パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

レーニンの帝国主義論 再読中

2014年05月26日 14時31分47秒 | あれこれ考えること
昔、自分が大学生だった頃、
村上春樹のノルウェーの森の舞台のように
(小説ではその部分はあまり関係なかったが)
学生運動が吹き荒れて、デモ、大衆団交、休講などが
頻繁にあった

その活動的な学生の批判する一つに
産学協同反対というのがあった
大学の研究が産業界の補助を受けて行うのは
結局企業の手下となるのでよろしくない
というものだ

しかし40年ほどたった今
この産学協同は当たり前の効率のいい
むしろ進めるべき施策となっていて
誰もが(?)疑問を挟む余地はないように見える

その他、覚えていることの一つに
当時の学生たちも一種の熱にうなされて
米帝国主義うんぬんとの言葉を連発していた
事がある

ある時、ある連中が授業を休講にして
急遽会議にしてしまった事があった
その時になにか日本が輸出するのは帝国主義の
片棒をかつぐから認めることはできない
といっや内容のことを声を大きくして反していることがあった
自分はノンポリで活動には無関心の人間だったが
それでも、日本みたいに資源がない国は製品を輸出して
お金を稼がねばなんともならないし、それが悪いこととは
どうも理解できないが、、、、
などといったことを質問したことがあった

それに対する明確な答えは得られなかったと記憶しているが
最近レーニンの帝国主義論を読み返すと
考えることがあった

レーニンにいう帝国主義はベトナム戦争に乗り込んだ
アメリカの姿勢というのではなく
資本が集中すると必然的に一種の植民地政策をするのが
人間の性質 これを帝国主義といい、問題というもの

そこでまたまた考えた
産学協同は今や当たり前
経済のグローバル化も当たり前
しかし、この経済のグローバル化はその行き着くところの
歴史を見ると甚だしく好ましいものとは思えない
産学協同とは違って今度は当たり前のようになっている
グローバル化も少し考えないといけないかもしれない
(この流れを停めることはできないかもしれないが
アクセルばかりではまずい。なにかブレーキを踏むことも必要ということ)

帝国主義論
スターウォーズみたいな武力をベースにした帝国
というのではなく、
移動が瞬時に可能な金融資本の集中による
必然の到達点としての帝国主義

過去の人のレーニンだが
帝国主義論は今読んでも何時のことの報告かと
空恐ろしい気がするところがある

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論語は一般化できない

2014年05月26日 14時13分14秒 | あれこれ考えること
有名な不惑のある論語の一節


子曰、
「吾十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑はず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順(したが)ふ。
七十にして心の欲する所に従へども、矩(のり)を踰(こ)えず」。

これは孔子の回想というなら、そんなものか
と納得できても、これを一般化したり目標とするのは
かなり難しい
(いや、多分できない)

自分などはとっくに不惑を越えているが
相変わらず迷ってばかり
まして天命を知るなどとだいそれた事は
とんと思いつかない

もっとも、できないことだから目標として掲げる
というのはありかもしれない

多くの人は子供の頃思い描いていた大人とか老人のイメージと
実際自分がその年令になって感じることのギャップに驚く
人間として少しも進歩していないとか
大人ってこんなものだったのか、、、と

もちろん計画通りの人生を送っているようにみえる人もいる
しかし、この歳になるとあまり真正面から
人生をより良くするためにはかくあるべしみたいな
トーンで話されると、どうも胡散臭く感じてしまう

人間は誰もがその歳を初めて体験する
と言ったのはラ・ロシュフコーだったかな
いずれにせよ、人間そんなに大したもんじゃない
というのが実感
だからこそ、深遠な高尚な言葉、目標を掲げるものなのだろうが


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