パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

個人の判断

2021年03月14日 16時11分49秒 | あれこれ考えること

軍事クーデターを起こしたミャンマーでは、それに反対するデモする人々に向けて発砲を行い
既に死者が少なからず出ているとニュースにある
一方、軍の命令に従えない軍人、その家族が隣国に亡命をしている例も100人を超える
との報道もある
上司の命令だからといって(あるいは法的な縛りによって)抵抗感なく発砲をしてしまう
ことに葛藤を覚える人たちがいるのは、人として理解できる

日本では沖縄で座り込みをしている人たちの排除の命令をされた警察(?)の中に
どうしても地元の人間に対してそのような行動を起こせない人たちがいた
「お前(警察)も沖縄人だろう、こんなことでいいのか!」と言われて、涙が溢れて
立ちすくむしかなかったなかったらしい

法的な強制力(命令に従うべき)があったとしても、判断をするのは個人だ
法的な命令を個人はどの程度守るべきかは、思いのほか難しい問題のように思える

アイヒマンは命令に従っただけだ
自分がしなくても他の誰かが行った
自分は自分を守るために行ったに過ぎない
と自己弁明を行った

しかし、彼のその言い分は受け入れられなかった
ものをわきまえた個人の判断というものが、人としてあるのではないか
それこそが人間(のあるべき姿)との理屈で、命令に従ったのは支持していたと判断される
そのような人と一緒の世界に住みたくはない、、、との理由で、彼は死刑の判決を受けた
(多少、ニュアンスは違うがおおよそこんなイメージと理解している)

公務員は法的に業務上の上司の命令に従わなければならないことになっている
だが誰でも想像できるように、法定スピード以上で走れ!
という無茶な上司のドライバーに対する命令は聞かなくても良い
そこには常識としての個人の判断がブレーキ役を果たす

だが、もう少しデリケートな問題となると、個人としての公務員はどのような判断をすべきかは
一気に難しい問題となってしまう

数年前、あまり経験しないほうが幸せな行政訴訟というものを経験した
市長に対して、「庁舎建設予定地以外に物件に支払われたの移転補償費の返却」を求めたものだ

裁判前の市議会の一般質問の時点では、該当する部署の部長は人事異動で変わっていた
新しい部長は事情をよく知らない
そこで前の部長の話を聞くこと、資料を受け取ることで、共通の連続した考え方を引き継ぐことになるのだが
問題なのは人として(個人として)前任者の行い・判断を無条件に受け入れるのが良いことか、どうかという点だ
常識な判断力があれば、この一件はおかしい!と感じても不思議ではなかった(そう感じさせる証拠があった)
しかし、彼は市側の不自然な行為をかばい続けた

この裁判は「疑われても仕方のないような経緯がある」ことを裁判所が認めて
いくらかの解決金を市長が払うことになった

自分が気になったのは、裁判に勝つとか負けるということではなくて
個人としての公務員は、自分が疑問に思ったことを自分を抑えて無理筋の理屈に
従ってしまうのだろうかという点だ
組織を守るとまではいかなくても、前任者の顔を潰すことはしまい、
市政の連続性が何よりも大事との判断が
フッと浮かぶ本当のことはどうだったのか?といった疑問より優先するとしたら
現実的だとはいえ、少し悲しく思えてしまう

最近の官僚さんは、個人の判断は全く行われない
国家公務員法の業務上の上司の命令に従う、、という条文に支配されている
(だから、直接の上司である内閣とか大臣の命令に従ってしまう)

話は飛んで、個人としての人格
この扱いとか考え方が、日本と欧米とは少し違っているのではないのか?
最近、そんな気がしてならない
(欧米は日本と比べて、個人には責任を伴った判断力があるものとしているような)

前川さんが官僚は面従腹背と言ったのは、今更ながら、納得してしまう

コメント
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