例えば右目をつぶって左目だけであるものを見る
次にその反対で行う
同じものを見ても色の違いが僅かに感じられる
左目を網膜剥離の手術を行ったかもしれないが、とにかく微妙に違う
日本人と外国人(例えば欧米人)とは目の色が違う
それ故に見えている色が違うらしい
同じものを見てもこのように感じ方が違うのだから
その捉え方をベースにした考え方が違ってくるのは当然のこと
言えるのは、同じものを見ているとう事実だけで
感じ方は人それぞれ違うということだ
人は気をつけて客観的な見方をしようとしても、生きてきた経験から離れて
物事を見ることはできないのではないと思われる
偏見の英語prejudiceは「pre」と「judice」を分けて考えるのが
受験用の英単語を覚えるコツで「前もって判断する」が偏見の意味とあったのを思い出す
こうしたことは視覚に限ったことではなくて、音楽や考え方も同じで
同じ音楽を聴いても人の感じ方は違う
またある講演を聞いたり本を読んでも感じ方は違う
捉え方はどうしても個人の生活体験から得たものからは離れることはできない
つまりは人はみんな違った感じ方とか考え方をするということだが
不思議なことに、それでも何故か同じような感じ方をするのも事実だ
言葉にすることが難しい音楽の印象についても
演奏会を聴き終えた人たちが興奮気味に同じ様なことを言ってる場合が多い
みんなが違っていて当たり前の部分と、みんなが同じように思っていることが
同時進行的に存在するのだが、みんなが同じように思うことは社会的な面では
「倫理とか常識」であり、違っていて当たり前とするのは、
左脳を使った物事の解釈の部分ではないだろうか(と勝手に思ったりする)
そして困ったことに左脳は自説を正当化するために無理筋の理屈すら探し出す
それは「違法ではないが正義ではない」という状態を作り出す
そして現代社会をややこしくしているのが、このなんとなくみんなが感じることが
あまり大切にされずに、直感的には無理筋と思われるものが
強引な理屈なり数の力によってまかり通っていることだ
安倍さんの桜を見る会の前夜祭の領収書(が無いとする)言い訳
あんなのは常識のフィルターを通せばウンもスンもなく違和感を感じるのが普通だが
それでも可能性としてありうるとして、ありもしなかったことを平気で口にした
(結局、ホテル側の明細や領収等は存在した)
最近は何かを決めるのは「数」になっているようで、数とは多数決のことで
数が多ければそれが正義なり正しいこと、、とされる
そうしたほうが良いと思われること(参考人招致)も、党の都合で、そして数の力で
実現はされない
最終的には民主的な決め方として多数数があるとしても
多数決が真っ当に機能するための条件を考えたりすると
人の世の中は随分危なっかしいところで成り立っているものだと実感する