一の生命>でもない、ある現象=「現実美化」を描写している。
これは、ラダメスとアイーダの声(<第一の生命>の作用)がつくりだすものである。
これを、おそらく小倉先生は、先生のカテゴリー:<第三の生命>のうちの「美的生命」、あるいは「間主観的生命」や「偶発的生命」という言葉で呼んでいるように思われる。
だが、ここで誰もが抱くであろう疑問が生じる。
果たしてこの現象=「現実美化」に、「生命」という言葉を与えてよいのだろうか?