パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

書き残しておいた文章とか考え方

2024年12月17日 09時36分00秒 | あれこれ考えること

大河ドラマ「光る君へ」が終わった
多分、女性の捉え方とは違うと思うが楽しめた一年だった
女性は恋愛モノとして、自分はフィクションの見事さとして

ところで、これがきっかけではないが枕草子を現代文で読んだ時
(書き)残しておいたものがあった

枕草子  25  にくらしいもの

途中から

なんでもかでも人のことをうらやみ、自分のことについては泣き言を言い
人の噂話ばかりし、ほかのちょっとしたつまらぬことでも根掘り葉掘り知りたがって
しつこく話をせがみ、話してやらないと、うらんだり悪口を言ったりし
またほんの聞きかじった程度の話を、自分がもともと知っていることのように
他の人にも得得として受け売りしたりする。このような人も実にいやだ。

すぐに想起したのは、立花孝志氏がSNSで一方的に流した情報に
安易にのって拡散してしまった人たちのこと

その他に書き残しているものを見ていたら、こんなのが見つかった

自発的隷従論から(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ)

少数者の支配

圧制者をその地位にとどめているのは、つねに4人か5人の者である。
彼のために国全体を隷従の状態に留め置いているのは、ほんの4人か5人の仕業であるということだ。

ことは次の様に進展してきた。まず、5.6人の物が圧制者の信頼を得る。次に自ら彼に近づくか、彼に誘われて、共謀して残虐な行いにふけり、逸楽の場に同伴し、淫行のお膳立てをする。また略奪したお宝のおこぼれにあずかる。この6人は、主君をうまくもり立てて、一味全体のために、主君がいっそう悪者になるようにしむける。その際彼は、自らの悪行のみならず、手下どもの悪行によって悪者となるのだ。この6人は、みずからのもとで甘い汁をすう600人を従え、そしてこの600人は6000人を登用し、所領の統治や租税の管理に当たらせる。こうしてこの6000人を欲深く残虐なままに任せ、必要とあらばそのような資質を発揮させ、更なる悪事を行わせるのだ。もっともこの6000人は、その悪行の際にも、上司の庇護のもとでしか生きながらえることができず、上司の命による以外は、法や罰を逃れることができないのだが。

現実論として圧制者が恐れるものは知恵ある庶民だが、それが育たないように彼らはこんな手をうつ

トルコの大王は、書物や学識というものが、ほかのいかなるものにもまして、人間に、自己を知り圧政を憎む能力と力を与えることを熟知している。だから彼は自分の領土に識者をほとんど置かず、そんな連中も求めたりもしないのだ。

なんかどこかの国もそうしているみたい
もう一つ同じ本からの引用を

自発的隷従論(エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ)から

農民や職人は、隷従はしても、言いつけられたことをすればそれで済む。だが、圧制者の周りにいるのは、こびへつらい、気を引こうとする連中である。この者たちは、圧制者の言いつけを守るだけでなく、彼の望む通りのものを考えなければならないし、さらには、彼を満足させるために、その意向をあらかじめ汲み取らなければならない。連中は、圧制者に服従するだけでは充分ではなく、彼に気に入られなければならない。彼の命に従って働くためには、自分の意志を捨て、自分をいじめ、自分を殺さねばならない。彼の快楽を自分の快楽とし、彼の好みのために自分の好みを犠牲にし、自分の性質をむりやり変え、自分の本性を捨て去らなければならない。彼のことば、声、合図、視線に絶えず注意をはらい、望みを忖度し、考えを知るために、自分の目、足、手をいつでも動かせるように整えておかねばならない。

 はたしてこれが、幸せに生きることだろうか。これを生きていると言えるだろうか。この世に、これ以上に耐え難いことがあるだろうか。私は勇壮な人に語っているのでも、高貴な生まれの人に語っているのでもない。普通の常識ある人、さもなくばただ人間の顔をもつ人に対して語っているのだ。こんなふうに生きるよりも悲惨な状態があるだろうか。自分ではなにももたず、自分の幸福も自由も、からだも命も他人に委ねるとは。

想起するのはいつぞやの官僚さんたちのこと
そのように思う人は少なくないと思う

ところで「国家はなぜ衰退するのか」と言う本では結論として「少数者の収奪」
がある時は国家は衰退するとしている
確かにシリアとか、かつてのユーゴスラビア、マルコス時代のフィリピンなどに
その傾向は見られる
(果たして日本にはそれはないと言い切れるか?)

民意と言う言葉でまるで意思を持っているかのようでも
どこに向かうか心配が尽きない大衆とか庶民については
こんな指摘がある

群集心理から(第4章群衆のあらゆる確信がおびる宗教的形式)

群衆は、推理せず、思想を大雑把に受け入れるか斥けるかして、論議も反駁も許さず、しかも群衆に作用する暗示は、その悟性の領域を完全におかして、ただちに行為に変わる傾向を有することを説いた。また過度の暗示を受けた群衆は、彼らに暗示された理想のためには、進んで一身を犠牲にすることを述べ、最後に、群衆は、強烈で極端な感情のみを知ることを説いた。群衆にあっては、同感はただちに崇拝となり、反感が生まれるやいなや憎悪に変わる。これら概括的な説明によって、すでに群衆の抱く確信の性質をうかがうことができる。

これらを読むと、冷静に世の中を眺めた過去の人も、現在自分たちが感じているものと
同じ思いをしていることがわかる
つまりは、過去の出来事はとても参考になるということだ

ただ問題は、こうした過去のことを知っている人と、知っていない人では
その先の考え方とか行動に違いが起きてしまう
いくら考え方には多様性があるとしても、教養としての、あるいは背景知識として
こうしたことを知っていることは、特にそれなりの立場の人には必要と思われる


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