やっぱり不思議だな!といつも思う
それは相性の一言で片付けられるものだろうか
そして感じ方には個人差があって、安易に一般化などできない
と言った一見正しそうな考え方に集約されるのだろうか
ハイデルベルクの墓参りまでいったフルトヴェングラーの演奏の印象のことだ
この人の演奏の時間の経過が、他の人のそれとは全く違うように感じられる
時間の経過だけでなく、音から感情に影響し、それがさらにもっと深いところまで達して
一つの実体験のように思われる演奏
これが不思議で仕方ない、例えばトリスタンとイゾルデの2幕 有名な二重奏のところ
Flagstad/ Suthaus, Wagner: Tristan und Isolde, Love Duet
これなどは、濃厚な時間経過そのものだ
徐々に音量をあげていく、そしてテンポを落とす、そうした物理的な作業がなんでそんなにも
印象として違ってくるのかが不思議で仕方ない
もう少しポピュラーな曲の例ではスメタナのモルダウがある
フルトヴェングラーのタイプの曲ではないが、ここでも冒頭のフルートの掛け合いが
単に心地よい音としてではなく、二人の奏者が会話をしているように感じてしまう
そしてそれは感覚の世界ではなく、もう少し深いとこまで響く
Smetana: Vltava (The Moldau) Furtwängler & VPO (1951)
スメタナ ヴルタヴァ(モルダウ) フルトヴェングラー
そしてあの有名なメロディが奏される時の憧れに満ちた思い
こうした感じ方は、フルトヴェングラー信者の戯言に過ぎないのだろうか
しかし、たしかにそう感じるのだ
そしてそれは唯一無二だ
ただこれは時代背景とか背景知識の違いによって感じ方も変わってくるかもしれない
現代の人には、トリスタンはクライバーの演奏とかティーレマンのほうが
しっくり来るのかもしれない(自分には物足りなく感じても)
どうも新しいものを受け入れるのが難しくなってきているようだが
その代わりフルトヴェングラーの味わいを異様なほど感じられるのなら
その世界に沈潜する時間の過ごし方も悪くないだろう