8月30日のデモ参加者の数が、主催者発表12万人
警察発表が3万5千人と発表され
ずいぶん違っていることに前回文句を述べたが
それぞれが発表した数字には根拠があるだろうから
その計算方法を明確にして欲しいというのが正直なところ
警察はある単位面積に何人いるかを計算して
該当する面積まで拡大して求めるらしい
しかし、それはある時点での数で
少しだけ参加して帰った人たち等の延べ人数はわからないのかではないか
とも思う
一方主催者の発表する数字はどのように出しているかわからない
8月30日の東京に限れば、国会前だけでなく日比谷公園
(自分は東京の人間でないのでよくわからないが)
などを含めた延べ人数を、何らかの方法で出したのかもしれないが
デモ主催者もデモ反対派の人たちに突っ込まれるような
曖昧なやり方ではなく、根拠ある数字との証明をしたほうがよいとも思う
問題は、この問題をそれぞれが言いっ放しに終始していること
そしてマスコミも自らの調査を行わず、それぞれの数字を報道しているだけ
(先程、産経新聞社の記者が警察のやり方で自分で計算したら3万5千人ほどだった
との記事を見たが、デモ参加者の方の言い分は、他の地区の参加者をカウントしていない
の反論もあった)
結局、正確な数字は実際にはつかみにくいのが現実なのかもしれない
ただ自分がサッカー観戦で駅まで歩いて帰るときのことを考えると
あの時間の参加者は(延べではない)3万人台の方が納得できるかもしれない
それぞれはそれぞれの思惑があるから、
片方は多めに他方は少なめに 報道したがる
デモ参加者としてみれば仲間が多いに越したことはない
しかし、数字を水増ししてまでも(しているかいないかは分からないが)
多く見せることは必要ないと考える
デモ現場に行った人ならわかるが、その熱気とか真剣さの度合いは
間違いのないもので、初めてデモを経験した若者も同じ印象を持ったと
新聞記事に載っている
実はこちらのほうが大事で、時間がかかってまどろっこしいかも知れないが
真剣に取り組むメンバーを増やす算段を考え、ブームの様な参加者を増やすことは
それほど結果的にはプラスにならないのではとも考える
確かに現実はどんどん時間が過ぎていく
のんびりしていられない
なるべく多くの意見の集約の行動と示したい
だが、でも当日の11時半頃、自分は御茶ノ水駅に近くにいたが
そこはデモとはまるっきり関係のない普通の世界があった
自分の好きなモノを求める人、友達と仲間と談笑する人、急いで駅に向かう人
その内の何人かはデモに参加したかもしれないが
印象としては全く別の世界の人達のように思えた
(それがいいとか悪いとか言うのではなく、それが現実ということ)
まだ残念ながら大きなうねりうとまではなっていないが
マグマの様に熱い地殻変動が起きている
これは実感できる
ところで、このデモに関する翌日の新聞報道を見比べると
興味深い
先ずは地元の中日新聞 1面と3面
次に毎日新聞の1面と3面
ついで朝日新聞の1面と3面
そして読売新聞の1面
デモの記事は見当たらず、3面にもなかった
普通の家庭は新聞を幾つも契約していることはない
大概が1紙だけ
そしてテレビに主役は奪われているとはいえ、その信頼性においては
まだテレビの上を行っている新聞の報道が、公正・公平と言っている中でも
この様に違っていることは記憶にとどめて置かなければならない
無条件に公正・公平と信じきっている新聞も
実はきわどいところである方向性をもった報道をしている
報道をしているのではなく、報道しないことによって
ある種の雰囲気を作り出す
幸いある程度、新聞社の報道傾向は知られているので
この様な記事の扱いは想像できたが、それでも1紙しか
とっていない現実が多いことを思うと、その人たちが
長い時間をかけて慣らされた考え方が、どのようになるのかは
少し心配
(もっとも完全な客観などはあり得ないのかもしれない
人は直感的に自分はどの意見に共感できるかを瞬時に判断し
それを理論武装できる記事・情報を集めているに過ぎないのかもしれない)
自分たちは自分たちの判断を誤らないために
多くの情報を手にしなければならない
そしてその情報を元に全人格的な(総合的な判断力を駆使して)
判断しなければならない
最後の最後で判断を誤らないために、、、
それは案外理屈でなくて、その人に自然に湧き上がる感情なのかもしれない
と思ったりする(相変わらずの独断と偏見だが)