パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

勝ちと負け

2021年07月22日 09時22分31秒 | あれこれ考えること

プロの音楽家(演奏家)を目指していた友達が、ある時
「スポーツが良いよな!勝ち負けがはっきり出るから!
 その点、このまま音楽の道で良いのか悪いのかは答えがなくて
 ずっと悩みっぱなしでいなければならない!
 スポーツのように結果が出れば、スッキリ諦められるのに、、」
とこぼしたことがあった

オリンピックが始まる
へそ曲がりな自分は、今回は素直に喜べない気持ちでいる
テレビ中継も自分からは見る気がしないし(一部を除いて)
スポンサー企業の製品もあえて購入しない気持ちでさえいる

一部の競技は見るとするがそれはサッカー男子だ
だが、それはオリンピックだからというよりは、強い相手と戦う姿と
自分たちの改善点と、試合の中の気持ちとか戦術の変更を見たいがためだ
それが可能なら、オリンピックでなくても良い

勝ち負けがはっきりする勝負事は、負けることによって何かを得る機会となる
東大の学生が囲碁を覚えるのは良いことだ、、
と「ヒカルの碁」でブームになった時、ある人が声にした
それは負けることを知らない成功者としての東大生が
負けるということを知る良い機会になるからだ、、との意味が込められていた

スポーツや囲碁将棋は、勝ちと負け、答えははっきり出る
オリンピックに話を戻すと、日本選手以外のどの選手にも
それぞれの涙を誘うストーリーがあるに違いない
勝った人だけが壮絶な努力をしているわけじゃない
だが身内びいきの報道は(それはある程度仕方ないが)感情的なストーリーを伝える
(勝利した場合は特に)
そしてその勝利は人に高揚感を与える
見ているだけで自分が努力して果たした結果ではないのに、我がことのように喜ぶ
この気持ちがどうして生じるかはわからないが、そうなることは理解できる

だが正直なところ、自分は今回のオリンピックはそうした自国の勝利者にさえ
高揚感を覚えないかもしれない、、とさえ思う

何かが根本的なところから違う、このやり方で良しとしていいいのか
と疑問や違和感がずっとついて回っているからだ
コロナ問題以前から、このオリンピックはこの時期の猛烈な暑さ故に抵抗感があった
絶対に行う時期が違う、、と感じていた
テレビ放映の都合でこの時期になったとされるが、そのような商業システムに振り回されて
一種の見世物的になってしまって、つまりは現代の商業主義的なイベントに
大義名分をつけて行われるオリンピックは、本当に良きものなのか、、が疑問で仕方ない

勝負事は勝ち負けがはっきり出る
運不運を含めて4年に一度の残酷さ、それも人には理解できない天の采配かもしれない
それらの結果は当事者が、時間をかけて内的な消化をして、
いつかその結果は正当なものであったと思えるようになるしかないだろう

だが、オリンピックがこうした選手一人一人の内的な物語をつくる機会だとしても
今回のオリンピックは、勝ち負けの荘厳さ(残酷さ)を単なる見世物化したようで
とても気分が良くない

そしてホスト国の日本
一体、どうしちゃったんだ、、と思うようなことが後から後から出てくる
かつては日本は現場がしっかりしていると言われたが、今出ているのは
現場の想像力のなさから生まれる情けないことばかりだ
この一連の情けないドタバタは、
既に日本の劣化が始まっていた、、という説に、つい納得してしまう

勝ち負けから判断すれば、日本は既に負けの状態であったものを
それを認められすに長いこといたのかもしれない、、とさえ思う

オリンピックを前にしても、少しもウキウキしない
この気分でいることは、形としてここに残しておく




 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする