パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「失われた時を求めて」と「シッダールタ」「嘔吐」など

2018年02月12日 18時00分58秒 | 

気張ってみたものの本当に最後までいけるか自信がなかったプルーストの「失われた時を求めて」

と言っても5分の1に短縮されたヴァージョンだ
読み始めたのが1月15日くらいで、読み終えたのが昨日の名古屋からの帰りの電車の中
約一月で読んだことになる
いや、読んでいない、とにかく最後のページまでたどり着いただけ、、という方が正確だ
なにしろ苦労した、ひとつのセンテンスが長いし劇的な事柄が起きるわけではなく
だらだらと頭に浮かんでくることを描写していて、おまけに登場人物の名前と地位とか覚えられない
いちいち気にしてると前に進まないので、得意の「ま、いいか!」で突っ走った

確かに単純に面白いとはいえない
しかし、何故かやめる気はしなかった
上の「祖母の病気と死」の章は、この小説の中で初めて感情的に揺さぶられた
客観的に愛する祖母の亡くなっていく様を書いているのだが、自分の祖母のことを思い出されて涙が出てきた
この時に多分決心した「最後まで読もう!」と

一冊目をようやく読み終えると、二冊目は文体に慣れたせいもあるかもしれないが今度はそんな苦労しなかった
内容もとちょっと下世話な話になって同性愛だとか、恋人に飽きて別れようとするが先を越されて何処かに旅立たれると
やたらと口惜しくて諦めきれない感情になっていく細かな気持ちの揺れはとてもリアルで気持ちにフィットしてきたが
ふとこの様に自分の気持ちにフィットし始めたのは小説が終局に向かってドラマティックになっているせいではなく
プルーストも年令を重ねて来た時期の作で、それが今の自分の年齢に抵抗感なくなったのかもしれないと思ったりした

この小説のタイトル「失われ時を求めて」の失われた時の考察がびっしりと書き込まれた「見出された時」の
「木よ」と「時を超えて」そして「一冊の本」はまさに長編小説の楽しみ真骨頂みたいなもの
今まで細々描写されていた事、エピソードや思い、風景が一気に回帰する
この効果はすごい、、そしてプルーストの本当に表現したかったこと、伝えたかったことがものすごい力で頭を襲ってくる
ところが、急に変なことが頭に浮かんだ
これはヘルマン・ヘッセの大好きな小説「シッダールタ」の最後の部分に何か似ている、、と
またサルトルの「嘔吐」にも似ている、それどころかメルロ=ポンティの「目と精神」にも似ている
その他にもゲーテの「ファウスト」の第二部「「止まれ、時よお前は美しい、、」(だったかな)に部分の気持ちにも似ている
ここまでくると連想は勝手に羽ばたいて音楽の分野にまで達した
ベートーヴェンの32番のピアノソナタの第2楽章の境地にも似ている、、

結局のところ人の達する境地というのは表現の方法は違うかもしないが、印象としてはどこか似たものになるのではないか
などと根拠のないことを思い浮かべたわけだが、何故かそれはそんなに違っていない気がしている

この「失われた時を求めて」は全体の5分の1の縮小版で、他の部分はどんなことが書かれているのか気になるが
さすがに今は全部読もうという気は起きてこない
その代わりにウキペディアでこの小説のことを復習している
すると、情けないことにこんなの小説のなかにあったかな、、と思われるようなところがあって(注目していなかったせいで?)
自分の読書力に自信を失うことになるが、、、
でも、ま、いいか!
今は縮小版でも最後まで行ったことで、自分で自分を褒めることにしよう

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「冬の旅」宗次ホール

2018年02月12日 08時39分51秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

森進一ではなく、シューベルトの方の「冬の旅」を名古屋の宗次ホールまで聴きに行った
有名な楽曲だが「冬の旅」はレコードでもめったに聴かない
昔ハンス・ホッターの歌うレコードを聴いてその孤独なモノクロの世界のやりきれなさに落ち込んでしまったからだ
でも、もっと昔の高校の音楽の授業では冒頭の「おやすみ」を歌ったときは気分良く歌っていた
ピアノが表情豊かに伴奏して、イタリア歌曲の声を張り上げる心地よさとは違う種類の快感を感じていた

少し前、急にこの曲を聴く気になって幸いカビの被害がないレコードをかけた
すると、昔聞いたときのような絶望感、やりきれない思いは感じない
むしろなんと表現していいかわからないが、美しさみたいなものを感じるのだった
今なら聴けるという気分になった時知ったのがこの演奏会だ

歌うのは男性ではなく女性(メゾ・ソプラノ)
この歌い手さんの情報は自分には全くない(最近の音楽界の情報はCDを買わないから手に入らない)
歌い手がどうのこうのというより、その時が楽しめればそれで満足、、
という気持ちでどんな演奏会も集中することにしている

高校で習った「おやすみ」が始まる
いきなり、あれっ!と感じる
ピアノの音が何か予想と違うような、、
自分の頭の中ではもう少し軽い音を予想していた、しかし、実際の音は重い

結局のところこの違和感(こうした発見が実演の楽しみなのだが)は最後まで消えることはなかった
「菩提樹」でも、一瞬の明るい感じを見せる「春の夢」でも、また「からす」でも表情豊かな
高い音程のメロディはどこかゴツゴツしていた
自分の希望としてはピアノ伴奏は歌にまとわりつくような、それでいて物理的な音ではなく
自分の頭のなかの楽器がなってるような錯覚を起こしてくれる演奏を期待してた
(この感覚はヴォルフの歌曲をフィッシャー・ディスカウの歌うレコードのバレンボイムのピアノ伴奏で感じる)

最後の辻音楽師(ライエルマン)でももう少し虚無的な印象が残る伴奏はできるのでは
と思ったが、この人(高橋悠治)はこの演奏スタイルなのだろう
今回のピアノは伴奏というより二人がそれぞれ主張してるような気がした
そこで、これは自分だけが感じることか、、と思ったが、この演奏会のポスターを改めて見てみると
「あえて洗練を避けた無骨なピアノ」という文字が書いてある
やっぱりそうなんだ、、錯覚とか思い込みでもなさそうなので少し安心したが
それでも好みとしては、普通のピアノが良かったな、、が本音

歌い手さんの方は特に気になるところはなかった
メゾソプラノでも変じゃない
歌が進むに従って徐々に集中が高まり、熱気を帯びていくのは生ならでは
しかし、今秋はピアノが気になって仕方なかったな

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