パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

日本は山の国

2014年08月24日 10時05分45秒 | 徒然なるままに
飛行機の窓から覗くという経験はそんなに多くない
第一飛行機に乗ったのは数える事ができるくらい
38年前にハバロフスクからモスクワが一番最初で
その時の旅で次にモスクワからパリ
あとはコペンハーゲンからウィーン
フランクフルトから東京

この旅が済んでからは全然飛行機に乗る機会なし
やっと一昨年名古屋から松山往復を経験
そして去年名古屋からヘルシンキ経由でドイツへ
帰りはウィーンからやはりヘルシンキ経由で名古屋へ

飛行機、ホテル、鉄道などの手配をしていただいた旅行会社の方が
親切な方で、飛行機の席は窓側が今ならお取り出来ますが
と飛行機にあまり乗らない人用に声をかけていただいた

そこで窓側にしてもらったわけなのだが
窓際は楽しい(子どもみたいに)
昔ハバロフスクからモスクワにアエロフロートで行った時にも
窓際だったが、そこから除いたロシアの大地の広大なことはずっと記憶にあった

そして去年のも同じ印象を持った
ツンドラといわれる地域の川が曲がりくねって
途中その川が三日月湖に変化していく様が現在進行形で見られる
日本で旅をすると何処に行っても人が住んでいると思ったりするが
いかにも寒そうな大地には人っ子ひとりいない雰囲気が満ちている
人工的なものが少しも見えない
ロシアの大地  本当に凄い

そういえば上からの景色で印象的だったのが
やはり最初の旅のパリの上空でみた景色
パリ市内を俯瞰できたのだがその時の第一印象は
石の町、石ばっかり
街が石で出来ている
この印象が強烈だった

昨年のドイツ周辺は丘や平原の中に村がぽつんと
存在して穏やかな住みやすそうな印象

ところが日本に帰ってくるとその上空から見た景色といえば
山ばっかり
日本は山の国
木に囲まれた山の国
使える土地が少なくてほとんどが山の国

だからどうなんだ!
と言われそうだが、
実感として深くそんなふうに感じたということ

あいかわらず、どうでもいいことだけれど
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そうなのか!(白い蛾の多くなったのは個々の環境対応ではなかった?)

2014年08月24日 09時36分07秒 | あれこれ考えること
教科書で教えられたから疑いなく信じていることに進化論がある
しかし、その進化論もどうも疑問が出てくることがある
もっとも進化論を(分子生物学を含めて)完全に理解しているわけではないから
その疑問も単なる思いつきのレベルを超えないが

工業暗化と言う言葉がある
イギリスの産業革命時代に白い蛾よりも黒い蛾が多くなった
と言う現象を説明する時に使われる
昔は白い蛾が多かったのだが煤煙などで街自体が黒っぽくなると
蛾も天敵から見分けにくい色(黒っぽい色)のものが増えるが
それが生物としての蛾が環境に対応して黒くなったと説明されていた
(つまり進化論の説明として)

しかし、これは素直に信じられなかった
第一にそんなに早く環境に対応ができたり、
対応ができたとしても生態が変わったものを遺伝子として
次の世代に残すという機能がそんなに早くできたのか
疑問で仕方なかった

ところが最近読んだ本によると
蛾は最初から白い蛾と黒い蛾が存在して
普通の状態では白い蛾が多いけれども
少ない割合で黒い蛾も存在する
産業革命時代のイギリスでは環境に対応したのではなく
わすかに存在する黒い蛾のほうが生き残りやすいために
結果的に黒い蛾が増えきたというのが本当のところ
と説明があった

なるほど、これなら無理なく理解できそう
生物はいろんな条件を予想して(?)いろんなオプション用意して
可能性を残しておく知恵(?)が備わっているということ

働かない蟻、使わない脳、
人間の知恵の範囲では直ぐに理解できない事柄は
まだまだ多く存在する

世の中は不思議に満ちている
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時々思う「どうでもいいこと?」

2014年08月24日 05時43分19秒 | あれこれ考えること
時々思うことがある
記憶や知識はどこに保存されるのだろう
脳の地図上のことではない
そしてその物理量は現実にどこに存在するのだろう

ある刺激は脳のある場所を活性化させて
微弱な電流が流れるという
ニューロンが伸びたり作成されたりすることが
記憶につながる現象なのだが
それがどんな記憶かは分からない

一般に記憶や知識は文書化されて
そこに残っているとされる
しかし、その文章を読んで解釈する力のない人は
その文章は記憶でも知識でも何でもない

例えば古文書
古い言葉を知っていて、読むことが出来て
尚且つ必要とされる知識がある人には
その古文書は記録とか記憶のきっかけの一部となる

しかし、古文書の知識のない人は
それらを前にしても、脳に微弱な電流さえ流れないに違いない
目の前にあるのはある物質だけ

つまり記憶とか知識の存在とは
ある刺激に対する反応のようなもので
脳の中で起こる中にしか存在しない
そしてその物理量は残念ながら計測できないし
その内容は分からない

同じものを見ても同じものを見ているという事実は確かだが
同じように見えているかは分からない
例えば色もそうだ
右目と左目を片方ずつである景色を見ると
その色彩は微妙に違う
視覚に関する組織、網膜の僅かな違いが引き起こすのだろうが
同じ人間の中でさえそうなのだから
他人ではもっと違うと想像しても不思議ではない

ただ厳密な意味ではなくアバウトの部分では
みんな同じように(色を)感じているということは言えそう

音楽を聴く時、多くの人が一緒に聴いたとしても
そのジャンルの音楽に慣れているか慣れていないかで
聞き取る情報量が全然違う
例えば同じくらいの経験者であったとしても
生きている過程が違うので、やっぱり感じることの違いは存在する
それらは全て脳の中で起きている微弱な電流のなせる技

しかし、その中にもやはりある種の共通というしかないような
感情や印象を持つことがある
それは一体何なんだろう

こんなことは普通に考えれば当たり前の現象
でも少しまじめに考えたりすると極めて不思議なこと
もっともこの不思議を感じることが
生きていく上で必要かどうかは大いに疑問だが

ところで本を読む時(黙読)最初は確かに頭の中で声がする
そのうちに声の存在は忘れて内容に集中することができるが
この最初の声は(音質)は何なんだろう
普段の自分の体を通しての声とはどうも違うみたいだし
音色があるようなないような、、、

ま、どうでもいいことだけれど


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