パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「標的の島」を見て思い浮かんだこと

2018年02月11日 08時26分52秒 | あれこれ考えること

他人事ではいけないと思いつつ積極的に何か発言するとか
何かをするまでには至っていない沖縄の問題
遠く離れた地からすれば、残酷な「全体の利益の為に」の言葉を簡単に発してしまいそう
その言葉のせいで彼ら島民がどれだけの困難な理不尽な目にあってきたかを
考えることもなく、流れるままに(報道の)ただ現実を眺めていただけの自分

少しばかり引け目を感じる自分にきっかけを与えてくれたのが、穏やかな性格のH氏
年齢はいってるが、市政や憲法や原発の問題にも関心をもっていろんな活動に参加し
決して過激に走ることはなく、賛否両論を考えるタイプで本当に尊敬できる人物だ
そのH氏の求めに応じて購入したのが映画「標的の島」のチケット

深刻な重いテーマだが、全体的にはそのような雰囲気はない
それは反対している人たちの「無抵抗・無暴力」の行動、そしてあの地方の方々の
何かがあると直ぐに踊りだす(三線を演奏しだす)文化のかもしれない

無知と情報をもっていない身でこのドキュメンタリーを見ると
演奏会で音楽を聴いている時のように、いろんな想像が勝手気ままに飛び交う
それは現在読書中のプルーストの「失われた時を求めて」のようで
人の頭の中というやつは、何かを感じていて時間を費やすというのは
まるで夢の中の出来事のようだ(プルーストの影響が大きいかな?)

映画の中で思い浮かべたこと
画面によく出てくる三線の音楽や踊りは彼らの生活に本当に根ざしており、これらは人を結びつける大きな力となる
これらを見るとシベリウスの「フィンランディア」が祖国の統一の意思表示に大きな影響を与えてるのがわかる
文化とか伝統というのは理屈以上の何かなのかもしれない

未来は結局のところ各人が想像する事によってしか目前に現れないが
沖縄の問題については、この未来を想像する、この方向性が2つに分かれる
ひとつは日々報道される不安を感じさせる社会状況(周辺諸国の軍事拡大路線とか)に対して
リアリストが考える力には力で対抗する(戦うためではなく、戦わないための)抑止力の選択
片方は何かのきっかけで戦いが起こってしまった場合には、誰でも思いつくが真っ先に攻撃されるのは
軍事施設のあるところ、つまり沖縄で、先の大戦では考えもしなかった一般市民の犠牲がまたもや繰り返されるのではないか
もうあのような経験はしたくないし、すべきではない、、
力に力で対抗するのは、間違いを犯す人という生き物を前提とすると良い方法ではない、、との考え方
この2つのどちらがより現実的なのか、、、はっきりいってよくわからない
しかし、どの国の人も無駄な戦いはしたくないのだろうから、どこかで折り合いをつける方法を選択して欲しいと思っているが
このあたりは、まだ当事者ではない他人事の感覚なんだろうか

宮古島の基地の受け入れについては反対の人もいれば賛成の人もいる
この映画は反対の立場からだが、受け入れを市長・議会が承認した
市長も議員も住民の選挙による選択なのだから、彼らが暴走したとはいえない
しかし、ここで問題となるのは新城市でも似たようなことだが
選挙は本当に民意を反映するシステムになっているかという点
以前新城市の選挙の時も考えたが、ある人にとっては選択基準は「よりよい社会」という想像の中にあり
ある人物にとって「いまを生きている社会が続くか否か」という現実の問題となる
こうした場合、想像の上でのより良き社会よりも、現実の生活の継続を求めるほうが多いのは容易に想像がつく
だからこそ選挙というシステムが本当により良き社会を生み出しうるのか、、ちょっと疑問
と言って、それに替わる方法を考えたり思いついたり提案しているわけではないのが情けないが
軽く考えると、選ばれるような人たちが、本当に全人格的に優れていれば、、ありがたいということに落ち着くかもしれない

反対運動をして座り込みのデモをしている人たちを排除する為に日本各地から警察官が動員された
地元の人間でなく当事者でない警察官は一体どのような気持ちなのだろうと考えた
前に読んだ本のなかには、感じやすい警察の人もいて涙を流しながら職務を遂行した人の例が紹介されていた
(その人は直ぐに現場から離れるようにされたらしいが)
個人として、人として、こうした問題に考えてしまうと組織がまとまらなくなってしまいそうなのは想像がつくが
こうした公務員のような人が、人としての判断をしてはいけない世界は、、少し、どうなのかな
組織がばらばらになるから統制を取るためには仕方のない現実的なシステムが現在の法律だろうが
これを思うと「アイヒマン」も命令に従った単なる役人に過ぎない事になる
個人の判断というのが、どこまで必要でどこまで責任があるものか
ちょっとばかり答えの出そうもない問題となる
(ハンナ・アーレントの著作のなかには「判断と責任」というのがあったはず、読み返してみるか、、)

結局のところ、答えのないことをうだうだと頭の中で考えることになってしまったが
明らかなことは、沖縄の人たちにもうこれ以上の負担や犠牲を強いることは良くないし
先の大戦であったような経験は絶対繰り返してはいけないということだ

その思いを島の人たちは「非暴力」「無抵抗」で続ける
彼らは非力だ
徐々に進みつつある現実には力や効果を持たないように見える
でも、「なぜ続けているか?」の問に
「知ってしまったら、、何かをせずにはいられない」
沖縄の過去の歴史、これから起きうるかもしれないこと、、それらを知ってしまったら
自分が何ができるかわからないが、何かをしなければならない
そしてその行動がたとえ無駄であったとしても
「この理不尽なことに対して、反対をした人間がいた事実は歴史に残る」とこたえる
いい意味での開き直り、悟りのような言葉は、この映画の最後で登場するが思わず熱くなる

役に立つこと、無駄なこと、
でも自分が信じて行うべきとしたことを、続けること
結局は自己満足かもしれないとしても、その意志の気高さ、、は
そのように生きている人がいるという事実は、ひとをどこかホッとさせる

日曜の朝というのに、相変わらずうだうだと、、ま性格だから仕方ないか
昼からは宗次ホールでのシューベルトの「冬の旅」聴きに行く
男性ではなく女性による演奏だが、ちょっと楽しみ、、
せっかく名古屋に行くから、あれ買ってきて、、との注文を受けているが
はいはい、でも高島屋はバレンタイン絡みで混んでいるだろうな、、




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