パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

その人の性格にあったやり方(それには自分を知ること?)

2018年02月26日 09時51分34秒 | あれこれ考えること

平昌オリンピックが終わった
感動の押し売りみたいな、人間ドラマを過剰に演出するテレビは
メダルを日本選手が獲得して嬉しくないはずはないのだが、少し引いてしまう
どの国のどの選手も背負っているものがあり、壮絶な努力があり、それを支えてくれている人たちがいるということ
それでいて勝利の女神が微笑むのはたった数人だけという事実
またの機会というものが存在しない可能性、一回限りの運命のような白黒をつける勝負の厳しさ
それを受け入れる選手自身の気持ちの整理の仕方、、(特に良い成績ではなかった人の)
これはどんなものだろう
一方メダルを獲得した人、多分人生はメダルをとってからのほうが長い
メダルをとったことが人生のピークとならないことを望むしかない、、

ところで、カーリング(またもや)のある選手のメンタルコントロールのことが報道にあった
例えばミスをした時には無表情を装い、平静にしているべきと思っていたが
後悔の念や悔しい、落ち込むといった当たり前の素の感情を受け入れることによって
前に進めるようになるという考え方もあって、それが役立ったという内容だ

話はいきなり飛んで、社会人の仕事上の目標について
目標は高く掲げてそれに向かって計画的にコツコツと積み重ねるべきとの考え方があり
それは自己啓発でも推奨される
サッカーの本田などはこの考え方の典型で、その意志の力には恐れ入る
もう一方、高い目標は余りにも非現実的すぎるように思える人は、
まず目前のちょっと努力すると叶えられるハードルを設定する
そしてそのハードルを超えたならば新たにハードルを設定してそれを繰り返す
その結果、気づいていなかったところまで達することができる

この2つの考え方は、どちらが正しいか、現実的かといえば一概にいえないのではないか
どちらかと言えば、前者の考え方をすべしとの意見が多そうだが、軟弱者の自分は
本当にそうなのだろうか、、と思っていた
まともに議論するととても勝てそうもないけれど、、
でも、なんか違う、、と思いはなくすことが出来ないでいた
グダグダと考えていたが、あるとき浮かんだのが
その人の性格にあった考え方を選択することがベストなのではないかということ
遠い目標を掲げてコツコツするのが得意なタイプのひとはそのやり方で
目の前の課題を一つ一つくなしていくのが得意な人はその方法で
それぞれが取り組めば良いのではないか、、と

ここで話は戻って、自分の素の感情を受け入れることについて
後悔する気持ち、落ち込みそうな気持ち、反対に爆発的に舞い上がる気持ち
そうしたものをいったん受け止めてるというのは、とても素直な感情の持ち方だ
(味方にも相手に対して失礼のないような態度を取るべきとする人には受け入れがたいかもしれないが)
この素の感情を受け入れた人でも実際には表に出る表情は平静となっているとしても
それは単に感情表現の技術上の問題となっている

いつものように変な話になりつつあるが、例えば人は「死」を恐れる
先日も知り合いの方のお母さんのお葬式があって、普段考えたくない「死」を
否応無しに意識することになった
「死」を恐れない考え方を無理やり理屈の上で考える、、
でもそれは無理じゃないか、、と思う
ならば、恐いことは恐いと認めて、そしてその思いの中から発生する感情に委ねる
できることは実はそれくらいしかないのではないか、、
ここで肝心なのは、自分とどのように会話をするか、、という問題
結局のところ「自分探し」をしてからでないと、良い選択は出来ないのではないか、、ということ
自分との対話、、自分探し、、
少しばかりロマンティックな結論(?)だが、これが肝心ということ
大好きなヘッセの「シッダールタ」は内面への道のシリーズで
この小説からおおいに影響を受けた結果かもしれない
ところで、最初のカーリングの話とどう結びつくのだったかな
全然関係のない話になってしまったが、いつものこと、ま、いいか!


コメント
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