じわじわと湧いてくる怒りが、悲しみを忘れさせようとしている
この怒りは自分を守るための生理的な作用なのだろうか
2月1日、例の養鶏場裁判についての判決がでた
この日判決される案件は3つあり、この案件は二番目だった
一番目は「棄却、朗読なし、裁判費用は原告持ち」
と一分もかからずに終わった
そして二番目は、、、
一番目と全く同じだった
朗読なしとは、判決文は事務局にあるのでコピーを貰ってください
という意味合い
棄却にしても、納得できることが書かれているか?と
判決文を貰いに行った
それなりに長い?コピーで、すぐに読んで理解できるものではなかった
後日、PDF化されたものをプリントして読むと
それは怒りを覚えるものだった
反面、このような結果になるなら、その判断基準はそのように考えたからと思っていた
つまり、不動産鑑定の依頼の仕方を始めとする例外の多い作業に疑義を感じているのだが
行政が不動産鑑定業者に、先方の買い取り希望価格を伝えているとしても
そうして出された数字は問題ないとしていた
「新城市は、〇〇不動産に対し△△養鶏場の売却希望価格を伝えているが、
不動産鑑定士は、不動産鑑定評価等を業とする専門家として公認された資格者であり
良心に従い誠実に不動産鑑定業務等を行うとともに
不動産鑑定士の信用を傷つけるような行為をしてはならないとされているから
売却希望価格が本件鑑定に影響を与えたことはない」
見方によっては入札価格を伝えているように思えるようなことでも
有資格者だから正当にやってる、、と判断しているわけだ
この鑑定業務には例外が多かった
それは不動産鑑定士の責任ではなく、行政の依頼に問題があったかもしれない
不動産鑑定の速報値を出すように依頼したのは行政の方
何故、そんな依頼をしたのだろう、、
こんな抽象的な信じる根拠で判断されたら
裁判は永久に行政に勝つことができないと思う
仮にそれが現実であったとしても
それで諦めたり追認するだけで良いのか?は別問題
今回は社会の構造(権力構造)の一端を覗いた気分
少なくとも、人は知らないところで何かされている、、
との知恵を持つべきだと思う
以上は、こちらサイドの視点からなので異論もあるだろう
だが、久しぶりに怒りで眠れなかったのは事実
PS この話を一般の何も知らない方に話をすると
大半の人が「出来レース」と判断をする
それが裁判ではこのような一般の感じ方は無視されてしまう現実
今回は裁判自体ではなく、何か他の力学が働いているような気もした
(考え過ぎ?)
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