パンセ(みたいなものを目指して)

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最高裁判所裁判官、国民審査は無駄じゃないのかな?

2006年10月20日 21時00分20秒 | Weblog
いつもその時になると思うのだが、すぐに忘れてしまうこと
思い出したので、忘れないうちに愚痴っておこう

最高裁判所裁判官の国民審査
これっていったい意味があるのだろうか

やることの意味ではなく
やり方の問題

ある日突然、審査してください等と言われても
その人がどんな人か知らないから審査のしようがない

それならと、彼らが裁判した主な例を記した物を与えられて
それから判断してくださいと要求されても
書いてあることの意味が専門用語の羅列で
さっぱり分からない

多少、想像力で補って分かるようになったとしても
主な裁判の例が、全員一致の場合では
その人の力量や考えの方向性は、はかりようがない

いったい国は本気になってこのシステムを
運用しようとしているのだろうか

聞くところによると×は
左から何番目が多くうたれるらしいとかで
裁判官の名前の順序を変えたものを
数種類揃えておくとか?

その紙の印刷費はどのくらいになるのだろう
それと、集計する人のコストはどのくらいなんだろう

いくら基本的には、いい考え方でも
実際的には、なんら機能していないこの方法
どうして誰も何にも言わないのだろう?

自分は正直もったいないと思う
どうしても裁判官の国民審査を行いたいなら
別の現実的な方法を考えるべきではないのか
少なくともそんな議論が持ち上がっていいと思うのだが

ちゃんとすべきことはしてますよ
分からないのは、あなたたちが勉強しないからですよ
もし国が(役所が)そんな風に言うなら
それは初めから人を誤魔化そうとしているに違いない

人はみんながみんな、あらゆる分野に
詳しくなったり、興味を持つことは出来ないのだ

こうした現実を踏まえた上で
もっともコストが低く、分かりやすく、
みんなに納得できる方法を考えるべきではないのか

暴論かもしれないが
今のままでは国民審査をしようがしまいが
同じ結果ではないのか
だったら、しないほうがお金がかからないだけ
よいのでないのか
どうなんだろう?
コメント
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