国立競技場前でオリンピックの雰囲気を味わいたい人たちが集合した
その同じ場所にオリンピック反対を訴えるデモ参加者もいた
「うるさい!」
始まってしまったからには、みんなで楽しんで応援しようと
考える人にとっては、確かにこういう声が出るのはわかる
だが、自分もそうだが、なし崩し的にある一部の人たちの都合で開かれてしまった
この大会はどうしても、今でも、反対の気持ちを捨てることはできない
ドイツにいる人が、ドイツ国内のオリンピックに関するニュースをyoutubeで紹介していたが
当初はオリンピック開催は無理だろうとの雰囲気があり、途中からは賛成反対の分断化が起きて
政府が無理やり推し進めたというトーンの報道がなされていたとしている
始まったら、どうすべきか、、は昨日、おせっかいにも心配したメディアが
その不安を一気に加速させる
テレビ番組はどの局もオリンピックばかりだ
あえて見ないようにしていても、時々のニュースにオリンピクが挟まれる
それにしても、こんなに高揚感のないお祭りは初めてだ
それは単に分断化されたからだけではなくて、今回のいろんな経過で
日本という国が、すごく劣化していると感じざるを得なかったことが大きい
いきなり話は飛ぶが、人と話していて、その人の総量を感じることがある
会話をしていて、その人の会話以外の知識の量とか感情の深さとか
つまりは全体として感じる人間性を、なんとなく感じる
一般的には雄弁であれば人としての総量は多いとされるかもしれないが
雄弁はその分野の(他人が知らない)知識、あるいは経験を話すことによって
信用できるものとされる
しかし、よく知ってるな、、と感心しても、
全人格的ではないな、、と、その人の総量に不満を覚えることは時々ある
極論的に言えば、言語化されない概念は役に立たなかったり、
精緻な考察はできないかもしれないが、言葉として発露する限界があるのも事実だ
言葉を(あるいは考えを)出すことすら無意味と思われるとき(新たな議論を生んで)
沈黙は言葉以上の意味を持ちうる
カラマーゾフの兄弟では、イワンのあの大審問官のエピソードの中で雄弁な大審問官に向かって
キリストの生まれ変わりとされる人物は無言で、ただ大審問官に口づけだけをする
このように言葉には言葉ではなくて、無言で相手に対応し、言葉以上の効果をあげる例は
このやたらと密度の濃い小説の中で、あと2回ほどあったような記憶がある
言葉は発しなくても相手の受け取るイメージなり印象は、全体としてその人を捉える
話は戻って、日本の劣化という言葉を使ってしまったが、この劣化を感じるのは
日本の表に出ていること(例えば開会式の演出)に背景としての深さがないように思えてならないからだ
議論は条件反射のような瞬発力とか自説の強引な押し付け
そしてその数が多ければそれが当然受け入れるべきものとされるような風潮
エンタメは今面白いか、、(背景知識を必要としないで)トレンディか、みんなと同じか
そんな価値基準が幅を効かせすぎているような気がしてならない
年取ると今の若いもんは、、と説教したくなるが、説教とまではいかないが
人としての総量のなさを感じざるを得ない人物の多いことに不安を感じる
これを一言で言ってしまえば、リベラルアーツが身についていない人が多すぎる
ということになるかもしれない
だが、ここでややこしくなるのは、リベラルアーツを身につけて諭す人に対して
ある種の人びとはエリート意識が高い、、と批判の声を挙げそうなことだ
(それを反知性主義というらしいが)
だが「大衆の反逆」の著者オルテガによれば、エリートは必ずしも知識人の層に
いる人だけでなく、日々の仕事に常に問題意識をもって取り組む職人さんの
考え方もエリートそのものだとしている
つまりは自分の内部に生まれる声に向かっている人がエリートで、
それが十分になされている人が人としての総量が多い、、と自分は思えてならない
ということで、まとまらない抽象的な話
ところでワクチンの影響は、今のところ摂取箇所が少し重い感じで
それ以外は何もなし、、、このままで行くと良いのだが