パンセ(みたいなものを目指して)

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フルトヴェングラー指揮の「運命」を聴いた

2024年04月28日 09時42分19秒 | 音楽

連休中だが、自分はいつも連休中
生来横着者だから暇は苦痛ではない
だが世間が休みだと少し気分が違うのは事実だ
どこかいつもよりのんびりする
そこでいつもは聴くことの少なくなったレコードを聴いた

中古レコード店で安く購入したフルトヴェングラーの遺産(LP13枚セット)

この中からド定番のベートーヴェンの5番の交響曲

僕らの世代のクラシック音楽の入門は「運命」だった
出版社がカラヤンの指揮したレコードと解説をセットにしたものを売り出して
初回は廉価だったので購入したのだった
冒頭は誰でも知っている、だが最後まで知っているのはかっこいいぞ!
そんな気持ちで聴いたのだったが、聴き終わった時は「使用前使用後」のように
全く違う自分になっていた気がした
それは音楽体験というだけに収まらない、何かとて大きな経験をした
そんな気持ちになったのだった

運命はそのオシの強さゆえに何度も聴く気になれない
というものの聴き始めてしまえば、そんなことは気にならなくなるのだが
とにかく久しぶりに聴いた

「すごいな!」
聴き終わった時出たのはこの言葉だった
同じくフルトヴェングラーの指揮した7番の交響曲を聴いた時に出てくる言葉が
またしても自然に出てしまった
「すごいな!」の意味は、聴き終わった時に感じた巨大さと
オーケストラの奏者の熱気、熱中度が尋常ではない雰囲気に感じられたこと
とにかくその言葉以外の言葉が見つからない
本当にすごい

有名な冒頭は全く今風ではない
思い切り大見得を切るように始まる
すごく重い音色で大げさすぎると思えないこともない
ところが始めってしまうとその大げさ感はなくなる
むしろ音楽自体がそれを求めているかのように
徹底的に使用される動機が耳に入る
一楽章を聴いてしまえば次の楽章から最後まで聴くのは必然だ

フルトヴェングラーを聴く人の感想は似通っている
巨大な体験、こうした言葉がニュアンスは少し違っても出てくる
とにかく大きいのだ(何が大きとか、どうして大きく感じるのかはわからないが)

この巨大な体験故にこの指揮者の虜になって、ついには彼のお墓参りまですることなった
しかも2回も(1976年と2013年)

写真は2013年に訪れたハイデルベルクにあるフルトヴェングラーのお墓

音楽は今はサブスクで聴き放題が流行っているようだが
自分は音楽を集中して聴かないのはもったいないと思えて
車に乗る時以外は聞き流すことはしない

集中しないと感じられない何かがある
集中して何かを感じられる典型がフルトヴェングラーの指揮した音楽だ

だが、今の時代とか若い人たちはこのような音楽は
重いと感じてしまうのだろうか
(知らないのはもったいないと思えてならないが)

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