高校野球は当たり前のように地元の高校を応援する
まずは地区予選では市の代表を応援して、市のチームが負けたら隣の市のチームを応援する
甲子園の本番では県の代表を応援する
ここからが今日のテーマだが、地元の代表が負けた後、次は何を応援するか?
愛知県民である自分の家族は、愛知県代表が負けると隣の県である岐阜県、静岡県のチームを応援する
たとえ応援はしなくても気にしている(隣でも三重県にはあまりそういうことはないようだが)
話をオリンピック、あるいはワールドカップに変えると、応援するのは当たり前だが自国だ
だが、それが敗退してしまうと日本人はどこを応援するだろうか
一部のマニアックな人を除いて、地元だから応援していたような人はどこを応援するか
先の高校野球の例からすれば、隣の国となるかと思えば、それはどうだろう
日本ではなくアフリカの国、中米の国では自国が敗退した後は
同じ地区に存在するのチームを応援するらしいと耳にしたことがある
それは、アフリカ全体対他の地区の戦い、中米対ヨーロッパの戦いと
解釈をし直すからだと言われる
世界戦でアジアの一員である日本が負けたら、同じアジアの韓国とか中国を
日本人は応援するだろうか
それはどうもそうではなさそう、、と想像できてしまう
韓国や中国が活躍しても同じアジアの一員として頑張れと応援する気になれるかは
感情的に無理なような気がする
仮に応援できる人がいるとすればそれは韓国・中国に知人のいる人
あるいは韓国・中国のチームと戦ったことのある人ではないだろうか
戦ったことのある人は同じ競技者としてのリスペクトができるので
彼らを応援するのはごく自然にできる
ところが、少なくとも隣の国には負けたくない、、と思う大半の人は
範囲を広げてアジアの一員として頑張れ!という気にはなれないのではないか
自分たちが負けて隣の国が勝ち残ると、そこに生まれるのは嫉妬心だ
もしかしたらアフリカでも南米でも、やはり隣の国の活躍は素直に喜べないのも現実化もしれない
(アルゼンチンがブラジルの活躍を素直に喜べない気持ちは想像できる)
これはみっともない、、というよりは、こころの行う仕方ない傾向のような気がする
本来ならば、応援すべき、、と理念上思われても、感情が受け付けずそれができない、、
というのはありうることだ
人はそんなに簡単にすべきこと、行動をできるわけではない
その矛盾した存在自体が人というものだが、今大会の開会式では(見なかったが)
ジョン・レノンの「イマジン」が使われたらしい
イマジンの歌詞には「国境なんてないと想像してごらん」との一説がある
地球人としてグローバルな視点をもった人になろうと歌っているのだが
皮肉なのはオリンピックはむしるナショナリズムを意識させる場であることだ
メダルの数や色を競うのは、個人だけの問題に収まらず国対国の問題となっている
そして現実に、昨日今日の報道でも「日本のメダルは、、、」と興奮気味に伝える
最近の日本のメダルが増える傾向にあるのは「強化費」の増大のおかげという人がいる
確かに経済的に豊かな国は、そうでない国よりはメダルも取れているし
ワールドカップでもいい成績を収めている
とすれば、スポーツの戦いでありながら少しは経済の戦いでもあるような気さえする
話が例のごとくあっちこっちしてしまったが、他国を応援するというのは難しいということ
人はジャイアント・キリング(下剋上)のような番狂わせを望む一方
スーパースターのいるチームの権威がそのまま保たれるのを望んでいるのはないか
特に日本人は権威付けされたものに対して、それが守られる方を望んでしまいそうなはないか
馴染みであるスーパースターのいるチーム(あるいは権威)への共感は、
政治の面では、毎日のようにテレビにでてくる政権与党への信頼に結びついているのではないか
とういうより、露出によってメディアはそうした傾向を加速する力をもつということで
人は馴染みであるということそれだけで信頼してはいけないのだが
現実は、それに気づいて、意識的に行動するのは、、、難しそうだ
常識的に考えると、これだけの失態を重ねる現政権は次の選挙で十分すぎるほどの
お灸を据えられて当然と思うのだが、結果はやってみないとわからない
もしかして、権威に弱い姿(変化を好まない姿)を露呈して
地盤の力(あるいは露出量の差)でねじ伏せられてしまうのだろうか
最近のパンとサーカスで狂喜しているような姿を見ると、少し心配