パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

楽しむ能力

2018年02月05日 19時20分07秒 | 

昨年はまずまずの読書量だったかもしれないが、今年は思いっきりスタートが出遅れている
その原因はプルーストの「失われた時を求めて」のせいだ
端っから全部を読み切る気力はないので、(上)(下)の2冊(各500ページくらい)にまとめられた
ものに挑戦しているのだが、正直なところ投げ出したくなる
20世紀の重要な小説などという触れ込みがあるものだから、気張って購入したのが10年以上も前
しかし、最初の数ページですぐさま挫折してしまった
本棚で背表紙が見える度に読もうとしないことに心苦しい気がして、敢えて見ないようにしたりしたが
どういう風の吹き回しか、突然読んでみようかという気になった

しかし、ほんとに手こずる
たとえ2冊を読み終えても(最後のページにいっても)何にも覚えていない
と自信を持って言えそうだ
劇的なストーリーがあるわけでなく、ひとつの事が書かれると思ったら知らないうちに
妙に細かな描写とそこから連想することなど、、、本当にわけがわからなくなる 

併読している「植物はすごい」を先に読んでしまおうと思ったが
ここで一旦離れると、もう一生読めない気がして、それに登場人物の名前や背景も忘れてしまいそうなので
無理やり浮気はやめて、とにかくこれを最後まで読もうと思いこんでいる

だが今日読んでいたところは、泣きそうになった
「祖母の病気と死」と題された章だ
自分を無条件で大事にしてくれた祖母が、老衰でだんだん弱ってきて、いったん病院に行ったものの
病院の生活はいやだ、どうしても家に帰りたいと必死に望み、多分祖母も死の覚悟をしたのだろうと思うが
その祖母がこの小説の描写にあるような状況になっていった
読んでいて頭に浮かんだのは祖母との最後の数ヶ月のシーン
祖母のことを思い出すと今でも感情が高ぶってしまう
有名なマドレーヌのシーンは覚えていなくても、このシーンはいつまでも覚えているかもしれない 

ところで、今はもしかしたら(上)(下)の最後まで行けるかもしれないという気がしている
というより、どこか意地になって最後までページをめくるつもりでいる
何も覚えていなくても結構、
少なくとも楽しんでいないなら最後まで行けるはずはない
だから何も覚えていないということになっても、読書の瞬間瞬間はなにかしら楽しんでいるのだろう
考えてみると、これは贅沢なことかもしれない
auのCMじゃないが、「学んだことは誰にも奪われない」 みたいなもので
楽しむ能力は誰にも奪われない、、いうところかな 

もっとも、それは何の役に立つわけでもないが
ま、いいか! 

コメント
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