偶然見かけたニュースのなかに、アメリカのIT業者にたいする国会(?)での問いかけがあった
連邦議事堂に押し入った暴徒たちについて、フェイスブックのザッカーバーグ氏に
「あなたたちのSNSが(結果的に)あのような行動を誘発したと思いますか?」
との問に彼は
「私達のSNSの目的とか意義とか方針は、、、」(正確に記憶していないがこのような内容)
と答えた
それを聞いた質問者はすぐさま
「質問に答えていません。きちんと答えてください」
と話を逸らすことを拒んだ、、、とあった
そんな当たり前のやり取りが、羨ましいと感じられるのが今の日本だ
聞かれていることに答えない
あるいは答えるべき人ではなくて、別の人間が答える
その答えも世間常識からすれば違和感を覚えるものであって
単に言葉の上では突っ込みどころがないものに終止する
それは官僚の得意とする文書解釈による実態とは違う答弁だ
ドラマ半沢直樹では「そんなのはあなたたちの理屈で世間では通用しない」
とスカッと言い切ったが、この国の一番大事なところでは曖昧な議論に終止している
最近ここは裁判の場か?と思ったりする国会
そこは議論の場というものの実態は政府側の説明の不備を追求する場になっている
そして一番の違和感は「嘘を言っている」と感じられることも
それ以上の追求ができなくなっていることだ
自白をしないので、いつまで経っても自白を促すみたいな状況になっている
だが、当事者とすれば都合の悪いことは正直に話すはずがない
それが人間というもので、それを人はこうあるべきだとの理屈で追い詰めても
現実的ではないように思われる
話は飛ぶが以前、行政裁判を経験したころ流れたテレビ番組で
「行政裁判で偽証罪にならない人は誰か?」とのクイズがあった
答えは原告と被告なのだそうだ
この双方は自分たちの都合の良い話をしたがる傾向があって
人間というものはそういうものだから、それぞれの言い分を精査するというのは
現実的でないから、あえてそこには深く踏み込まないということらしい
そういえば、証言も家族とか身内からのものは、嘘を言ってかばう可能性が高いので
無条件には信用されないらしい
いつまで経っても本人の口から正直に(望む答えを)でてくるのを待つというのは
現実的でないと思われる
その(証言の)代わりの方法として証拠による追求があるが、これもまた資料の破棄や
改ざんや、いろいろ理由をつけてでてこないので追求の手は停滞する
このような状況をメディアはどこか他人事のように「野党は攻めきれず」と報道してしまう
だが、前に進まないのは誠実に答えていないからなのだ
アメリカの議会のように「質問に答えていません、きちんと答えてください」
と仕切り屋がコントロールすれば状況はもう少し変わると思われるが
この仕切り屋を決めるのも数の力で都合のいい人になっている
最近ほど「民主主義」という言葉が表にでてくる時はなかったかもしれない
遠くミャンマーでの出来事もそうだが、一見民主主義のステップを踏んでも
結果的に世界は独裁のような国家が増えているという
その時に都合よく使われるのが多数決という物事の決定の一方法で
これは日本でも無条件に万能とのように思われているが、
物事には多数決で決めるべきでないことある
例えば数学的なABC予想の証明は正しいか?などは素人の多数決をしても意味がない
これに白黒をつけるのは知識と能力のある専門家しか資格がない
つまりは、多数決をするにしてもそれに対する判断材料や知識が必要であって
自分たちの組織の損得で決めるのは数の暴力に過ぎない
とまあ、いつものように話が飛んでまとまらなくなったが
これが最近頭の中でイライラしていること
歳を取るとストレスが増えるのかもしれないが、
正直なところ、このようなことで増えるとは想像していなかった