復興予算がその本来の目的とは異なったものに使われ
肝心な被災地には充分使われていないとの最近の報道
何故、直感的に復興とはかけ離れたところに
予算が使われてしまうのか、と言う問題は
恐ろしいまでの(官僚の)「こじつけ」の作文による
以前、補助金申請の仕事に少しだけ関わったことがあったが
そこで必要な能力は「こじつけ」のもっともらしい作文
まわり回ってようやく趣旨に結びつくような内容でも
それらしい文章、もっともらしいことが書いてあればいいようだ
そして、それを受け取る側も「こじつけ」を承知している
いや、仕方ないものとして認めている
(指導したりしている)
これからの世代の若者に必要な物はプレゼン能力と言われるが
こんなものは本当のプレゼン能力ではないだろうに
それを、しっかりと指摘したり、批判的に眺め
尚且つ本質を把握し、ダメなものはダメと言い切ってしまう人物が
現れない限りこの状況は変わらないかな
というか、何時の時代も悪知恵の働く生命力の強い人物に
善良なおとなしい普通の人は押し切られてしまう
世の中は正しい結果に徐々に移行していく
というのは、今は少しロマンティックな考えのようにさえ思えてしまう
話は変わって、最近この地区の市役所に行き
市長室なるものに訪れた
人口数万の小さなこの町にも市長室には
助役(?)と秘書が二人
助役さんは椅子もチョットよさそうな品質?
市長は多忙で、仕事が多岐にわたり一人では
仕事を遂行できないので手助けとしての人が必要なことは
理解できる
そして、責任が重く、事があれば責めをになう大変な職であるから
その報酬もそれなりというのも分からないではない
しかし、市長室があって、おかかえが数人いて
しかも、自分を持ち上げてくれるとしたら
普通の人は「自分が偉い人物」と勘違いしてしまうのではないか?
市長は単なる職種の一つで
ちょっと専門的であったり、度胸が必要とされたり、
難しい判断を下さなければならないとしても
それで人間が上だったり下だったりすることはないだろう
こんな風に自分は考えてしまうわけだけれど
これはベートーヴェンとゲーテが一緒にいた時に(?)
誰か世間一般に偉いとされる人が通過する際
ゲーテはその人を敬う態度を示し、ベートーヴェンは
そうしなかったと言うエピソードを思い出す
ベートーヴェンにしてみれば
何も、人間的に偉大な人物かどうかわからない人物に
何故へりくだらなければならないか?
と考えた結果の行動
しかし、残念ながら世の中は本人も周りも
「勘違い」の世界で生きている方が多い
つまり、職種としての市長を偉い人物と思い込んでしまう
(勿論、人間的に素晴らしい人もいる)
自分は最近、何の見返りも持たずに
コツコツとみんなの為に行動している人々を
見かけることが多いので
この人達こそ偉い人物と思うのだが、、、
ところで先程のゲーテとベートーヴェンのエピソード
そこにモーツァルトがいたらどうしたか?
如才なくゲーテ風に行動したか?
それともタメ口っぽく接近して馴れ馴れしくしたか?
いずれにせよベートーヴェン風ではなかったろう
と想像したりするが、、
ま、どうでもいいことかな