パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

分断化を生んだオリンピック

2021年07月18日 10時01分27秒 | あれこれ考えること

結果として、スポーツを通しての一体感とか絆よりも
分断を生んでしまったかもような今回のオリンピック

アンケートを取れば今でも中止とか再延期が半数以上を占めている
ところがメディアは時間が経つにつれオリンピックの感動物語を流し
分断された意見の数字(割合)を反映する報道はなされていない
(バッハさんと泊まるホテルの前での反対運動のニュースは流されない)
メディアは公平中立というものの民間の一企業であるという限界が見えてくる

先日何かでフト耳にした話にメディアの中立公平があって、ドイツの考え方が紹介されていた
ドイツではきっぱりと報道に中立公平などということは現実的にありえないと考えている
あのヒトラーを生んだ過去の経緯、メディアの果たした役割を考えた上での実践的な結論のようで
それでもやはり必要な中立公平を確保するのは、対立する意見を戦わせる場を持つこととしているようだ
新聞・テレビはお互いの主義主張を訴える(これはアメリカのCNNとFOXみたいなものかもしれない)
ところが日本のメディアは独自の意見・主張を持ち、それを表に出すことは公平中立ではないとされる
その結果、中途半端な両論併記のような形になって問題の争点が不明になる
日本人の穏やかな気性(?)が言論の上であっても、争いに至るのは好ましくないと志向するのだろうか

そこで思うのは、人がたくさんいればいろんな考え方が出てくるのは当たり前のことなので
それを当たり前とする文化とか共通認識ができているのだろうか、、という点だ
自分の意見をもったとする、、その人は自分の考えが回りの人と同じか気になる
それは周りと同じのほうが得するといったケインズの美人投票ではなくて
単に自分の考えに自信とか覚悟を持てないからのように思えてしまう
(若者が保守的になっているのは人生経験のない自分らが自分で考えるより
 多くの人が支持する方を選んだ方が無難だと考えているかららしい)
みんなと同じ、、、この安心感は、一歩間違うと少数派の意見を嫌う専制主義的な
あるいは全体主義的な社会に至るのではないかと思えてしまう

結局のところ、議論して何らかの結論に至り、意見を異にする人へのリスペクトを
覚えると言ったという個人の成功体験がないのではないかと思えてならない
これは教育とか慣れが必要なことではないか、、と思われる
議論の戦いは争点が明らかになるので、自分たちの考えだけでなく
相手方のそういう考え方なり解釈があるのか、、と気づくきっかけになる
そして同時に意見が違うとしても、真面目に取り組む人へのリスペクトにつながる

この訓練が現在小市民の1人である自分の現在の関心事
それは広くシティズンシップという言葉で表されるものなのかもしれない

だがここで出てくるより難しい問題は、一般人の「当事者意識」という点で
自分のことは自己責任とされる世の中でありながら
少し想像すれば自らに関わってくると想像される事柄も
安易に他人に任せっきりだったり、無関心だったり見て見ぬ振りをして
自らの問題としては考えないことだ(自分に被害があるときだけは当事者意識を持てる)

この壁は想像以上に大きい
それがために人は代替え手段として間接民主主義のような、特定の人に
判断を任せる方法を作り出したのかもしれない
(そういうことは専門の人に考えてもらおうとする)
だが、その誰か他の人に全面的に任せて方針を決めていくという方法は
結局のところ、一般人の意見の反映にはならないような気さえしてきた

とここまでで、最初に書き始めたときと道筋がだいぶズレてしまったが(毎度のことで仕方ない)
何れにせよ今回の分断のその後はどうなるのだろう

オリンピック終了後の一般人の意識が果たしてどちらに振れるのだろう
暴走した進め方に金輪際信用できないとするか
それとも易易と「パンとサーカス」の戦術に乗ってしまうか、、

これは新しい日本人論が生まれるきっかけになるのかもしれない
だがそれは日本からではなく、外から生まれそう、、、

コメント
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