昨日の続きっぽい話
ビートルズを聴いて音楽は作曲家と演奏家のどちらが重要視されるか?
と思いついたのだが、リアルタイムで彼らの演奏を聴けない今は
結果的に楽曲の良し悪しが基準になりそうだ
(少なくとも自分はビートルズの評価は、グループとしての演奏も捨てがたいが
楽曲の良さが圧倒的に優先する)
演奏家も表現者のひとりで、ものを作り出すのと同じくらいの
才能と努力を要するし、再現芸術としての音楽を生で聴けば
どちらが重要視されるかなどの問は意味ないものとも思われるかもしれない
でも演奏家としての表現者は、作曲家に嫉妬とか羨望の念を覚えるかもしれない
カラヤンの前のベルリン・フィルの常任指揮者だったフルトヴェングラーは
指揮者であるよりは作曲家でありたいと思っていたこともあったようだ
(バーンスタインも作曲家としての一面があった)
俳優さんも似たようなもので、役になりきる才能を発揮したとしても
その物語がない限り俳優はその力を発揮できない
だから、俳優さんは作家さんに憧れとか羨望の念を覚えるかもしれない
(余計なお世話?)
何かに名を残したいと思うことは自己承認欲求の現れだが
その形としては、録音(録画)されたもので評価されるより
多様な解釈を可能とする原曲(劇では原作)のほうが
時代を超えて評価されそうだ
パガニーニもリストも驚異的な演奏家だったとされているが
今、残っているのは作曲したものだけだ
演奏家というのは時代を超えて生き延びるのは難しいのだろうか?
ビートルズの楽曲は多くの人にカバーされている
それだけで彼らの曲の優秀さがわかる
最近のお気に入りはジャズピアニストのブラッド・メルドーが
ビートルズの楽曲を演奏したものがとても心地良い
例えばビートルズ曲だと言わないと親しみやすい曲だな!くらいしか
思われない Your Mother Should Know
(青盤のLPには収録されていない)
Your Mother Should Know
それにしても赤盤をを聴いて再認識したのは、彼らの曲は短いということ
それはタイパを求める最近の傾向に合いそうな気がする