パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「デモクラシーは仁義である」を一読して

2016年10月17日 08時34分24秒 | 

速読できるタイプではないが、早速読み終えてしまった(?)のが
「デモクラシーは仁義である」 岡田憲治 角川新書

あとで読み直そうとした付箋も少なからずある
面白かった(面白かったという以外の表現が出来ないのは情けないが) 
何よりも読みやすい
短い章に分かれてわかりやすい文書で書かれており、さほど集中力を必要としない
だからといって深くないというのではない

この手の本の中で民主主義とか国民主権、あるいは地方自治という言葉が使われるときに
いつも違和感を感じるのはその国民とか市民の扱い方
そこには日々の暮らしをしている市民・一般人の感覚とか現実が踏まえられず
一種の抽象的な概念としての市民・一般人 として扱われている
そこには少なからず主権は市民間にあるからみんな責任持って
政治(自治)に関心を持って行動すべしと大上段に構えた話が続く

しかし、一般市民は残念ながらそんな高等な存在ではない
もっとゆるいいい加減な存在だ
この現実からこの本はスタートしているので、心情的にわかりやすい

大衆が力をもって決めることは、本当に正しい結論を導くことができるか
これについてはポピュリズムの危険性やら、オルテガの「大衆の反逆」などで
知識人の中には一定の認識があるかもしれない
しかしの生活者の多くは「民主主義は多数決」、みんなで決めることは民意の反映と
無邪気に素朴な前提を認めている
事細かく分析、解釈していけば素人の認識とは違い、専門家の言うとおりなのだが
生活者は正確な認識をしているわけでなく、かなりアバウトな認識しかしていない
そして多分この傾向は、理解を深めるためのどのような働きかけがあったとしても
そんなに変わらないものと思われる

そんな中、一体何ができるのか?
いや、そもそもどんなふうに考えたら良いか
と、かなりゆるく、それだけにみんなにも容易に持つことが
できそうな考え方が書かれている 

例のごとく、本質とは関係ないかもしれない部分に付箋をした
その部分を抜き出すと

己のいかがわしさ、人間の不完全さ の章から

どうあろうと、現実を生き抜く大人は程度の差はあれ「汚れて」「ずるくて」
「人のことは言えない」「小心者で」「都合の悪いことはすぐ忘れる」つまりは
普通の人間たちだということです
にも関わらず、その人間の業やいかがわしさを政治家から見て取ると、あらん限りの
罵詈雑言とヤジと怒号でこき下ろし、引きずり下ろすくせに、何故か政治家「選び」を
する際には、最良の選択じゃないと嫌だというピュータリズムに陥る(のが、多くの棄権した有権者です)

最良の選択ではなく「最悪を避ける選択」の章から

自分たちの不確かさ、間違えやすさ、ワガママを静かに受け止めて、その上で
何を一番失ってはを淡々と考える、弱くて無力な我々の偉大なる知恵とセンスなのです。
無力でも簡単には負けない美徳がそこにあります。 

間違えることが前提だから間違えたら訂正して謝る の章から

人と人が結びついたり離れたりする時の契機は、日常の友人であろうとデモクラシーの友人であろうと
あまり変わりません。それは、その人がどれだけ知識があるかではなく
「間違えた後、どのように振る舞うか」です

どうやら人としての仁義、それは難しく考えることではなく
なんとなく感情的な共通項として感じているそういうものが
実現されるべきとされているようだ

もう一度付箋のある部分を読み返すと違う印象を持つかもしれないが
とりあえず一読した感想として、、
 

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コスモスの小径

2016年10月16日 18時57分48秒 | 徒然なるままに

ダラダラと過ごしている日曜の昼
急に思い立って、新城市富岡の「コスモスの小径」に出かけた
いつもは気張ってカメラを持参していくが、
撮影センスが無いのが分かってきたので写真はスマホで済ませた

案山子がお出迎え
人気投票をしていた


 

天気は腫れたり曇ったり
晴れると色が際立つ  やっぱり晴れないと気分が出ない

小径を子どもたちが何度も楽しそうに笑いながら駆けていく 
見てるこちらも幸せな気分になる

思い浮かんだ「疲れを知らない子どもように、、、」
この歌の花は「シクラメン」だった

子どもたちは何故あんなに素直に楽しめるのだろう
(自分たちも昔はそうだった、、、)
 

 

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読みたい本から、読む本へ

2016年10月15日 20時07分19秒 | 

目がしょぼいのが情けないが、読書モードが続いている
読書家とまではいかなくても、活字を眺める日が続く
そして、本を読んでいると次に読む本が現れてくる

Amazonで求めたのがこの2冊

「デモクラシーは仁義である」は以前中日新聞の書評に出ていて興味があったので
Amazonの「欲しいものリスト」に登録
「超国家主義の論理と心理」は佐伯啓思の「20世紀とは何だったのか」のなかで紹介された本
やはり「欲しいものリスト」に登録しておいた

読む分野の傾向は流れがあるようで、今はこの手の本が多い
でも、少しばかり気持ちに余裕がなくなっているので
先日フト文庫本の「万葉集」を適当に開いたらこれがなかなか良かった
気持ちそのままじゃないか!というかおおらかというか!

もしかしたら、しばらくしたら図書館で「万葉集」なんて借りるかも知れない

その前に、この2冊読み終えなければ!
(実はまだ読みかけの本があるが、、、) 

 

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ボブ・ディランか!

2016年10月14日 08時25分39秒 | 徒然なるままに

今年のノーベル文学賞はボブ・ディラン
村上春樹はまたしても受賞を逃すことになった
日本人としては少し残念なところもあるが
(出版社が一番悔しがっているだろうが)
ボブ・ディランは前々から候補に上がっていたし
仕方ないといったところかも知れない

ところで、今までに文学賞を取った人の作品を読んだかと言えば
日本人の川端康成は、少し読んだ
大江健三郎は、途中で挫折した作品ばかり
外国人では、古いところではヘッセはしっかり読んだ
ウンベルト・サバはなにか気持ちよくて時々読み返す
オルハン・パムクはこちらに気力と体力がないと続かない
リョサは面白そうだけで、やはり本の厚さに圧倒される

少し分野が変わってベルクソンも面白そうだが、やはり気力が必要
こうしてみると、ノーベル賞をもらうような作家を読むには
それなりの根性が必要ということになりそう
(それだけ作家も全エネルギーを費やして書いているので
読む方も同様のエネルギーを必要としているかのようだ)
さて、村上春樹は気力が必要か、、、、

そんなに気力を要しない(?)ボブ・ディランが受賞したのだから
やはり気力をそれほど要しない村上春樹も、いつかは、、、

多くのミーハーが多分するように、
今日はボブ・ディランのレコード(CD)を聞こうかな

 


 

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新城の若者議会についての疑問

2016年10月13日 08時19分35秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

今朝は少し真面目な話で、新城市の若者議会について

新城市には「若者議会」という制度がある
これは対外的には評判が良いらしくメディアに取り上げられたり
マニフェスト大賞を受賞している
ところが、当の新城市民である自分はこのシステムについて
充分な理解が進んでいるかと言えばそうではない
ならばちゃんと調べればいいんじゃないか!
ということになりそうだが横着者ゆえ、情報は漏れ聞く範囲に収まっている
もっとも、そのほうが一般人の認識に近いのではないか
市民全体はこんな認識なのではないのか、と思ったりする

若者議会の若者とは基本的に16歳から29歳
そして任期は1年間
この間に若者をとりまくさまざまな問題を考え、話し合うとともに、
若者の力を活かすまちづくり政策を検討し市長に答申するというのも

何か固っ苦しい言い方をしてるが、若者が市の将来を考えて
こうした方がいい、ああした方がいいということを提案して
それに予算をつけて実施するシステムだ
本当に予算をつけて実施して議会の単なるシミュレーションではないことが
対外的に評価されている様な記述が何処かにあった

ところが問題はこの部分
若者議会は今年が第2期となっている
昨年の第1期分の予算はすでに議会で承認されていて
図書館のリノベーション・バブルサッカー・それからおしゃべりチケットみたいなものが
実施されることになっている
しかし予算は通って実施されることになっているこの事業の進捗状況が全然わからない
時々利用する図書館に行っても何ら変化は見られない
まして、バブルサッカーやおしゃべりチケットの話題などは
そもそもどういったものか?という情報さえ分からない
多少市政について文句を言うことの多い自分がこの程度だから
多くの市民はほとんど知らないのではないかと不安になる

そこで新たな疑問が浮かんだ
若者議会の任期は1年 来年度実施される事業の計画を考え答申する
というのが任務となりそうだが、そうならば自分たちが決めた政策の進み具合や
本当にこの政策が良かったのかどうか
充分に自分たちの意見は反映されて実施されているのかなどの検証などは
任期切れで出来ないことになってしまう
果たして、それでいいのだろうか?ということ

行政で問題となるのは計画は立てる
しかし、その計画の実施された結果の検証などがどうも曖昧な点で
それをある議会で追求されることがあっても、物は言いようで
あれこれ答弁が返ってきて結局はわかったようなわからないようなまま
ものごとは進んでしまう
こんなことがここでも繰り返されてしまわないのだろうか という不安がある

つまり予算を立てるだけの仕事は、ある意味無責任じゃないのかということ
ならばどうするか?
20人いる若者議会のメンバーは任期を2年として、半分は残って予算執行の責任を
持つようなシステムにすべきなのでは
(もっとも経験者もメンターという形で残っているのが現状らしいが、その人数は多くないようだ)

その次の疑問
今期は図書館リノベーション事業・ハッピーコミュニティ応援事業・
若者会議PR事業・新城魅力創出事業 の4部門に分かれているらしいが
この中の図書館リノベーション事業は昨年の図書館リノベーション事業と
どこがどう違うのかがわからない
昨年はこうだった、それを更に進化させてこういう計画を考えているといった
状況がわからない
(本好きの自分としてみると、図書館の滞在時間を増やす考え方だけを
 検討するのは少しばかり気に入らない
  そもそもの図書館のあり方みたいなもの、昔やってた移動図書館で
 福祉の活動を兼ね合わせたモノを今の時代に検討したらどうかと思う)

そう言えば、第一期のリノベーション計画もその前の年の「若者✕新城」で
提案された計画ではなかったか
別にそれだからいけないというのではないが、
若者の自発的な発想が反映されているのかどうかに
若干の疑問がある(検討材料は何処かからリードされていないか?)

入れ物はつくった
さあ、この入れ物の有効な活用をしよう
ところが、この入れ物の目的や、それを活用する知識は身についていない
実際のところ現実はこんなところではないのか
(ところで、自分は若者個人個人に文句を言っているのではない
  若者が利用されることなく、本当に若者特有の正義感、直感で
 失敗を恐れずに進めていくことを望んでいる
  若者には失敗する権利がある)

この入れ物はつくったが、その入れ物自体の理解が進んでいない
と思われるもう一つが「地域自治区制度」 
先日行われた「地域意見交換会」でも地域自治区制度の評価についての
質問が一般の方から質問があったが、
行政はうまくいっているの評価を下しているとの答え
何をもってうまく行っていると判断しているのか
(監査する方の評価?でもその監査する人は、、、)

まずはシステムをつくって、そこから発展させていく
確かにそういう方法もある
しかし、どうもこの方法では新城市はうまく行っていないのではないか
というのが実感
新たなシステムを導入するには、もう少し市民の真の理解が無いとダメで
そのためには丁寧な説明と理解を促す活動が必要なのではないのか

独断と偏見、思い込みがあるかもしれないが
ちょっと心配なので取り上げてみた 

 

 


 

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江戸時代の奥三河の事件

2016年10月12日 18時36分26秒 | 徒然なるままに

今朝の中日新聞に興味深い記事があった(画像クリックで別ページに飛びます)

 これはいつもの市政絡みではなく、単純に面白い
記事には、江戸時代、1832年から37年にかけて「議定論騒動」と呼ばれる農民と
商人の争いがあった 。そこで双方とも江戸に出向き勘定奉行の裁きを受けるまで
争議は拡大したとある

きっかけは天保の大飢饉のときに、農民は米がとれないのでコウゾや串柿、たばこを商人に
販売し、その代金で年貢を納めていた。
ところが農民はある書類を手に入れた。それは商人が農作物の買い取りのルールを決めた「議定書」
農民は商人が結託して農民を苦しめていると憤慨し、5年にも及ぶ争議が勃発したのだそうだ

この騒動の顛末を日記に残したものがあったが、戦後所在不明となっていた
それがこの度見つかったというのだ 
ロマンというには生々しい話だが、こういった欲絡みの話はリアリティがあって面白い
商人たちは今で言う「カルテル」を結んだということなのだろう 

そして、この話の現代的なこと
呆れるくらい人間というのはいつの時代も同じことを行っている
こうした例は、あまりにも多すぎて人間の本姓ではないかとさえ思ってしまう

江戸時代のこの地方の裁判沙汰は作手と矢部(だったかな、違うかもしれない )の
境界線についての争いがあり、それを大岡越前が裁いたという話を聞いた記憶がある
江戸時代なんて昔の話と思っていたが、案外身近なところにあったりするものだ

この日記、誰か現代文に書き起こして本にしてくれないかな
是非読んでみたい
 

 

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不思議な光景、よくある光景

2016年10月12日 10時29分27秒 | サッカー

昨日のオーストラリアとのワールドカップ予選
前半はリアルタイムで見られたが、後半は同時刻にある行事があって
見たのは結果がわかってからの録画

前半は原口のゴールで1-0でリードしていた
日本も以前のピーク時と比べてだいぶ落ちている感じはするが
前半を見た限りではオーストラリアに逆転する力は無いような印象

日本はオーストラリアと相性が悪いと言うが、最近の試合はずっと引き分け
オーストラリアも日本との相性は良くないと思っているかもしれない
自分的にはアラブのチームとの戦いのほうが日本はやりにくそうな気がしてならない
オーストラリアがパスを繋いで来るチームになった分
そういうチームに対するなれが日本にはあるようで
身長差を活かした攻撃をされる方が怖かった

ところで後半から見た録画
何故か画面にいつまでたっても白い鳥の姿があった
ピッチ内もピッチの外も飛んでみたり歩いてみたり
邪魔になるから何処かに姿を消すのが普通ではないか
とも思うが鳥くんたちの考えはどうも違うらしい
どうしてもあの場所を離れたくない切実な理由があるのだろうか
まさか、サッカー見物をしてる、、、なんてことは絶対ないだろうが、、

このあたりは鳥の生態に詳しい人に聞いてみたいところ

ところで試合は後半早々 PKでオーストラリアが得点
このPKのきっかけを作ったのが日本の先制点を叩き出した原口のファール
これは鳥くんの光景とは違って、割合ありそうな光景
試合で頑張っている人が、何故か肝心なところで決定的なミスをする、、
このパターンだ
確かにあのシーンでは原口はあそこまでやらなくても良かった
かも知れないが、あの頑張り気持ちが得点にもつながっていたから
一概に悪いとは言えない

世の中には派手な浮き沈みの激しい人生を送る人がいる
長嶋さんのデビュー戦の4打席4三振と、その後の活躍はそうした例で
こういう星の下に生まれた人は活躍を約束された人物の一人かもしれない

試合内容とは関係ない話になってしまったが
日本はかつてのようにアジアの中では強いチーム(負けないチーム)
ではなくなっているのは事実だ 

 


 

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予習と復習

2016年10月11日 08時29分23秒 | 音楽

昨日、ワルキューレの最後のところをレコードで聴いて
新国立の思い出の浸ろうとした
引っ張り出したのは中古レコードで購入したフルヴェングラー指揮の
RAIローマ交響楽団のもの

予習したときは録音が悪いなくらいな印象しかなかったが
昨日聴いたときは、音楽の勢いとか表情が格段に違って聴き取れた
(フルトヴェングラー独特の興がのってきた感じがふんだんにあって)
あの新国立の舞台をつい思い出していたからだ

そこで、フト思ったことは
もしかしたら音楽は妙な予習はしないほうが良いかもしれない
ということ
先日の公演でも普段聴かない2幕がとても興味深かったが
聴き慣れている1.3幕は、一歩間違うと聴き流してしまうくらいの聴き方だった

やっぱり生(ライブ)の経験は違う
何ごとが起きるか息を詰めて聴く、そのときだけの一瞬のことだが
想像以上に記憶に深く刻まれている
その時の真剣勝負を楽しむためには、目の前にある(耳の前にある)音楽に
予備知識や偏見やその先がわかっているような聴き方よりは
ひたすら集中するほうが良いかもしれない

ということで、早くも来年の「ジークフリート」については
予習は音楽を聴かないで、ストーリーの展開だけ頭に入れるようにしよう!

予備知識は必要だが、それが却って邪魔になることもある
少なくとも自分のレベルの聴き方では、
予習よりも復習を中心にしたほうが良さそうだ 

そう言えば、自分はどうも復習中心主義かも知れない
京都の葵祭も見終わってから葵祭の言われ等を読んだりして、、、
どうも体験した後のほうが(いろんなことが)すんなり頭に入っていくようだ 

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西洋美術館と鈴本演芸場

2016年10月10日 12時18分58秒 | 旅・旅行

ワルキューレ公演の翌日
東京滞在二日目、さて何をしようか?
とずっと前から考えていた
愛知県の片田舎の人間、聞いたことがある地名は少なからずあっても
それが具体的に何処にあるのか、見るべきものはそこにあるのか?
調べるのも面倒な横着者は天気が心配だったので屋根のある場所を選択した

選択肢したのは上野の西洋美術館
ちょっと前、ユネスコの 文化遺産に登録されたル・コルビュジエが設計したところだ
でも建物に興味があったのではなく、そこには屋根があったからだ(雨が降っていたし)

この西洋美術館、実は初めてではない
確か数回見ているはずなのだが、、
美術館で写真撮影が許されているとは知らなかった
(撮影禁止の作品もあったが)

そこでお言葉に甘えて、お気に入りの絵をパチリ、いやガシャっとスマホで

ミロの絵、ミロは好きなんだな何故か(ホッとするというか、優しい気持ちになれるというか)
この絵は図鑑か何かで見たことがある、でもこんなに大きいものとは思わなかった
落書きみたいな絵だけど、同じ落書きみたいなピカソは絵に緊張感が溢れていれるが
ここには張りつめたものはない(と感じてしまう)

確か以前何処かでクリアファイルになっていた絵がここにあった

モネの睡蓮 これも大きな絵だった
さすがに有名だけあってこの前で写真を撮ってる人が多かった

あとはルノワールの数点を記録に収めた

有名でなくても気に入る絵はあったが、それは誰も撮影していなかった
この西洋美術館の常設展は430円の入場料
この価格は助かる
でも展示場に座ってのんびりするところがなかった
一休みするところ、欲しいものだ

ざっと見終えたあと、すこし小降りとなった屋外に!
入口付近には「考える人」「カレーの市民」「地獄の門」の彫刻等が並んでいる
何かしら迫力があるのは「地獄の門」


 何か引っかかるが、それが何か分からない でも良い作品ということは分かる

真面目な屋根付きの会場のあとは、ゆるい屋根付きの会場へ移動

新宿末広亭と並ぶ落語の聖地(?)鈴本演芸場だ

自分が入ったときにはお弁当を食べてる人、一杯飲んで気持ちよくなってる人が少なからず見受けられた
(食事は末廣亭より食べやすい環境にあるみたい)
昼の部ということで一人約15分〜20分の持ち時間を
落語・手品・音楽を使ったパフォーマンス・漫才が 次々と演じられていく
落語家の名前は知らないが、自分の聴く方のコンディションが良かったせいか
(前日から続くコンディションの良さが続いて)
大いに楽しめた
馬鹿馬鹿しい笑いを、真剣になって取り組む、そして磨き上げる
そこを受け入れる人達がいる
文化などと大げさなことを言う気はないが本当に豊かな世界というのは
こういうものじゃないかと感慨にふける

ということで、久しぶり東京への旅の二日間は本当に充実したものだった
来年は「ジークフリート」も「神々の黄昏」もある
また予習しながら、いやぶっつけ本番で楽しむことになるのかな、、

最後に不満をひとつ
新幹線のこだま(豊橋はこだま利用なので)停車する度に何分か待って
抜かれていく
その頻度があまりにも多いので少し苛ついてしまう
もう少しなんとかならないものかな 

 

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新国立劇場のワルキューレ(10月8日)

2016年10月09日 20時45分47秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

もしかして愛知県の片田舎への電車が間に合わないかもしれないと思い
一泊して観ることにした新国立劇場の「ワルキューレ」
数日前から予習をしてこの日を迎えた
 

派手な1.3幕は眠らない気はしていた
でも2幕は長いし延々と会話ばっかりで、睡魔に襲われたら(ブリュンヒルデじゃないけど)
寝てしまわない自信がなかった

ところが、何の事はない心配は杞憂に終わった
それどころか、2幕が思いの外面白かった
ストーリー的に指環の重要な要素がたっぷりはいっていて
4部作が何故「ニーベルングの指環 」と名付けられて
本当の主役は誰なのか ということも理解できたような気がした

まずは順を追って第一幕から
一幕は今回に限らず聴く機会は多いので楽勝な感じで舞台に集中
斜めになった安定感のない青い色彩の舞台
剣の刺さった大木も斜めに生えている
それが象徴的にどんな意味がるのかは自分には分からない
ただ、シャープできれいだなが第一印象
そのきれいと感じたのはジークムントとジークリンデの盛り上がる
月の光が差し込むところではなくて
フンディングの仲間が家に入る扉を開けて外の光が家に差し込むところ
ここは視覚的に印象に残った
そして一幕で一番印象に残ったことと言えば「人の声の凄さ」
鍛えられ訓練され、そして才能にも恵まれた人たちの声の凄さ
これは本当にすごい
この日のキャストは

残念ながら知らない人ばかり
セリフや歌詞を見て聞かなければならないオペラやリートは
目がしょぼくなっている自分はあまり聴かない
単純に歌詞のない音楽だけであれこれ想像するほうが楽でいい
ところが、実演で言葉と音楽が混じり合うとこうした分野も捨てがたい

この日の歌手たちを比較対象できるくらいの知識とか
たくさんの歌手の歌を聞いていれば聴く楽しみ方は違っただろうが
この日はただストーリーに集中して聴くだけしかできなかった
(それで十分なのだが)

声の凄さは体格に比例するかもしれない
パヴァロッティはとんでもなく肥満だったし、今回の主役級もみんなふくよかな体型
ドラマを観るなら興ざめしそうだが、それを圧倒的な声の力でカバーし
おデブさんは気にならなかった
昨年ウィーンで見たパルジファルはおデブさんが気になって最後まで集中できなかった
(衣装も薄汚かったし)
音楽はウエルズングのライトモチーフや剣のそれはもう少し効果的に鳴らしたり
暗示したりできそうな気がしたが、とにかく一幕はただただ声がすごいに尽きた

2幕、普段よく聴かない部分だ
この聴かないことが却って良かったかもしれない
先取りして音楽を待つのではなくストーリを楽しめた
浮気性の神(ヴォータン)、その浮気にもそれなりの理由があるのだが
ちゃんとチェックしている正妻の迫力に負けてしまい、自分の心を偽って
せっかく期待して産ませたジークムントを自らの力で滅ぼしてしまう運命を選択する
ここにすでにアルベリヒ(ニーベルング)の呪いがかかっている

4日間かけて上演するこのシリーズを通称「ニーベルングの指環」と呼ばれるのは
このアルベリヒの呪いのかかった指環を中心にして物語が進められからだ
特に表立って指環が出てくるわけではない、出てくるのは呪いにかけられた運命だけ
そしてその指環を最初手にしたのは「愛を諦めた」生物としてのアルベリヒ
愛を諦めた代わりにその指環は「世界を征服できる」力を持つ  という設定が面白い
この指環は策略によってヴォータンに取り上げられてしまったので、その取り上げられる瞬間に
指環を持つものには不幸な運命を!という呪いをかける

本当にオペラの題材としてはあまり美味しくない内容だ
権力闘争とか欲とか裏切りとか、、

話がそれてしまった
とにかく2幕は面白かったということ
そしてこの2幕は指環を楽しむためのいろんな情報が詰まっているということが分かった

しかし、それでもここの音楽は実演でないと聴き続けられないだろう

3幕
ストレッチャーが出てきた
ワルキューレの仕事(死んだ英雄をワルハラに運ぶ)を考えるとそれも分からないではないが、
いざ目前に現れると少しショックだった
音楽は2幕から雄弁に語り始めている
ライブの良さ、勢いに乗ったもの勝ちのようなもので
歌手の呼吸と音楽が寄り添って、舞台を見ないで楽譜を見て演奏しているのが
不思議な気がする
やっぱりオーケストラはオペラの演奏をすると呼吸とかノリとか
一ランクアップするかもしれない

さて有名なヴォータンとブリュンヒルデの別れ
不覚にも一瞬泣きそうになった
健気で真に勇敢な父思いの娘との別れ
そして、次に登場する英雄を暗示させる音楽

ワルキューレは終わったが、作品として単独で取り上げられるといっても
何か消化不良の気持ちが残る
先がどうなるか?その気持ちのほうが強い
まるでミステリーのとてもいい場面で中断されているような気分で落ち着かない
次の「ジークフリート」「神々の黄昏」が今すぐにでも聴きたい気分だが
会場に貼られたポスターをみて驚いた
来年6月に「ジークフリート」10月には「神々の黄昏」が上演されることになっていた

トリスタンやパルジファル、タンホイザーはまだしも指環はちょっと!
と思っていたが、いろんな解釈ができるこのシリーズは
「ハマってしまう」かも知れない 
(でも、ホント妙な物語)

とりあえず、来年も行くぞ! 


 


 

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