パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

同じ演奏ばかり聴いている

2016年06月10日 19時32分38秒 | 音楽

レコード・CDが少なからずある
ジャンルは雑食系で本当にいろんな分野に渡っているが
(演歌や現代音楽のアルバムも所有している)
これだけあってもその日の気分で
順番にいろんな曲を聴くということはない

最近、聴く曲は大体決まりつつある
まるでランチメニューをついついいつも同じものを選ぶように

クラシック関係では
バッハはたくさん持っているが聴くのは少しだけになりつつある
いいのはわかっているけど、真面目過ぎてちょっとついていけず
針を落とす気に離れないでいる
バッハが一時期忘れ去られた存在となったのは少し分かる気がする
(好きなのはシャコンヌとパッサカリアと音楽の捧げもの
  受難曲はいいけど気合が乗らないと聴けない) 

ベートーヴェンは割合聴く
でも中期の一体感のある作品よりは後期のピアノソナタとか弦楽四重奏曲
音で考えるということがどういうことかを感じさせるようだ
交響曲はエロイカが好きだ
第9は特に喜びの歌の部分ではなく後期の雰囲気が漂う3楽章がいい
そういえば部分的には荘厳ミサ曲のアニュス・デイ(クレンペラー)は聴く度に泣ける

シューベルト・チャイコフスキー・ショパンはめっきり聴かなくなった
マーラーもだ

マーラーと一緒にブームとなったブルックナーはよく聴く
抵当に楽章を抜き出して響きの中に浸る

それと忘れてはいけないモーツァルト
気分次第でいろんなジャンルを聴く
聴くというより聞き流すこともあるが
これは欠かせない
モーツァルトの音楽はまるで子どもたちのおしゃべりを聞いているような
幸福な気になったりする
昔、離れ島に何か一つアルバムを持って行くとしたら、、、という問いがあったが
自分は「魔笛」
モーツァルトは別格

あとはベルリオーズもシューマンもブラームスもショスタコーヴィッチも
フォーレも、その他いろいろも聞くけど
結局はやっぱり、ベートーヴェン・モーツァルト・ブルックナーばかりかな
(そういえば案外ヴァーグナーも最近は多くなってるかもしれない) 

洋楽関係は、、、やっぱりビートルズ
ビートルズというよりポール・マッカトニー
ソロとかウイングス時代も  特に最近は低評価だった頃のアルバムが面白く感じる

ストーンズもいいけどバッハを聴いた時みたいな感じ
ずっとあの調子で聴くのはちと辛い

ジャズはマイルス・デイビスが興味深くアルバムも多いが
彼と合わなかったと言われる?モンクもなにか心惹かれる
コルトレーンはどうも波長が合わない

結局、自分の思春期に聴いた曲が好きなだけなのかもしれない
 
本当に同じ曲・演奏ばかり聴いている
沢山あるのにもったいないという気がしないでもないが
どうしても同じものを選んでしまう

ホント、食事のメニュー選びで偏るのとそっくりだ
だんだん保守的になっているということ? 

朝に続いて、毒にも薬にもならないお話、、、


 

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その存在は、生き延びる確率を上げるため?

2016年06月10日 09時55分09秒 | あれこれ考えること

時々、考えることがある

吉本新喜劇にはヤクザが登場する(最近は少ないが)
決して良いものとは認識していないが
生活の一部分のような存在として扱われている

街にはヤクザのことを中心に書いた週刊誌が出版されている
同様に漫画にもその類のものが存在する
かつては映画でもヤクザのことを扱ったものが大ヒットした

少し変わった性格の面識のある人は、ヤクザではないが
ヤクザのことをとても詳しく知っていたり、どこかしら
憧れのような口ぶりで自慢でに話す事があった

反社会的な存在としてのヤクザ・暴力団は日本のみならず
全世界に存在する
イタリアにもアメリカにも、ロシアにも、、
きっとどこの国にも 

ヤクザと暴力団と任侠道に通じた人々を一緒に扱うのは
あまりにも大雑把なくくり方かも知れないが 
こうした人々の存在するのがあまりにも常態化しているので
本来どうあるべきかどうかを超えた時点で
全世界に存在する理由があるのではないかとも思ったりする

決してその存在を肯定しているわけではないが
そのようにしか生きられない人々が存在するのも
どうしようもない事実
(それは大部分が生活環境、生い立ちに依存しているとしても)

そうなると、極論なのだが生物としての人は(DNAは)
より生き延びる可能性をいくらでも予め用意しておいて
その一つが、ちょっと社会生活になじまないが、どこか活力に満ちた
存在を残しているのではないかと思ったりする

もっとも普通は人間社会は理性とか感情に寄り添って
どこか適度に折れたり妥協したり、適度に暗黙のルールを作って
暮らすほうが生き伸びる可能性が高いと考えているから
こうした存在を困るものだとしているが

話は突然変わるが、あるキリスト教信者の本にこんなテーマを扱ったモノがあった
神が完全ならば、なぜ悪という存在を創りだしたのか(あるのか?)

この本は読んでいないが、この様に大真面目に考えている人がいる
という事実は、何か根拠もなく救われる気がする

世の中は、確率論的に存在するのか(無意識の中の)
それとも明晰なスッキリした秩序の中に存在するのか
アインシュタインは「神はサイコロを振らない」と言った
心情的にはそれを支持したいが、最近の生物学は
確率論的な要素が多すぎて、一歩間違うと生き延びることこそが
全てみたいになってしまう(と不勉強な自分は勝手に自己流解釈をしてしまうが)

それにしても、どうしても消し去ることの出来ない
反社会的な存在
どうすればより少なくなるかという方法論はもちろんだが
なぜ、存在するのか(憧れてなりたがる人々がいるということ)
という問いは困難を極める
ホント、何故なんだろう

ま、得意の毒にも薬にもならない話だけれど、、、

 

 

 

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