どうも漠然とした不安が抜けきらなくて、
重要な事ががたくさん記述されているハンナ・アーレントの
全体主義の起源3を引っ張り出してみた
ひとつのセンテンスが長くて、そのなかにいろんな思いを込めるものだから
読みにくいが、それでも見逃すことの出来ないことが残されていることは分かる
この本を読んだ時に付箋を付けておいたので、その一部分を抜き出してみた (以下第一章 階級社会の崩壊から抜粋)
全体主義運動の大衆的成功は、あらゆる民主主義者、とくにヨーロッパ政党制度の信奉者が後生大事にしていた2つの幻想の終わりを意味した。
その第一は、一国の住民はすべて同時に公的問題に積極的な関心を持つ市民であり、全員が必ずいずれかの政党に組織されるというところまではいかなくとも、それぞれに共感を寄せている政党はあり、たとえ自分では投票したことがなくとも、その政党によって自分を代表されていると感じているという幻想である。
ところが(全体主義)運動が実証してみせたのは、たとえ民主制のもとでも住民の多数派をなしているのが政治的に中立で無関心な大衆であることがあり得ること、つまり、多数決原理に基づいて機能する民主制国家でありながら、実際には少数者だけが支配しているか、あるいは少数しかおよそ政治的な代表者を持っていないという国がある、ということだった。
全体主義運動が叩きつぶした第二の幻想は、大衆が政治的に中立で無関心なら政治的な重要性を持たないわけだし、たとえそういう大衆がいるとしても実際に中立的立場を守り、たかだか国民の政治生活の背景をなすにとどまっている、とする考えである。全体主義運動は権力を握った国にとどまらずすべての国の政治生活全体に深刻な衝撃を与えたが、それはつまり民主制という統治原理は住民中の政治的に非積極的な分子が黙って我慢していることで命脈を保っているに過ぎず、民主制は明確な意思を表示する組織された公的諸機関に依存しているのと全く同じに、意思表示のない統制不可能な大衆の声にも依存している、ということがはっきりと露呈されたからである。
ここまで、、、
現在が日本が全体主義となっているか(なりそうで怖いのだが)は微妙なところだが
実際には少数者だけが支配しているか、あるいは少数しかおよそ政治的な代表者を持っていない、、
のという下りは、今のこの国の現状を表していないか、、
また、政治的中立な無関心層は、たかだか国民生活の背景をなすにとどまっているのではなくて
民主制という統治原理は住民中の政治的に非積極的な分子が黙って我慢していることで命脈を保っているに過ぎず
民主制は明確な意思を表示する組織された公的諸機関に依存しているのと全く同じに、
意思表示のない統制不可能な大衆の声にも依存している、、、
の文章も言われてみると、そんな気がする
読む終えるのがとてもしんどかったこの全体主義の起源3
もう一度読み返すことが必要なのかもしれない
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