パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

グランパスの守備

2021年03月18日 16時28分36秒 | サッカー

地元のグランパスが調子いい
イタリア人の監督のもと、カテナチオが機能して開幕5連勝だ
守りが機能しているとかんたんに言うが、それは単にブロックを形成し
選手間の距離が適切というだけではなさそうな気がしている

守りの基本はまずインターセプトと言われる
次に前を向かせないと続くが
インターセプトだけでなく奪取できるボールは奪取する
といったところが際立っているように見える

普通はボール奪取に無闇にトライするとかわされてしまうので
一旦はスピードを落とさせることにして、距離も攻撃側も守る側も程々にする
ところがいつもという訳はないが、グランパスは採れそうなボールは採るという覚悟で
一気に選手間の距離を詰めてしまう
この採れそうなボールは採るという覚悟の上のプレスは、とりあえずプレスするのとは
だいぶ迫力が違う

イタリアのサッカーは守りから入ってカウンターがスタイルとなっているが
守りからカウンターに入るには如何にボールを採るかが大きなポイントだ
フランスは身体能力の高い選手を並べてブロックの中に入らせない感じだが
イタリアはとにかく速いうちにボールを取ってしまおうとする

このボールを採るという技術が全般的に高いのがイタリアで
どうしてもゴチャゴチャしたフィジカルに頼る部分が多いので本田も俊輔も
苦労した印象がある

子供の頃は無闇矢鱈と足を出してボールを相手から奪おうとする
すると簡単にかわされてしまうので、徐々に足は出さないほうが良いと学習する
それは守る側の知恵として刻まれるし、教える側も無闇にボール奪取にトライするなと伝える

しかし、それはもしかしたら間違っているのかもしれない
少なくとも育成時代とかには、採れるかもしれ無いボールは採るに挑戦し続けて
接近戦の技術を高めるべきなのかもしれない

ブロックを作っても、ただ作っているだけではなく縦のパスのインターセプトを
いつも狙っているという雰囲気は、攻撃側にも圧迫感を感じさせる
今のグランパスは画面からでもそんな感じが滲んでいる

守りのセンスはないと思われた柿谷も、ボールを取るとか守るというのは
技術の一つとして面白いものだ!と感じているような気がする
もちろん信頼されているという実感が大きく影響しているのだろうが

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東と西の桜

2021年03月17日 16時33分44秒 | 徒然なるままに

新城市の東新町駅から南に向かって、国道との交差点を更に桜淵に進むと
道の両脇に桜の花が咲いている
新さくら通りと名付けられたこの道は、子供の頃はそんなに桜の印象はなかったが
現在では、桜淵公園の桜への導入口みたいになっている

今年はここ二・三日で濃いピンクの花が急に咲き始めた
これがなかなか面白い
道の西側にある木々は咲いているが、東側のほうはまだ遠慮している
(現在はどちらも咲き始めているのでわかりにくいが)
なんでかな?
と思いつつ、午前中、車で走っているとフトその理由が分かった気がした

朝陽のせいだ
あるいは日照時間のせいだ
東側の桜は建物の影で、朝陽を十分に浴びることができない
一方、西側の桜は道路があるために遮るものはなくなって
思いっきり日光を味わうことができる

桜が咲くのは、2月1日以降の最高気温の積算が600℃になったときと言われるが
光も同様に積算の光の量も必要な気がしてきた
これが本当にそうかどうかはわからない
でも、きっとそうに違いない、、と思ったりする

トンネル越しが絶好撮影スポットとして有名な鳳来地区の河津桜も
もう咲いているとのこと
何かと忙しい人間社会をあざ笑うように季節は移っている




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情報格差

2021年03月16日 09時34分59秒 | 市政、市議会に関することなど

情報格差という言葉がある
これにはツイッターの利用者と非利用者の情報量の差といった
受け取る側だけでなく、出し手の差も明らかに存在する

今でも思い出すたびに残念に思えてしまうのが
昨年の今頃、市長と市議会におこなった「新城名古屋直行バス運転中止」
の請願書の提出のときことだ

3年以上の実証実験とされた新東名高速道路経由の「山の湊」号は
利用者が想定した数(KPI)を下回り、大幅な改善が見られる傾向になく
毎年約3600万円の経費を計上していた

そこで、予算が決まる前に、実証実験から営業運転に変更し
今後も市からの経費を捻出するような計画は止めにしてほしいと
1700筆ほどの署名も持参して市長と市議会に請願書を提出した
当日は、市長室で請願提出者と市長は直接会話を交わす機会が設けられた

請願提出は事前に記者クラブに通知しておいた

ところが、よりによってその翌日の新聞には
「高速バス運行継続を発表」の記事が掲載されたのだ
そしてそこには、多くの署名もあった中止の請願の情報は掲載されていなかった

新聞社が記事をどのように扱うかは、新聞社の決めることだが
一気に多くの人に伝えられ、それが正しいことのように思われる新聞記事になってしまうと
掲載されなかった情報は、現実的にはなかった行為になってしまう
(実際のところ市民のどれだけが中止の請願書を提出した事実を知っているだろう)

この件だけでなく、断定的な新聞記事に困ったことは他にもある
それは新庁舎建設に関する実務協議のときのことで、
ここでも新聞にいきなり断定的に「市民案は不可能」との記事が載ってしまった

これらはどちらとも、「行政がそう言った!」
と伝達しているに過ぎない
だがそれがどのくらい影響を及ぼすものか、メディアは自覚しているのだろうか?
そんな疑問がその時からずっとついて回っている

広報は発信側の情報弱者には、とても難しいと凹みそうになってしまう


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悪口

2021年03月16日 08時37分26秒 | あれこれ考えること

悪口を言うのは心地よい
なんとなくムシャクシャしていたことがスッキリする
そんな感じを覚える人は少なくないと思われる

新聞の週刊誌の広告タイトルは悪口の類が多い
もちろん肯定的な心温まる記事も無いわけではない
しかし、何故か感情を煽るようなもののほうが印象に残ってしまう
心理学的に何らかの説明はつきそうだが、とにかく人にはこうした傾向がある
自分は聖人君子ではないから、この傾向に少なからず依存してしまうことを否定しない

だが言う方はいいいが、聞かされる方はどのように思うか?
を考えてみると、悪口を案外好ましく思っていないかもしれない
人のよくないところを挙げて、少し高みから断定的に批判しているのを見聞きすると
人は少しばかり引いてしまう

当人は悪口ではなく正当な批判をしているだけのだが
穏健な人にとっては、悪口ばかり言っていると感じられているものの中に
野党の追求があるのではないだろうか

形だけを見れば、批判ばかりを繰り返す姿勢は好ましくないかもしれない
だが、「善人の沈黙」という言葉がある
目の前で起きている事柄を、その追求が攻撃的と感じさせられるために
スルーする、無関心でいるというのは、結果として支持しているとか
現状を認めているということになってしまう(この理屈は既に意識高い系の考え方)

感情の扱いは難しい
感情を廃した理性に沿った議論が好ましいとされる
だがその議論に一般人が参加する場合、いきなり高度な筋道だった議論ができるわけではない
むしろ生活感に基づいた感情的な指摘等が長々と発言されるのは想像がつくし、実際そのような例は多い

こうした一種の停滞を招く感情的な発言を排除することは、庶民としてみれば
その会議がエリートのみで行われ、彼らが勝手に決めているとの感情を覚えてしまう
そして「反エリートの感情」を育むことになってしまう

感情を廃した表現が正確で良いものだとしても、それが人の心を動かすかどうかは別問題だ
ピューリッツァー賞を受けた報道の中には、エモーショナルな表現のものも少なくないらしい

現在社会において必要なのは個人の感情のコントロールの仕方ではなく
社会の感情との付き合い方なのではないかと思えてしまう

それにしても、悪口のエネルギーはすごいものだから
それが結果的に良い社会を作る手段としても、受け入れられないのは理解できる
困ったものだ

例のごとく、上手くまとまらなかった、一体何のこっちゃ!

 

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個人の判断

2021年03月14日 16時11分49秒 | あれこれ考えること

軍事クーデターを起こしたミャンマーでは、それに反対するデモする人々に向けて発砲を行い
既に死者が少なからず出ているとニュースにある
一方、軍の命令に従えない軍人、その家族が隣国に亡命をしている例も100人を超える
との報道もある
上司の命令だからといって(あるいは法的な縛りによって)抵抗感なく発砲をしてしまう
ことに葛藤を覚える人たちがいるのは、人として理解できる

日本では沖縄で座り込みをしている人たちの排除の命令をされた警察(?)の中に
どうしても地元の人間に対してそのような行動を起こせない人たちがいた
「お前(警察)も沖縄人だろう、こんなことでいいのか!」と言われて、涙が溢れて
立ちすくむしかなかったなかったらしい

法的な強制力(命令に従うべき)があったとしても、判断をするのは個人だ
法的な命令を個人はどの程度守るべきかは、思いのほか難しい問題のように思える

アイヒマンは命令に従っただけだ
自分がしなくても他の誰かが行った
自分は自分を守るために行ったに過ぎない
と自己弁明を行った

しかし、彼のその言い分は受け入れられなかった
ものをわきまえた個人の判断というものが、人としてあるのではないか
それこそが人間(のあるべき姿)との理屈で、命令に従ったのは支持していたと判断される
そのような人と一緒の世界に住みたくはない、、、との理由で、彼は死刑の判決を受けた
(多少、ニュアンスは違うがおおよそこんなイメージと理解している)

公務員は法的に業務上の上司の命令に従わなければならないことになっている
だが誰でも想像できるように、法定スピード以上で走れ!
という無茶な上司のドライバーに対する命令は聞かなくても良い
そこには常識としての個人の判断がブレーキ役を果たす

だが、もう少しデリケートな問題となると、個人としての公務員はどのような判断をすべきかは
一気に難しい問題となってしまう

数年前、あまり経験しないほうが幸せな行政訴訟というものを経験した
市長に対して、「庁舎建設予定地以外に物件に支払われたの移転補償費の返却」を求めたものだ

裁判前の市議会の一般質問の時点では、該当する部署の部長は人事異動で変わっていた
新しい部長は事情をよく知らない
そこで前の部長の話を聞くこと、資料を受け取ることで、共通の連続した考え方を引き継ぐことになるのだが
問題なのは人として(個人として)前任者の行い・判断を無条件に受け入れるのが良いことか、どうかという点だ
常識な判断力があれば、この一件はおかしい!と感じても不思議ではなかった(そう感じさせる証拠があった)
しかし、彼は市側の不自然な行為をかばい続けた

この裁判は「疑われても仕方のないような経緯がある」ことを裁判所が認めて
いくらかの解決金を市長が払うことになった

自分が気になったのは、裁判に勝つとか負けるということではなくて
個人としての公務員は、自分が疑問に思ったことを自分を抑えて無理筋の理屈に
従ってしまうのだろうかという点だ
組織を守るとまではいかなくても、前任者の顔を潰すことはしまい、
市政の連続性が何よりも大事との判断が
フッと浮かぶ本当のことはどうだったのか?といった疑問より優先するとしたら
現実的だとはいえ、少し悲しく思えてしまう

最近の官僚さんは、個人の判断は全く行われない
国家公務員法の業務上の上司の命令に従う、、という条文に支配されている
(だから、直接の上司である内閣とか大臣の命令に従ってしまう)

話は飛んで、個人としての人格
この扱いとか考え方が、日本と欧米とは少し違っているのではないのか?
最近、そんな気がしてならない
(欧米は日本と比べて、個人には責任を伴った判断力があるものとしているような)

前川さんが官僚は面従腹背と言ったのは、今更ながら、納得してしまう

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「代表制という思想」を読んで

2021年03月13日 08時27分18秒 | 

200ページほどの本で、簡単に読めると思っていたが
思いのほか読みでがあって付箋を付けておくところも多かったのが
「代表制という思想」早川誠著

ざっと読んで印象に残ったというだけで、そのままにしておくのは勿体ない本で
教科書のように何度も確認すべき本なのかもしれない

タイトルが「代表制というシステム」ではなく「代表制という思想」
というところに重要なポイントがある
人が代表制を選択し、それを使い続けるのは、困難を伴う一つの思想としている
そもそも代表制というシステム自体が、実態をよく検討してみるととてもデリケートな
危ういシステムであることがわかる
それでもそれを使い続けるというのは、一つの意志なのだ

ここでは人格を純粋化したあるべき論とか法解釈とか手続き論に終始することなく
現実に生きている人間が犯しそうな危険性をも考慮して、それでも代表制を維持する
には「努力」が必要なことを説いている
これは憲法にある「普段の努力」の一節を思い出させる

民主主義を語る際に、最近よく耳にする「熟議」も、その意味することを
ある程度のページを使い解説しているが、それは観念的な熟議とは印象が異なる
そこには
「議論の中で理解を深め、視野を広げた結果として意見が変化することを期待されている」
との一節がある
熟議は相手をやり込めることではないのだ
熟議に臨む態度としては、相手側の意見を受け入れる(従う)可能性を
予め持っていること、そのような余裕のある態度が必要とされる
しかしながら、代表は何かの代表であるという現実は、それを簡単にはさせない
こうなると、代表とされる人物の個人の判断力とかキャラクターが大きなウェイトを
持つことになりそうで、この部分が代表制を維持する際の不安定部分となる

読んでいると今まで疑問に思っていた事とか、なんとなく感じていたことが文章化されていて
なるほど!とか、やっぱり!という箇所が多くて本当に参考になった
ただこの内容が頭に定着するにはもう少し時間が必要な気がする
知らす知らずのうちに幾多の情報が整理されて、自分のものになるのは
(本を読んだことさえ忘れるくらいな)あとどのくらいの時間が必要なのだろうか

この本は2月のYoutubeで#choose大学「政治とは何か?」代表制から考える政治ー代表制民主主義ー
講師:網谷壮介(政治思想史研究者)の最後の回で紹介されたものだ

この本を選んだのは、いい選択だったと感じている

 

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新城市はピンチか?

2021年03月12日 10時14分18秒 | 市政、市議会に関することなど

2015年に住民投票、2016年に市長リコールの話題のため、2年連続してテレビの取材のため新城市を訪れた
元タレントの春香クリスティーンさんは「新城市は今ピンチなのですか?」と市長に屈託なく尋ねた。
それに対して市長が何と答えたかは覚えていないが、この問だけは妙に心に引っかかって覚えている。

新城市はピンチだったのか?(今もピンチなのか?)
その頃と、それ以後今までの出来事を並べると判断できるかもしれない。
それらの一つ一つは、新城市だけでなく他の自治体でもよくあることの一つで、大した問題ではないかもしれない。
しかし、こうして改めて問題を並べてみると、無邪気によくあることと眺めているだけではいられない。

●産廃問題(買い戻し特約と条例施行前の許可申請)
●道の駅 「もっくる新城」の膨大な金額の見積もり違い
●新庁舎予定地以外の移転補償費問題(行政訴訟にまで発展した事件)
●市議会議員の関係する企業が当選後、急に市の受注が増えたこと(政治倫理審査会が開かれることになった)
●市議会議員が中心となった地域自治区活動交付金の正当でない受給とその返却
●政務活動費の不正使用の疑い(行政訴訟にまでなった案件あり)
●新城名古屋高速バスの減価償却費についての疑い(現在行政訴訟中)

議会関係では
●議会運営委員長の不信任案の可決
●6人の議員の問責決議案可決

こうして眺めてみると、ずっと問題はいつも起きている
(その一部は本質的には単なる喧嘩に過ぎないと言えないことはない)
ただこうした事実は、多くの人の知るところではない
上に挙げた事柄をどれだけの人が、他人に説明できるくらい知っているか?
といえば、圧倒的に少数者しかいない

なぜ、知らないか?
そもそも知る気があるのだろうか
と、根本的な疑いすら覚えてしまうが、こうしたことは新城に限らず
どこでも見られることかもしれない

もし知ったならば、ぼーっと生きてんじゃなかった!
と自覚するに違いないと信じたい身とすれば、なるべく多くの人に実態を
知ってもらいたいと思うが、現実にはこれがなんと難しいことか

いずれにしても、自分たちの問題は自分たちで解決するしか無い
どのようにすれば、自分たちの問題として捉える人が多くなるのだろうか
(上から目線と、意識高い系の説教気味の広報は、きっとよくないと思うが)






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繰り返しの音楽

2021年03月11日 09時12分29秒 | 音楽

最近興味を持って見ているYoutubeにビートルズ絡みがある
その中に繰り返しが曲の大半を占めている2つの曲が取り上げられていた

一つはアルバム「アビーロード」のA面最後の曲「I want you(she's so heavy」
あの突然の終わり方にびっくりする音楽だ
太いベースの音形の上で繰り返しが幾度と続く
だんだんノッてくる感じで奇妙な興奮を感じる曲だ

もう一つはお馴染み「Hey Jude」
ライブでは定番となっているみんなでコーラスするやつだ
ライブばえすることより自分はポール・マッカートニーの叫んでいるだけの
アドリブがとてもおもしろくて、いつもすごいな!と感じたものだった

ポールはアルバム「ラム」の中でも「モンクベリー・ムーン・ディライト」
という曲でもスキャットのアドリブで繰り返しを行っている
これも、この部分が大好きだ

そこで同じようなのが日本の曲の中にないかな!
とあれこれ思い出してみると、2つ思い出した
一つは人間なんて 吉田拓郎


人間なんて ララーラ ラララ ラーラ
これが何度も繰り返される
これもライブばえしそう
動画は妙な熱気がある

もう一つは、サザンオールスターズ - 勝手にシンドバッド
ララー ララララ ララーラ
が何度も繰り返される
これも徐々に熱を帯びてきて、面白い

これらの曲はビートルズ影響を受けているのか、それとも曲の自然な流れなのか
いずれにしても、繰り返しでも飽きないのがすごい

最近の女の子のグループの曲の中にも繰り返しがあるようだが
それはなんかつまらない、、と感じてしまうのは
歳のせいか、それとも打ち込みの音楽のせいか、、

ということで、いろいろ感じたり、考えたり、、

 

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それは事実と違う(住民投票とリコール)

2021年03月09日 08時11分59秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

地元新城市の話題(ダラダラと長い)

あのような発言がテレビ中継され議事録として残されると
それだけを見聞きする人は、それが事実だと思いこんでしまう
ところが、当事者とか関係者からの視点で同じ内容が語られると
それは一気に事実のニュアンスは変わってしまう

昨日行われた新城市議会での一コマのこと

今朝の中日新聞にも掲載されているが、穂積市長は今期の任期をもって
市長職を全うし、次期市長戦には出馬しないと公言した

この内容を早くから知っていた議員も、全く知らなかった議員もいたようだったが
午後に行われた山崎市議の一般質問は、穂積市政16年の振り返りを聞いたものだった
しかしながら、この一般質問は酷いものだった
そのことはここでの問題ではないので、いつか別の機会にするとして
この振り返りの際に、穂積市政の汚点として住民投票とリコール問題が挙げられた
その2つの点、住民投票とリコールについての市長の発言(答弁)が
あまりにも肝心なところを省いたもので、違和感を覚えるものだったので
当事者サイドからの情報も合わせて残しておきたいと思わざるを得なかった

まずは住民投票について市長の説明では
3.11の大震災以後、物資の高騰があり、このままでは予定通りの金額で
計画が進まないことが懸念されるので、住民投票を行って市民の声
(このまま進めて良いものか、見直すべきか)を聞いてみようとの意図で
住民投票が行われたとしている
こうしたまとめ方は、どうやら公式な見解として既に文書として残りつつあるが
現実はかなり違う

ここでややこしいの2015年に新城市で行われた住民投票は、それを実施するために
3つの方法が試みられた
1.新城市独自の常設型住民投票条例によるもの(市議会の議決を必要としない)
2.  地方自治法による住民投票(市議会の議決が必要)
3.議員提案による住民投票

そもそも住民投票は、人口減少、高齢化が加速度的に進む新城市に
計画にあったような豪華な庁舎は本当に必要か
身の丈にあったものとすべきではないのかといった主婦目線の素朴な思いから
見直したほうが良いのではないかとスタートしたものだった
そのための方法として、できたばかりの新城市独自の常設型住民投票条例に沿ったもので進めようとした
この条例では有権者の3分の1の署名があれば市議会の議決を待たずに住民投票ができることになっていた

住民投票訴えた代表は手続きに沿って事務的に進めていったのだが
これは思わぬところで停滞を招いてしまった
それはこの独自の住民投票条例には実施規則というものが存在して
「住民投票をするに値する問題か否か」を市民自治会議で話し合う事になっていた
その返事を待って署名活動に移るのだが、市民自治会議は非公開で行われ、想像以上に時間がかかった
もたもたしている間に新庁舎の実施計画に進んでしまうのではないかと恐れた代表者は
この常設型の方法ではなく議決を必要とする地方自治法の手段に切り替えた
今度の署名集めは所定の書類を提出すればすぐに署名活動ができる
ただし、署名数が少ないと議員が重要な問題ではないと考えそうなので、署名はなるべき多く
リコールが成立するくらいの署名を目標とした
その署名は短い期間で多くの数を集めて、議員も市長も少しばかり驚くこととなった

この年は県会議員の選挙があり、署名活動は一旦中休みをしなければならなくなった
そこで急遽登場したのが、議員提案による住民投票案で、住民投票を行おう!
という点までは、トントン拍子に進んでいった
ところが、そこで出てきた住民投票の選択肢がとんでもなく酷いもので
一般人には何がなんだかわからないものだった
このとんでもなく酷い選択肢は今でも怒りを覚えるもので、その選択肢は
「市道東新町桜淵線の変更を伴わない現計画の見直し」
「市道東新町桜淵線の変更を伴う現計画の見直し」
の意味不明のものだ

結局はこの意味不明の選択肢が後々まで影響する

住民投票はこの議員提案によるもので実施され、その結果「行政側の計画は見直すべし」
との判定が下された
だがいつまで経ってもくすぶるのは、意味不明な選択肢の解釈

そうこうするうちに、住民投票を求めて縮小案を提示していた市民と行政が一同に会し
実務協議という当事者同士の会議が行われることになった
これは全部で5回(4回?)行われたが、話は平行線のままだった
市民側は自分たちの提示する案で行えばできるはずだ
不完全な部分は専門家の知恵を借りればクリアできる、、と考えた
ところが行政はいきなり新聞に「市民案は不可能!」と情報提供した

いったい実務協議とは何だったのか?
市民団体は行政に実務協議での問われた不備な点を訂正し
これではどうでしょうかと提出した

その返事はいつまで経っても返ってこなかった
ほったらかしにされている間、市民団体は市内の各会場で
こうすればできるはずだ!と市民案の説明会を行った
そこには市の関係者はきていなかったし、質問もなかった

時間が経過するうちに、また新聞で急に
「新庁舎は4階建て7000平米、40億」との記事が掲載された
行政が情報提供したものがそのまま掲載されたのだが
この時になって初めて市民団体に行政から
「あなたたちの案について2,3聞きたいことがあります」
との連絡が入った(場所時間を指定して)
「新聞発表までして、今更市民の案を聞く気もないのになぜ?」
と思うのは当然のことだ
後日行政との対面した時に起きたことは当事者しか知らないことで
市長が「市民団体が勝手に席をたった」(そしてリコールに繋がった)
という昨日の発言とはこのことだ(ただしニュアンスは違う)

市民側は行政から出された質問には文書で答えるようにしていた
そして、当日その会場に出かけると、そこにはメディアの方々が、、
当日は行政サイド(市長サイド)からすれば、市民案の不備な点をついて
それをメディアの前で明らかにできる!と思ったのではないか
市民側とすれば、今までほったらかしにしておいて、新聞発表までして
そのあとで、最後に市民案の不備をつくダメ押しの機会のために設定した
と想像したので、質問に対する答えを渡したままその席を立ったというのが本当の経緯だ

この行為は相当市長の癇に障ったらしく、この直後の12月議会の冒頭に
テレビ中継のある(いつもは行わない)「行政報告会」が急遽行われた
そこではこれまでの経過やら、そこで起きてしまうことになりそうなリコールについて
どこか感情の高ぶった様子で対応していた

段取りはきちんと踏んでいると行政はそう答える
しかし、実体となると必ずしもそうではないことが実感として刻まれることになったが
今回の市長の「住民投票」と「席を立った」についての発言は
視点を変えると違った風景となるということ

こんなにダラダラと長いものは読む人がいないと思われるが
一次資料として残しておこうと思う(いつか役立つ?)

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「政治と報道」(上西充子)を読んで

2021年03月07日 08時46分40秒 | Weblog

通販番組の定番的な表現に「気になるお値段」がある
「気になる」は、まるで「値段」の枕詞のようになっている
このようなあまり考えずに当たり前のように使っているものに
メディアの表現もあるのではないか、、、と問題提起しているのが
上西充子氏の「政治と報道」だ

帯のコピーにもあるような半ば定番化した表現に「野党は反発」「決定打を欠いた」
「与党はかわした」「安全運転に徹した」といった言葉を、この本では
それは実態と違っている言い方ではないか!と丁寧に取り上げている

例えば反発を反論と変えるだけでだいぶイメージが違ってくるし
決定打を欠いたというのも、単に政府が真摯に答えないだけの場合が多く
どちらに責任があるかといえば、圧倒的に答えないほうが悪い
これは国会中継を見ていれば、余程のことがない限りそう感じる

だが国会中継を丁寧に見る時間がなく、編集された報道を見るだけの人は
これらの表現でもたらされる情報を頼りにするしかなくなっている
これらの定番化した表現のもたらす弊害をメディア自身が感じているのか
あるいはある意図をもって行っているのかは大いに問題とされるべきだ

世間ではスッパ抜きを連発する週刊文春の報道を、驚きと怒りをもって知ることになっているが
なぜ週刊文春だけがこれが続けられているのか
なぜ大手のメディアはそうしたネタを報道できないのかといったことは疑問に思える
週刊文春の記者が独自に努力していることはさておいて(大手メディアもひとりひとりは努力している?)
そこには違和感を感じるべきところを感じないままでやり過ごしを常態化した大手メディアの様子が
紹介されている

その例として「桜を見る会」の問題が挙げられている
大手のメディアは「桜を見る会」に費用は、最終的には当初の予算を超えている傾向は気づいていた
またそれに違和感を感じられてはまずいと思ったのか、予算事態を急にアップして提出された事実も
分かっていた
おまけに、桜を見る会の現場には多数の芸能人やら著名人が参加していて
企画した関係者の中には「この会の目的がだんだんわからなくなっている」
との声があったのも耳にしていたようだ
テレビ局、新聞社はその会の様子を風物詩のように報道していた
普通なら違和感を感ずるべきところをルーティンワークとしてこなしていた

これに違和感を感じていろいろな情報を収集して問題提起したのが「赤旗」だった
この会の場合は、参加者が無邪気に参加した様子をSNSにアップしていたので
会の様子がどんな雰囲気のものだったのか、どのような人が招待されているのかが
分かってしまうことになり、それを赤旗の関係者は丁寧に収集し、それが国会での
田村智子氏の質問につながった

この質問は大きな衝撃を与えた(メディア関係者にも)
普通なら大手メディアも後追いをすべき報道と思われたが、当初はそれほど後追いを
する気ではなかったらしい
それがツイッター上で大問題としてトレンド入りする段階になって
メディア人としては恥ずかしい(?)後追いをすることになった

それから先の話は多くの人が知るところとなるが、一番の問題は大手メディアは
違和感を感じていなかった(感じていても何もしなかった)という点だ
メディア人はいつかすっぱ抜きをしたいと思うような人たちの集まり(と勝手に思っているが)
そのためにはオフレコの取材を、対象者と仲良くなってすることになる
このオフレコの取材は記者会見と違って記録に残っていないから
悪意あるいは特別な意図をもった人物は、嘘ではないが勘違いさせるような情報を
そっとお話するなんてことは考えられる

話は飛ぶが最近の例では、例の7万円以上の飲食接待を受けた山田真貴子氏について
田崎史郎氏はテレビ番組の中で、彼女はあの時病み上がりで多く食べられないし
お酒も飲めない状態で3万円分くらいした手を付けていなかった、、と発言した
しかし、この発言には自分は違和感を感じた
まずはこの情報はどこから掴んで、それを公表する意図(目的)はなにかという点だ

これが先程のオフレコの取材につながるのだが、誰も知らないかもしれない情報を
ある人からそっと伝えられる
その情報は、今回の場合は山田氏を少しばかり心情的にかばう効果があると想像される

仮にこれによって多くの人に同情の感覚をもたらしたならば、ぼそっとこの情報をした人は
ほくそ笑むかもしれない

報道はこうしたことが起きる可能性があるので伝えること、伝えないことを
意識的に区別していかなければならないと思う
特に注意を要するのが「〇〇さんはこう言った」と一見事実を報道しているような
ストレートニュースという類だ
その発言内容が事実と違っていても、〇〇さんがそう言ったのは間違いないから
平気で無批判的に報道してしまうのは、少し考えものだ
実際のところこの手の報道で自分たちも困った経験をしたことがある
(新城市の新庁舎建設に関する実務協議の結果を市が発表したとき、行政の言い分が検証なく報道された)

ということで、最近メディアとか報道をいうものの影響力について考えることが多くなってきている
世論調査とか人気投票なども、結局のところ知名度に左右されているような気がしてならない
政治家とか官僚に批判的にもの言いするだけでなく、実はメディアに対してもの言わないと
まずいかもしれないとつくづく思う

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