今の気分に従って、以前読んだつもりの本を引っ張り出した
それはハンナ・アーレント「全体主義の起源」2 帝国主義
今の気分に従ったというのは、確か「モッブ」について書かれたものがあったぞ!
と思い出したからで、この本の目次の中の「資本とモッブの同盟」の章があった
「モッブ」は前に目を通した時は心のとどまることはなく素通りしていった
しかし、最近の日本国内の出来事を見たり
直近に読んだ「ナチズム前夜」を思うと
どこか本質とは関係ないようないい加減な存在とか集団(モッブ)が
結果的には大きな役割を果たしてしまったのではないかと思うようになった
「全体主義の起源」3では、全体主義に陥った理由の一つに
社会の中の無関心層の存在があるとされた
これは、そうだろうな、、とその時もすんなりわかった気になれた
しかし度々現れる「モッブ」という言葉のリアリティは
記憶に残ることはなかった
どうも世の中は理屈通りに動くということはなく
むしろ不確定要素に振り回されることが多いような気がする(というのが今の気分)
日本国内で検討される税制の問題やら社会保障の問題は
本質的な解決よりは、その場を借りた権力闘争のような気がしている
例えば兵庫県の百条委員会は提示された審議項目を客観的に審査するというより
政党間の意地を通す場のような雰囲気が感じられる(維新の県議の意向は)
この本の再読は、以前は感じなかった人間の理不尽な行いのリアリティに驚く
それを自分の力量では上手く表現できないので、最近の利器(CHATGPT)を使ってみると
問 ハンナ・アーレントが全体主義の起源で扱うモッブというのはどの様な存在ですか
答 ハンナ・アーレントが『全体主義の起源』で論じる「モッブ(rabble)」は、社会の中で周縁化された人々の集団を指します。これは単なる貧困層や労働者階級とは異なり、伝統的な社会秩序や政治構造から切り離され、自らの利益のために既存の制度を破壊することも厭わない人々です。
アーレントによれば、19世紀の帝国主義や大衆社会の形成の中で、モッブはブルジョワジーの「くず」として現れました。彼らは既存の社会秩序に対する憎悪を抱きながらも、一貫したイデオロギーを持たず、単に体制を破壊しようとする傾向がありました。このようなモッブの存在が、後の全体主義運動において重要な役割を果たすことになります。
特に、モッブはカリスマ的な指導者や扇動者に操られやすく、彼らの不満を利用したナチズムやスターリニズムのような全体主義体制の支持基盤となりました。アーレントは、こうしたモッブが大衆運動と結びつくことで、全体主義が台頭する土壌が作られたと論じています。
少しばかり違うなと思うところがないではないが、概ねそんな印象は持っている
つまりは、世の中はまともな人々が進むべき方向を決めるのではなく
時として後から思えば、なんでこんな人達の言い分を聞いてしまったのか?
と思えるような人に振り回される事があるということだ
最近の例では立花孝志氏とか、逆張りで世間の注目を集めたいとする人々の
発言に世の中がある程度染まってしまうことがあげられる
ずっと昔では、天皇機関説事件で大した力を持っていなかった右翼の連中が
いつの間にか主流の考え方になっていったことを連想させる
モッブが物理的な暴力装置を持ったり、心にダメージを与える武器を持つということ
そしてモッブが経済的に上の立場の人間に都合よく利用されるかもしれないという想像は
この手の本を読んだ人はそれなりに想像できる
しかし、馴染のない人にはこれらの危険性を伝えるのはとても難しい気がしてならない
若い人には例え消化不良になっても、こうした含蓄の多い本にトライして欲しいものだ