毒にも薬にもならない話
最近真面目な(?)本を読んでいるので気休めに軽めの本を引っ張り出した
「物部氏の正体」関裕二 著
この本は読んだことがあるが、悲しいくらいに覚えていない
(だが、読み始めると少しは覚えているぞ!と安心もする)
関裕二さんは古代史の緻密な考証というのではなくて、
大胆な発想や仮説をするので、少し気をつけないといけないが
素人には親しみやすい
物部氏はほぼ聖徳太子の時代、蘇我氏と日本に仏教を取り入れるか
入れないかで戦い、負けた方の氏族
だが、この本の冒頭にもあるように少し不思議な事がある
物部氏は古来日本に存在する、多分神道系の宗教や慣わしを守ればいいと主張し
蘇我氏は海外で流行りの仏教を取り入れるべきと説いた
この時の仏教は必ずしも宗教的な要素だけでなく、科学も含めた総合的な先端情報の意味がある
蘇我入鹿と物部守屋との戦いは、御存知の通り蘇我氏の勝利
とにかく、時代は仏教を取り入れることになった(もっとあとには蘇我氏は排除される運命となるが)
そして後の時代には京都には「門跡」といわれる皇族や公家が住職を務めるお寺さんが
数多く存在するようになった
つまりは、仏教はローマ帝国のキリスト教ほどではないかもしれないが、国の主だった宗教と認識された
ところが、明治維新となった時、「廃仏毀釈」運動が活発化され仏教はその特別な地位を
失うことになった(おんな城主 直虎 でおなじみの龍潭寺には廃仏毀釈運動で被害を受けた仏像がある)
そして神道が、「古事記」や「日本書紀」をベースとする国家観が形成されるようになった
そこで現代の話に移って、現在の日本はどうか?と考えてみる
すると大きな流れというか、ある一部の方たちは京都にある「門跡」とか
仏教(お寺さん)の歴史的な意味をあまり考えていないのではないかと考えてしまう
先だっての国会でも話題となった教育勅語の精神は、仏教を取り入れた考え方ではなくて
敗れた物部氏の方の考え方が、メインとなっているのではないか
もっとも、古事記や日本書紀は、物部氏も蘇我氏も力を持たない時に
時の政権下で都合よく残されたのだが、つじつま合わせが出来きれなくて
ところどころ矛盾点があるよううだ(専門家の視点からは)
物部氏に関する神社といえば奈良の石上神宮
大和朝廷の武力部門を任されていたのが物部氏で「もののふ」
という言葉は「物」と「部」という文字を読み替えることができる
とにかく、そこには「七支刀」や「勾玉」などのお宝がたくさんあって
普通の神宮とは格が違いそうで、一度は行って見たい場所だ
物部氏は「先代旧事本記」という偽書の疑いがある本にその出自や役割等が書かれているらしいが
天照大神の孫のニニギの天孫降臨の前に「ニギハヤヒ」が既に「天の磐船」に乗って天から
降りてきて治めていた、、とのエピソードはSFぽくてなかなか面白い
古代史は一人の人物でも名前がいくつもあって覚えにくい(覚えられない)
漢字も幾種類の表記があって手に負えないが、ここのあたりをわかりやすく
誰かSFぽい小説にしてくれないかな、、と思ったりする
いつものように上手くまとまらないお話、、ま、いいか