生放送は時にとても奇妙な映像を残す
その動画はすでに一部のSNSで話題になっているが、昨日の菅さんの記者会見には明らかに不自然なことがあった
司会者は質問のある記者は挙手するように促し、その中から司会者が指名して質問をすることになっていた
ところがマイクの前に立ち質問をし始めたのは、挙手をしていなかった(スマホをいじっていた)別の記者だった
しかも更に奇妙なのは記者の質問が終わらないうちに、菅さんは手元にある用紙を読み始めた
またか!
以前から指摘されているような出来レースの記者クラブの会見の光景だ
ここで一番の危険性を感じるのは、挙手していない記者が質問台に立つのを
見逃している記者が当たり前の様に存在することだ
普通なら手を上げていない人がちゃんと挙げている人を差し置いて質問台に立つとなれば
不平不満が出てくる
そしてそこに険悪な空気が生まれる
しかし、何事も無かったかのように時は過ぎていった
きちんと答えるためには、事前に質問を渡してもらったほうが間違いない答えができる
という理屈は、議会における質問通告による進め方を見習ったものだろうが
答えが質問に対して適切な答えならまだしも、相変わらず論点をぼかした抽象的な答え
あるいは意気込みに終止している
(ここでも記者たちは不満の声を挙げない)
この状態に報道という貴重な役割をになっている方々が、何の違和感もなく
ルーティンワークのように時を過ぎしていくのは想像以上に恐ろしい状態と思う
内々の理屈が世間の一般常識とは異なる場合は珍しくないと思う
いくら緻密な思考の末だとしても、その世界だけで秩序が成り立つものの実世界を反映しないようなものに
果たして意味があるのか、、、と考えたのがヘッセの「ガラス玉演技」の中の名人ヨーゼフ・クネヒトだった
名人は引退して実世界を把握するために世界に向かう
この名人のような思考過程が記者の中には全く生まれなかったのか、、と残念に思う
記者クラブの中の共通認識のようなもの、まずはそれすらを疑う、、そうしたものが見られないのは
人としての内面化の行程を充分に経ていないのではないのか、、と思えてしまう
記者の質問の上手い下手以前に、ジャーナリストというより会社人間としての立場が目立つ最近のメディア人
先の戦争の時、メディアは何をしたのか、、、を振り返ると、
メディアはまたもや同じことを繰り返すのではないのかと不安を覚える
メディアは「誰々がこう言った」というストレートニュースをよく考えずに報道する
だが、そのくらいのことなら誰にでもきる
肝心なのはそこから先だ、、専門的な知識と情報を駆使して、伝えるべき内容は何かと考える
そこから生まれるのは多少感情的な空気が漂うものかもしれない
だが、その方が人の心を打つ場合が多い(報道のピューリッツァー賞はエモーショナルなものも多いらしい)
まるで蝋人形の様な表情で、抽象的な言葉を続ける人たち
そしてそれを各社競うことなく垂れ流しする報道
田舎にいて、ぼーっと生きてるだけの人間でも、最近の社会はどうしても不安を覚えて仕方ない