パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

カインド・オブ・ブルーのB面

2015年09月06日 07時21分38秒 | 音楽

あの時代の妙に熱っぽい雰囲気を追体験したくて
読み始めた桐野夏生の「抱く女」
この中にカインド・オブ・ブルーのA面をリクエストする人のことが
少しだけ書かれていた

カインド・オブ・ブルー ジャズの中の名盤中の名盤とされるアルバム
自分もそんな評判に誘われて随分昔購入した

まずはA面から聴き始める
しかし、その印象は全然良くない 
何か評判とは違ってつまらない 
それどころか、もうやめ!と途中で針を上げてしまうほど

それでも、あの時の自分の調子や感性が変だったのかもしれないと思い
その後数回にわたって聴こうとしたがやはり挫折
この有名なアルバムはしばらくひっそりとレコード棚に収納されたまま

ところがある時不意に思い立ってB面も聞かないともったいない 
と引っ張りだして聴いてみた
聴いたといっても期待していなかったので何かしながらのながら族だったが
これが意外や意外、何かしているにもかかわらず耳は音楽の方に
ついつい惹き込まれていく
それはライブ会場で感じられる張り詰めた緊張感のある
それでいてお酒によったような雰囲気が感じられた

これは!
それでながら族はやめて真面目に聴いてみると
いいじゃやん!

その後、自分にとってのカインド・オブ・ブルーはB面の音楽
依然としてA面は聴かない
なんでかな、などと考えることもしない
とにかく自分はB面のほうが好きだし心地よいということ
(個人がどう思おうと、どうでもいいことだけど) 

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音量と迫力

2015年09月06日 06時20分41秒 | 音楽

音楽を楽しむのは家でのオーディオを前にして
すぐ近くに家が接していないとはいえ
大きなボリュームで聴くことははばかられる
特に夏は窓をあけっぱなしにするので音が漏れやすい

そこで、どうしても音量は絞り勝ちになる
ところが一昨年、ポール・マッカートニーの東京ドーム公演を
見に(聞きに)行った時は自分が滅多に聴くことのない音量だった
3塁側内野の中段であの音量だったから前の人はもっと鼓膜に大変だったと思う
ただ、それがやかましかったかと言えばそうではなくて
迫力があった印象に落ち着く

ポール・マッカートニーは軽いポップスソングの音楽家と言われることがあるが
あの時、エネルギーに満ちたロック音楽というのはこういうものなのか
感じたりした
そしてポール・マッカートニーが「ロックは最高!」的な発言をするときは
あの音量を前提とした音楽のことなのだと思ったりする

あの時、感じたことは今でも覚えているが
音量は当たり前だが迫力に大きな影響を与える
大きければ迫力があるとばかりは言えないが、充実した音楽は
特にこの手の音楽はそれなりの音量は必要だなということ

それともう一つ、体格のよい欧米人の年齢の重ね方は
日本的な「枯れる」といったものではなく
相変わらずエネルギッシュなままをよしとするのではないか

ラ・フォル・ジュルネでベートーヴェンのミサ・ソレムニスを聴いた時も
ベートーヴェンは年令を重ねても全然枯れていない
晩年に作曲されたあの音楽は相変わらずエネルギーに満ちて
まるでルーベンスの筋骨隆々の男性像を思わせるようなグラマラスな印象だった
日本人の好きな(?)「枯れた」と言う思い込みで後期のピアノソナタを聴いたりすると
少し間違った解釈・感想を持ってしまうかもしれない
もっとも、どう感じようが本人の好き好きだが

ということで、家で音楽を聴くときはそれなりの音量は必要
ということなのだが、部屋に防音機能がついているわけでもなし
やっぱり常識的な音量にしなければならない

イヤホンを使えば迫力もニュアンスも格段と良いものを
得ることができるが、どうも自分は空気を震わせて
多少の距離を伝わってくる過程がないとどこか邪道のような気がして
気が進まない
(ま、どうでもいいことだけれど) 


 

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プロ市民?

2015年09月05日 08時26分04秒 | あれこれ考えること

先日自分のブログのコメントに「プロ市民」の言葉があった
初めて目にした言葉だし、その人の造語かと思い
わからないままにしておいたが、ネットで調べると
既に「プロ市民」と言う言葉は世に存在していた

ウィキペディアによると

  1. 「自覚・責任感を持つ市民」(=プロ意識を持つ市民)を意味する造語。
  2. 一般市民を装い市民活動と称しているが、実質的には営利目的または別の目的を持つ政治活動家を指し、その行為を批判する際に用いられる2ちゃんねる用語
とある(もっと詳しい解説はあるが)
 
1は好意的な捉え方、2は反対にそうでない方の捉え方
 
世の中にはいろんな言葉や概念が存在するものだ
と改めて再確認
 
新城市では人任せ民主主義からの脱皮して、市民が参加する(監視する)
運営をしたほうがより良い地方自治が可能なのではないか
との考えが、市庁舎建設の見直し、産廃業者進出阻止の活動を行ううちに
自然発生的に起き上がってきた
 
 
確かに、実感としてそのような活動となったほうが好ましい
これは直感的にそう思う
 
しかし、「衆愚政治」とか「大衆の反逆」とか「ポピュリズム」に代表されるように
(これらの言葉の使い方があっているかどうか心もとないが)
素人の政治(行政)参加は多少の危険性があるのも分からないではない
 
大衆が常に正しい選択をするかどうか
ドイツの憲法改正の際に、国民の総意としての
意見を取り入れないのは、「集団のなす非合理性」を深く認識しているため
とあったが、これは勢いとか雰囲気で判断されがちな危険性を考慮したものと
考えられる
 
ところで、話を一般論から一地方都市に戻していくと
この今行われつつある市民活動が悪い意味での「プロ市民」の活動か
と考えると、そうではないのではないか

特に解説の2にあるような、一般市民を装い市民活動と称しているが
実質的には営利目的または別の目的を持つ政治活動家
というのには、新城市の市民活動をしている仲間には当たらない
 
自然発生的に増えていった仲間、
一人ひとりの顔は時間が経過するうちに見知っていっても
その人の仕事がなんであって、どんな立場の人かも知らないで
それもそんなことに対して気にしないで活動している
しかも、自らのお金をカンパとして提出し、時間も費やして
そして自分自身への充実感をもって

それは単純に善意の市民活動の団体であると評価したほうが
正しいのではないか
住民投票の選択肢2を選んでもらう活動をした時も
説明会へは選択肢1を推す方の来場を拒否はしなかったし
そうした方への説明も丁寧に行い、無理やり自分たちだけが
正しいとの説明はしなかった
(一方、違う活動をされた方々は、、、)
 
物事はあるきっかけで何かに興味を持つと
もっと深く知りたくなっていく
知っていくと更に更にと興味が湧いてくる
そしてあるところに達すると自分のなかにある種の結論が生まれる
その結論は誘導されたものもあるかもしれないが
年齢を重ねた人は自分の人生の価値観を持って判断する

こうした一連のことが新城市の住民投票がらみ、産廃がらみで起きている
それは「プロ市民」と悪意で片付けられるような活動ではなくなっている

しかし、もっと大きな障害とか現実は
多くの人はやはり市の政治、行政に無関心であるということ
実生活に具体的に影響しない人たちは関心がない
(それはある面、今のところ平和で過ごせているということかもしれないが)
この人達に将来への具体的な不安に気づいてもらうことの難しさ
これはとてつもなく難しい
 
これは市のことだけでなく、この国のことについても同じかもしれい
どうしたら、多くの人に関心をもってもらえるか
全員は不可能としてもある閾値は越えたいものだ
 
 


 

 

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シュートが相変わらず、、、(カンボジア戦)

2015年09月04日 05時52分52秒 | サッカー

サッカーは決められた時間内に相手より多く得点をしたほうが勝ち
と考えるか
相手よりも失点を少なくしたほうが勝ち
と考えるか、人、国民性によってそれぞれ

ただ得点が入るほうが面白いし、見せる競技としての側面もあるので
得点を多くとったほうが良しとする様なルールになっている

さて昨日のワールドカップ アジア第2次予選 カンボジア戦
結果は3-0 
勝ち点3をとれたところは良いが相変わらずの決定力不足

確かに人数をかけて守りを固めていたが
つくづく日本人はシュートが下手だな!と失望
これはチームとしての練習時間が短く連携が上手くいっていない
と言った問題ではなく、単純にシュートの技術不足

昨日、山口のシュートを始めゴールの上を通過したものが
どれだけあったことか
その意味では吉田の抑えたシュートは見事だった
本当はあのシュートがいつもみんなから見られるといいのだが

しかし、なんでこんなにもシュート技術が上がらず
決定力不足が解消しないのかを考える必要があるのかもしれない
シュート技術が上がらないと必然的にゴールキーパーの技術も上がらない

ゴールシーンばかりを見るせいか、ドイツは日本に比べて異様に
シュートが上手い
一対一になった時は、ほとんど冷静に決める
しかし日本は頭を抱えたり悔しがっているシーンしか思い浮かばない

昨日はランキングが随分下なのでゲーム自体への興味はあまりなし
前目の選手の実力、能力を拝見といったところだったが
う~~~ん

シュート技術の向上
ふかさないシュートへの徹底
これは育成時代から徹底的にやらないとダメかも
シュート力は天性のもの、センスといって個人にお任せ
ではきっと底上げができない

それにしても、ほんと、枠に飛ばないな、シュート 

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外からの評価と中からの見方

2015年09月03日 20時01分13秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

新城市は外から見ると、ずいぶん地域自治が進んだ都市
と評価されているらしい

まず市街の誰からも驚きを持って語られるのが
住民投票を行ったという事実
市民側が市長・議員連合に勝利したということより
お金をかけてまでも住民投票を行ってしまう決断を
市民がしてしまったこと
これが、何事も波風立てずに済ませていきたい傾向のある
この地区には珍しく、果たして自分たちの町で
これができたかと考えると、素直に評価したいと思う人が多いようだ

この他に、対外的に評価されていることは

このリーフレットにも記述されているが、
常設型の住民投票条例案が存在することと
地域自治区制度が始まっている点

その他にも議会基本条例が制定されており
議会においては会派をなくして委員会で熟議を重ねることなっていること
これらが、時折新聞にも掲載されて、そのせいで進んだ都市
との評価ができたようだ

ところが、これらのことを市民はどのくらい理解しているか
また実際の運営の上で円滑に行われていると自覚しているか
これが残念ながらはなはだ怪しい

第一にルールブックにある常設型の住民投票条例にしても
住民投票を経験した新城市民は、どのような法律に則って
住民投票が行われたのか正確に理解している人は少ないのではないか

住民投票にしても、最初は常設型の住民投票条例により実施をしようとした
ところが、現実に行われたのは議会の議決による住民投票
この議決による住民投票の選択肢が余りにもわかりにくかったため
「住民投票を求める会」は地方自治法による直接請求の方法で行おうとした
これは議決が必要なため、議会で否決された

多分、こんな幾つもの方法が住民投票に関して試みられたことを
多くの市民は知らないのではないか
そこで、新城市が対外的に誇る(?)常設型の住民投票条例を
チェックしてみると、これが外に向かって自慢できる条例ではないことが
分かってくる
(実際にこの方法で住民投票を使用と試みただけに
  当事者は実感として感じる)

先ずは所定の書式によって住民投票をしたい旨を提出する
この住民投票を行うのが適切かどうかを市民自治会議にかける
その結果を市長・議会に報告する
署名活動を行う
3分の1以上の署名数を確認した時点で実施する

常設型の住民投票の方式は、案件ごとにいちいち手続きを踏まなくて
良いので応用が効くし議会の議決を必要としないので
使いやすいはず!なのだが、今回は 最初の市民自治会議に
時間がかかって、それでは庁舎の設計が進んでしまうからとの理由で
時間がかからない別の方法を選んだ

ここで、この常設型と言われる住民投票条例が、果たして本当に
他の地区に自慢できるほど使いやすいものかが疑問となった
もちろん使いやすいことが良し悪しの全てではないだろうが
それでも対外的には売りが使いやすいことになっている

次に地域自治区制度
地域のことは地域で
この制度の導入に関しては、たまたま自分が区の役員をする時機に
導入の説明等が公民館であった
しかし、正直なところ何がなんだかわからなかった
その年は地域自治区に支払われるお金のうちの
交付金の使い方、交付金申請に関する法律的な決めの討論が
それぞれの地区で多分区長さんを中心に行われた
(自分は区長ではなかったので正確には分からないが)
そして翌年からは粛々と実行されている
ところが、ここで問題は、この地域自治区を運営する
メンバーというのが、年で入れ替わってしまう区長さんが中心となっている
区長さんにしてみれば、前の年の区長さんから引き継ぎで
何をしなければならないかを聞くが、その実際の目的や効果的な
組織として機能させるのは難しくなっている
もちろん地区によっては担当が必ずしも区長さんではなくて
機能しているところはあるかもしれない
しかし、現実はよくわからないまま、何かしなければならない区長さんは
前の年と同じことを繰り返すようになる
この地域自治区制度の前提は、多分地区の政治的、行政的スキルが十分にあること
と思われる
この場合は、機能する可能性があると思われるが、実際は、、、、
そして予算も結構な額が投入されているらしい 

ひところ流行のように議会条例というものが制定されたらしい
新城市もいち早く取り入れた(市民はこの存在を知っているだろうか?)
この議会条例とは何か?と言えば、手っ取り早く言えば
議会のモラル、あるべき姿を示したもの
(あちこちでモラル低下が見られるから、こうしたものを策定しなければ
ならないことになっているのかもしれないが)

ところが、新城市は市議会議員に新人が多かった
ということもあるかもしれないが 、この議会条例を守っていない方々がいる
議会は行政のチェック機関といった項目
議会は市民の声を吸い上げて反映するようにと言った項目
こうしたことは、現実には先の住民投票に関する一連の行動で
守られなかったが、そのことに関して議員さんは何も感じていないかの雰囲気
この議会条例案には罰則規定がないので、単に条例違反くらいな感じ

議会に会派をなくして委員会で熟議を重ねることを目指した
議会改革も、注目されたが現在は何故か「会派復活」の動きが存在する

こうして内側から、市民として眺めてみると
一般的に評価されている新城市が進んでいるという事柄とは
全く別の様相を見せる
結局、対外的な評価とは、所詮、他人事の評価にすぎないことがわかる
市内に暮らして、現実に直面すると一見評価されている事柄は
実は機能していない事実が見つかる

何か高いところに立って、文句を述べて 、恥を晒そうとしているのではない
ただ素直に今ある姿を直視したところからしか
問題解決はなされないと思うから、問題を指摘しているに過ぎない

もちろん、これは(いつもの)独断と偏見によるものと
考えられないことはない 
円滑にいっている部分もあるだろう
しかし、
そう、どうしても否定の接続詞が続いてしまう

結局問題を解決するのは内にいる人びとの力しかない
外からの評価の新城市ではなく、自分たちで感じ取る新城市を
自分たちの力で変えていかなくては!
いい加減な自分でも、フトそんなことを思う近頃だ
 

 

 

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マスコミは信じられるか?

2015年09月03日 08時43分06秒 | あれこれ考えること

やっとマスコミもデモの参加者数に主催者と警察発表に
あまりの開きがあるので、なぜなんだろう?
どちらが正しいのか?
といった話が出るようになった

なぜ違うのか
これをちゃんと調べた人(調べようとしている人がいる、ご苦労様)
↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 
デモの参加者、12万人が捏造か調べてみた 

自分としての実感は国会前は15時時点は3万人くらい
が妥当と思ったが、自分が行かなかった場所もこれからすると
多そうなので、主催者の報告はまるっきりの誇大ではなさそう 

問題は、マスコミが自分たちの手で調べて、考え方に沿って
報道しようとしないこと 
あるいは報道しないこと

自分たちの手で調べて報道することが公平・公正ではなくて
両陣営の話を同じ分量(時間)の報道で扱うことが
公平・公正となっているような風潮は、言い方は悪いが
これなら誰でもマスコミの記者になれる

最近マスコミの報道に腹の立つことが多いが
オリンピックエンブレムの問題
確かに問題は多いのは否定出来ない
しかし、全体として創りだすバッシング
(ただ正確に報道しているだけといいそうだが
 結果的にはバッシングになっている)
報道することによって加速されるこうした社会の雰囲気
いったいどの立場(何様のつもり)で報道しているのだろうか

放送は、文字をひっくり返して「送りっ放し」
と述べた人がいた
まさにその通りかもしれないとつくづく思う

マスコミの人間(報道関係)に必要とされる資質はなんだろう
相手を出し抜く闘争心、大衆の興味を惹きそうなことにいち早く気づく感性
物事を単純、シンプルに理解し、説明する能力
でも、本当はその前に人としての正義感とか人格とか
そういったもののほうが大事なのではないか
と思ってしまう
多くの人に向けて発信する権利や道具を持ったものは
最低限そういう人であって欲しいと思うが
今はそうしたものは企業として求められていないのだろうか

幸い現在はネットがある
しかしこのネットの情報も玉石混交、
きちんとしたものもあれば、無責任なものもある
そして人は単純に面白い方に惹かれる

マスコミの情報、ネットの情報を受け取る側の力量・判断力を
上げていかないと、混乱がますます増加することになってしまいそう
海外では情報リテラシー教育というものがあるらしいが
日本ではなされているのか?

もしかして、みんなが賢くなってしまうのは
困ると思う人がいる?

 

※ある人から指摘されたが国会前のデモの写真、
どの新聞社も同じみたいに見える
もう少し新聞社ごとに違いがあるはずなのに 

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フルトヴェングラーの「ラインの黄金」と「ワルキューレ」

2015年09月02日 09時41分33秒 | 音楽

東京のデモ参加に出かけたついでに立ち寄ったのが
ディスクユニオンお茶の水店
開店が11時 (東京の店はなんでこんなに開店が遅いのだろう)

今回はあれこれ迷わずフルトヴェングラーがらみのレコードを
そこで見つけたのが、ニーベルングの指環のうちの
「ラインの黄金」と「ワルキューレ」

このシリーズの「神々の黄昏」は所有している
(しかし、通して聴いた記憶はない ただジークフリートの葬送行進曲のあたりが
 やけに切実だった印象はある)

購入したものの、気合を入れて聴かないと面白くないので少し時間を置いたが
やっと聴いてみようかという気になって「ワルキューレ」の方から

ワルキューレはCDで晩年のウィーンフィルと録音したものを持っているが
CD音源のせいかイマイチ感動した記憶が無い
同時期のトリスタンは圧倒的に良いのに(レコードの方の話だが)

オーケストラはローマ・イタリア放送響らしい
海外盤なので詳しい情報はわからない

冒頭の嵐の部分、イタリアのオーケストラと言うよりは
フルトヴェングラーの音
想像以上にクリアだったし、表情が豊か
もっとも別の部分で音量が大きくなるとちょっと明るすぎる音色が感じられたが
ソロ楽器が奏でるメロディーはノリの良さを感じさせる

フルトヴェングラーの指揮は緩急が激しくて演奏者は大変だ
と言った印象があるが、これを聞いていて思ったのが
歌う人は歌いやすいんだろうな
ということ、イメージとは違って言葉がしっかりと伝わってくる

あの有名なショルティの録音のワルキューレより言葉としての
伝わり方は何故か強い
そういえばフルトヴェングラーの「ドン・ジョバンニ」の録音を聴いた時も
同じような印象を持った
ベームのドン・ジョバンニよりは人が演ずる人物としての存在感が
ずっとリアリティがあって言葉が伝わってくる

このレコードは海外版なので台本はあっても外国語
真面目に向かうときは、以前に購入したレコードについている台本の訳を
借りることにするが、今回は勢いで音楽だけに集中
一幕はだいたい内容は知っているので言葉がわからなくても
それほど影響はない

言葉を気にしない分だけライトモチーフの活用、効果が耳に残る
なるほど、ヴァーグナーのセンスは大したものだ(自分が偉そうに言うのは変だが)

指輪はいろんなライトモチーフが出てくるが記憶に残り格好いいのは
シークフリートのモチーフ
第3幕のブリュンヒルデが炎の中に横たわって、それを救い出すのが
ジークフリートであると暗示させる時のあの場面で奏されるモチーフ
わかっていてもゾクッとする

ワルハラとかヴォータン、ジークムント、ジークリンデ、
ローゲや剣のライトモチーフも覚えてしまうと楽しみは深くなるのだろうけど
なかなか対訳をみながら長時間集中するのは難しい
それこそ気合が入った時だけ

このレコードの一幕は気に入ったので
次を聴いてみようかと今は思っている

でもその前に「ラインの黄金」
10月4日の国立歌劇場での上演の予習をしなくては
(聴きすぎて実演がつまらなく感じるようなことがなければいいのだが) 

 


 

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スマホとCD

2015年09月02日 06時16分57秒 | 徒然なるままに

便利なんだが困るのがスマホとCD
何が困るかといえば、老眼の自分には文字が小さすぎて読めない
スマホは拡大できるアプリとできないアプリがあって
夜や早朝の目が情けなくなった時は全然読めない

CDのライナーノーツも最近は読む気がしない
ライナーノーツならいいがオペラの歌詞も読む気になれず
内容はいい加減な理解に

困ったものだ
老人が多くなってくるというものの
世にでる商品は相変わらず物を必要とする
購買意欲の大きい若者だけを対象にしている

スマホで思い出したが列車の乗り換え
これが案外融通が効かない
新幹線は「こだま」で豊橋から東京、京都まで直通の案は
出てこず、浜松とか名古屋で乗り換える案しか出てこない
乗り換えは面倒なので少しくらいは遅くてもいいのに(特に京都へは)

それにしても、目がショボショボしてきた
文庫本はそろそろきつくなってきている
年令を重ねるということは、こういうことか!

 

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借金する人とあの人達

2015年09月01日 19時52分48秒 | 徒然なるままに

最近はあまり見ていないが、吉本新喜劇には生活感あふれる
状況が数々登場する
その登場人物は借金を抱えた男、取り立ての少しあやしい人たち、
地上げ屋さん、警察、中小企業の社長さん 

特に最初の2つは舞台上では余りにも普通に存在して
何の違和感もないが、考えてみると世間にはそれほど見られるわけでもない
フィクションとはいえこのガチャガチャ、ゴタゴタしたところが
当たり前に登場するところが大阪のエネルギーみたいなものかもしれない、
と思ったりするが
江戸の落語にも借金した男は登場する
というか借金は当たり前のような雰囲気

世の中、こんなもんといった割り切りが凄い
妙に分別くさくなく、良い悪いは別にして
ありのままの姿が恥ずかしげもなく表現されて
見る方もゆったりと受け止めている

それは余裕なのか、諦めなのか、それとも開き直しなのか 
でもこの様な状況を受け入れて楽しむ観客は
やっぱりどこか余裕があるのかもしれない

ユーモアとは少し違うかもしれないが
やっぱりどこか面白いと思うこと、面白いと感じられることは
生活には必要かな
ちょっとそんな風に思ってみた(少しまとまっていないが、まいいか!)

 

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デモ参加者数と新聞報道

2015年09月01日 10時30分20秒 | あれこれ考えること

8月30日のデモ参加者の数が、主催者発表12万人
警察発表が3万5千人と発表され
ずいぶん違っていることに前回文句を述べたが
それぞれが発表した数字には根拠があるだろうから
その計算方法を明確にして欲しいというのが正直なところ 

警察はある単位面積に何人いるかを計算して
該当する面積まで拡大して求めるらしい
しかし、それはある時点での数で
少しだけ参加して帰った人たち等の延べ人数はわからないのかではないか
とも思う 

一方主催者の発表する数字はどのように出しているかわからない
8月30日の東京に限れば、国会前だけでなく日比谷公園
(自分は東京の人間でないのでよくわからないが)
などを含めた延べ人数を、何らかの方法で出したのかもしれないが
デモ主催者もデモ反対派の人たちに突っ込まれるような
曖昧なやり方ではなく、根拠ある数字との証明をしたほうがよいとも思う

問題は、この問題をそれぞれが言いっ放しに終始していること
そしてマスコミも自らの調査を行わず、それぞれの数字を報道しているだけ
(先程、産経新聞社の記者が警察のやり方で自分で計算したら3万5千人ほどだった
 との記事を見たが、デモ参加者の方の言い分は、他の地区の参加者をカウントしていない
  の反論もあった)

結局、正確な数字は実際にはつかみにくいのが現実なのかもしれない
ただ自分がサッカー観戦で駅まで歩いて帰るときのことを考えると
あの時間の参加者は(延べではない)3万人台の方が納得できるかもしれない

それぞれはそれぞれの思惑があるから、
片方は多めに他方は少なめに 報道したがる
デモ参加者としてみれば仲間が多いに越したことはない
しかし、数字を水増ししてまでも(しているかいないかは分からないが)
多く見せることは必要ないと考える

デモ現場に行った人ならわかるが、その熱気とか真剣さの度合いは
間違いのないもので、初めてデモを経験した若者も同じ印象を持ったと
新聞記事に載っている
実はこちらのほうが大事で、時間がかかってまどろっこしいかも知れないが
真剣に取り組むメンバーを増やす算段を考え、ブームの様な参加者を増やすことは
それほど結果的にはプラスにならないのではとも考える

確かに現実はどんどん時間が過ぎていく
のんびりしていられない
なるべく多くの意見の集約の行動と示したい
だが、でも当日の11時半頃、自分は御茶ノ水駅に近くにいたが
そこはデモとはまるっきり関係のない普通の世界があった
自分の好きなモノを求める人、友達と仲間と談笑する人、急いで駅に向かう人
その内の何人かはデモに参加したかもしれないが
印象としては全く別の世界の人達のように思えた
(それがいいとか悪いとか言うのではなく、それが現実ということ) 

まだ残念ながら大きなうねりうとまではなっていないが
マグマの様に熱い地殻変動が起きている
これは実感できる

ところで、このデモに関する翌日の新聞報道を見比べると
興味深い 
先ずは地元の中日新聞 1面と3面


次に毎日新聞の1面と3面

ついで朝日新聞の1面と3面


 

そして読売新聞の1面

デモの記事は見当たらず、3面にもなかった

普通の家庭は新聞を幾つも契約していることはない
大概が1紙だけ
そしてテレビに主役は奪われているとはいえ、その信頼性においては
まだテレビの上を行っている新聞の報道が、公正・公平と言っている中でも
この様に違っていることは記憶にとどめて置かなければならない

無条件に公正・公平と信じきっている新聞も
実はきわどいところである方向性をもった報道をしている
報道をしているのではなく、報道しないことによって
ある種の雰囲気を作り出す

幸いある程度、新聞社の報道傾向は知られているので
この様な記事の扱いは想像できたが、それでも1紙しか
とっていない現実が多いことを思うと、その人たちが
長い時間をかけて慣らされた考え方が、どのようになるのかは
少し心配
(もっとも完全な客観などはあり得ないのかもしれない
 人は直感的に自分はどの意見に共感できるかを瞬時に判断し
 それを理論武装できる記事・情報を集めているに過ぎないのかもしれない) 

自分たちは自分たちの判断を誤らないために
多くの情報を手にしなければならない
そしてその情報を元に全人格的な(総合的な判断力を駆使して)
判断しなければならない
最後の最後で判断を誤らないために、、、
それは案外理屈でなくて、その人に自然に湧き上がる感情なのかもしれない
と思ったりする(相変わらずの独断と偏見だが) 

 

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