少しばかり勇気とか覚悟が必要な投稿かもしれない
(そう感じること自体が問題と思うが)
どうも、わからないことがある
何故、共産党というだけで否定的な考えを持つ人がいるのだろう
そしてその数が多いのは何故なんだろう
自分の知っている共産党関係の人は、市議会議員一人と国会では小池さんや田村さんで
その人達は他の党の人と比べて(市議会では他の議員と比べて)とても真面目に
生産的な提案をしている
その提案や考えに全面的に賛成はできないとしても(予算面で)その真摯さ故に
悪意とか嫌悪感を感じることはない
そう感じるのは甘い人で共産党の何たるかを知っていないからだ
と一部の人は知ったかぶりで話す
それなら共産党の何たるか?とは一体なんだろう
一部に言われるような暴力革命を目指すから危険な思想をもつ団体というのだろうか
公安では監視団体の一つとしてオウム真理教関係の団体、右翼団体と並んで
確かに共産党もずっと昔から入っている
だが公安は監視した状況を毎年レポートとして残しているが
そこに何も危険性を感じさせるものは書かれていない
政党としての野党の立場を見据えた活動状況が善悪の偏見なしに書かれている
一般的に共産党イコール中国共産党みたいなものとイメージづけられそうだが
公安のレポートにあるように日本共産党は中国に対して人権問題に関しても
批判の意思を示している
つまりは、日本共産党をイコールで中国をイメージするのは
あまりにも先入観に依存しすぎのように思えてしまう
共産党と聞いただけでアレルギー反応を起こす人たちがいるのは現実だ
その人達に何故そうなのか?と聞いてみると
おそらく共産党だから!と答えになっていない答えを出す気がする
ならばその無条件に毛嫌いするのは何をイメージするからなのだろう
中国共産党とは、先程の例から立場が違うのは明らかだ
革命を起こした結果、独裁となったソ連のスターリンの社会を想像しているのだろうか
だがスターリンの政治体制は共産党(あるいはマルクス)が目指した社会体制なのだろうか
ハンナ・アーレントはスターリンの社会を「全体主義国家」として扱っている
共産党支配の世界になれば必然的に独裁国家、全体主義国家になるのだろうか
それが科学的な考え方というのだろうか
ところで、現在の日本の社会は本当に自由主義国家のなのだろうか
一部の不安を覚える人たちは(自分もその中に入ってる)現在は独裁国家に
なりつつあるのではないかと感じている
(一部の人団体に利するようになっているので)
一般の人がそれに気づきにくいのは、手続きが一見きちんとステップが
踏まれているように思えるからだ
(最近では選挙により合法的に独裁国家になる国が増えつつあるらしい
それナチスと同じだが)
だがもう少し注意してみると、そのステップは本当にきちんとした手続きを踏んでいるだろうか
選挙において国民の判断材料となる国会審議の場で、ちゃんとした資料とか答弁は
政権からなされているのだろうか
また批判的に眺めるのがその役割の野党に対して、メディアが「反対ばかり」との
メッセージをそれとなく報道するのは、本当に正確な情報提供なのだろうか
マスゴミと悪口を言われるくらいの実態が現実にそこに存在しないだろうか
(戦前戦中のマスコミは本当に勇気と覚悟がなかった)
みんながそれとなく思っていることに疑いもなく自分の考えを合わせて安心する
オルテガの大衆の定義だが、「そもそもみんなの漠然と思っていることは正しいか?」
と考える癖はこの国の人はできているのだろうか
何かを知ると不安は大きくなる
それは杞憂なのか、それとも妥当な想像なのか
それは結果でしかわからない
だが、未来は想像したものの実現という形でしかならないものならば
より良い未来のためには不安は取り除いておきたいと思う
共産党はネームングで損してる!
という人もいるが、確かにそんな気もする
何れにせよ、多くの人がイメージではなく実態を知って
自らが判断するようになればいいと思うこの頃
この場では、何が言いたいんだか!と纏まらないことが多いが
同じように、聞き手には意図が解りにくい音楽家に
大好きなブルックナーがある
同じフレーズの繰り返し、急な曲のイメージの転換、金管の咆哮
女性好みの美味しいメロディというよりは、どこか哲学的なものを感じさせる旋律
(8番の第三楽章の第2主題、9番の第三楽章の寒々とした主題)
初めて聞く人は、彼の音楽はどこに向かっているか解りにくい
だが、それは自分のパターンとそっくりではないか!と不意に気づいた
何故ブルックナーが好きなのか?を思うと、この纏めきることのできない
情けないところが自分そっくりと感じているからかもしれない
ちょいと思いついたり、思い出したことに気分が支配されて
本来は主題的なものではないことに、つい音符や文字を費やしてしまう
これらはある面では考え中のところを、まとまらないまま無責任に
形にしているからかもしれない
ブルックナーも初稿版の演奏を聞くと、まだまだ煮詰まっていない印象を受ける
少し前、「難しい本を読む方法」を解説した本を読んだ
(ここでの難しい本とは哲学的・社会学的・経済学的・心理学的なもの)
そこでは、そもそも何故その本が難しいか?が、うまく説明されていた
解説者は曰く、それは本の著者自身が書きながら考えているからで
そのために言葉の意味、概念は一定しておらず
他者にはスッキリと理解できないとしていた
なるほど、それはあるかもしれないと納得する
だが、この難しい原典とそれをスッキリと解説する本を読みくらべると
読んでいる時の迫力が違う(受け取る印象が違う)
原典の方は、著者が書きながら、のたうち回ってる、格闘している、、
といった思考の過程を感じることができ、それは自分が初めての山に登っているような気分だ
それと比べると、解説書は案内付きで山に登っている感じだ
どちらのほうが読んでて面白いかといえば、苦労しても原典の方が面白いと思う
だが難しい本を読むには体力・気力が必要だし、視力もそれなりに必要だ
また自分が何かをアウトプットするには、ボケないことが必須だ
でも探しものの時間がますます増えてくる昨今、いつまでもボケないでいられる自信は
ちょいと怪しいかも、、
やっぱり何が言いたんだか!となってしまった、、
仕方ない
田舎にいて何の取り柄もないが、それでも不安で仕方なく
焦りに似た気持ちで、情けないことにたいした行動はせずに
ただ本を読んで、ますます不安を募らせている
先日の選挙を終えて急遽手に入れたのが「プロパガンダ」
最近の(自分にとって)奇妙な世間の雰囲気は
メディアの伝え方に問題はないか?と、つい勘ぐってしまう
実は選挙前は保守の重鎮バークの本を読み始めていた
保守陣営には有名な本で、読み始めると確かに「なるほど」
と思えるところはいくつか出てくる
彼に言わんとするところは、「急激な理性のみによる変化は好ましくない」
ということで、フランス革命はイギリスの名誉革命とかマグナカルタ
のある社会と比べて、混乱を招いただけでないかとしている
ところが歴史では習ったはずの名誉革命とかマグナカルタは
どんな内容だったのかがすっかり頭から抜けてしまっている
本を読むということは、その本だけでは完結しないとつくづく感じる
そして書き手の育った環境(国とか階級)は、考え方を決めるもので
バークはやはりイギリスの社会のほうがフランスの社会よりも
良きものと思いたい気持ちがあったような印象を覚えた
自分のかつての立場からフランス革命を否定的に見たのが保守のもうひとりのトクヴィル、
彼は貴族の階級の人で、フランス革命によって少しばかり悔しい思いをしたので
つい否定的になる気持ちはわからないでもない
この本はなかなか面白いのだが、途中で読むのをやめて「プロパガンダ」に移った
この本は考えようによっては怖い本だ
人は知らずしらず説得されているかもしれない、、、
その現実を、本当に幾多の例で明らかにされる
先日は本質に関係のない裁判のところをここで取り上げたが
今日は「事実もどき」と題された部分に付箋をつけることになった
「事実もどき」とは、今でいうフェイクニュースと言い換えても
大きな間違いではないかもしれない
この本では「事実もどき」(フェイクニュース)が伝搬する様とか
その効果に警鐘を鳴らしている
「事実もどき」(フェイクニュース)は、真実かどうかを確かめる試みはほとんどなされない
噂やゴシップは友人から聞くことが多いが、その友人に疑問を挟むことはまずない
テレビなどのニュースはそこある日常で、報道された事実の正体をわざわざ暴こうとはしない
「この事実もどきは本当に真実か?
この事実もどきが繰り返し述べられることで誰が利益を得るのか?」
という疑問を発することは滅多にない
事実もどきが事実かどうかを確かめようにも、それは困難な事が多い
たいていの噂は「極秘情報」「秘密の陰謀」「選ばれたものにだけに分かる知識」を扱っているので
批判的に評価したり詳しく知ることは無難しい
(この国の政治の評論家は、彼だけが知っている情報を専門家として口にするが
それは本当に真実かどうかは、受け手は判断のしようがないのでつい信じてしまう状態のこと)
次に、メンタル面を取り上げている
「事実もどき」(フェイクニュイース)は心理的欲求を満たしてくれる
多くの「事実もどき」はとても面白く人々の興味を惹きつける
(これなどは最近の小室圭さんと真子さんの例を思い浮かべられる)
ここでは人々のあまり好ましくない心理的欲求をより満足させる方に
「修正され精緻化される」としている
そしてここからが困るのだが、このような背景を経験した人々は「説得される」
たとえ噂は信用され、拡がってくと人はそれによって自分の社会的世界を作り出していく
たとえ「事実もどき」が誤りであっても、それは依然として人々の注目を集める
そして知らないうちに説得される
このように、人はコントロールされつつあるかもしれない、、
と考えることは重要なことと思われる
ただし、その社会的に拡がってしまった体制とか制度に真正面から立ち向かうのは
とても困難が伴うと思われるので、現実的な対処は
少なくともプロパガンダ(あるいはメディアを通しての情報発信)は
ある意図を持って行われているかもしれないと、個人個人が自分たちのために
一旦疑ってかかる癖をつけることだと思ったしする
それにしてもいつも思うことは、日本にこの手の本(全人格的な視点からの本)は
何故生まれないのだろうかということ
それは自分が知らないだけなら良いが、そうでないとしたら、、
またまた不安が大ききなっていく
「人は食べたものからできている」は味の素のキャッチコピーだが
読書シーズンの今、この言葉に一言追加して
「人は食べたものと読んだものからできている」としたものをどこかで見かけた
読んだものは忘れてしまっていることが多いが、それでもこれはそのとおりだと思う
先日読み返した「近代の超克」の中にも、
本を読んで忘れて、また読んで忘れてを繰り返すと蓄積された何かが
性格に通じる影響を与えるようになる、、といったニュアンスの文章があった
ところが残念なことに、自分は本質とは関係ないところが妙に記憶に残っている読み方が多く
最近読み始めた「プロパガンダ」ではこんな文章が強く目に入った
キケロの貢献の一つは、アリストテレスの非技術的検証という概念を発展させてスタシスすなわち、問題の地位の理論を確立したことであろう。弁士や弁護士の仕事は、ある立場に最も有利になるような状況を定義することである。たとえば、来談者が殺人罪で訴えられたとしよう。最初にやるべき弁護は事実の否定である。「いや、彼はそのような罪を犯していない」。それが不可能になったら、行為の定義に挑戦することになる「彼女は確かに彼を殺したが、謀殺とは違う」。それでも駄目なら行為の質に疑問を呈する。「そのとおり、彼を殺した。しかし、それなりの理由があり、情状酌量の余地がある」。万策尽きたら、当該の裁判所にはこの事件を裁判する権利がそもそもないことを主張する。「この法廷には、女王を裁く権限はない」。おそらく読者の方々は、キケロの勧めるやり方と現代の法廷での発言が共通していることに気づくだろう。
裁判といえば「正義の元に、○か✗か」の白黒をつけるものと思われ勝ちだが
少しだけ行政裁判の経験をした者の見方は少し違う
裁判は「戦いの場」だ
弁護士は依頼主のリクエストに答えるべく勝つための方法を考える
その中には論点をそらす、、とかもありそうで
昔読んでうっすら覚えている「弁護士ベイリー」という本でも、
論点をそらすことによって依頼主の勝利(または罰の軽減)に至ったことが書かれていた
こうした例はアメフトだったかプロバスケットだったか忘れたが
黒人選手が妻を殺したことで裁判が起きた時、その裁判の争点は殺人の事実認定ではなく
何か全く別の人種差別の問題にすり替えられて、彼は無罪を勝ち取った(と記憶している)
と言っても、裁判の話が今回のテーマではない
便利な言葉という道具は、実は現実には多様な解釈ができるという困った側面もある
そこで厳密な言葉の定義をしようと試みるが、その定義にしても、想像力たくましい人には
次々に疑問とか、現実社会を考えるとそれで進めていいのかと疑問を思い浮かべる
だが、いつまでもそもそも論に留まっているのは現実的ではないので、ある時点で妥協せざるを得ない
そしてそこには専門性が必要という自体が生じる
この専門性の言葉で、案外自由にできないのが裁判だけでなく議論のように思える
議論が仕事といえば議員さん(国会議員でも市議会議員でも)
この議論が本当に機能しているか、、といえば、最近は少しばかり疑問に思えてならない
議論にはそれを行うための規則があって、その規則に沿って参考人とかを呼ぶのだろうが
その参考人は議論の上で必要であっても、規則の上での賛成者の数のルールを果たさないと実現されない
つまりは議論そのものが勝負ではなく、その前(多数決)の段階で勝負はついてることになる
これは国会の出来事だが地方議会でも、似たようなことはあって
諮問されたことに関する会議は諮問された内容(例えば条例の制定)を
「そもそも必要か?」という立場からは会議の目的とは違うので議論されなくなってしまう
もう少し現実的な話の例では、新市庁舎の建設計画の時、住民を集めて意見交換をする機会が設けられた
そこで住民が「そもそもこんなに大きな建物は要らないのではないか?」と発言すると
「いや、今回の集会は新しい庁舎にどのような機能を入れるべきかを聞くためのものです」
と言われて、それ以上の追求はできなかったという話がある
確かに、情報も知識も少なく、広い視野で考える癖のない一般人が、専門性を有する問題に
的確な参加はできるとは限らないかもしれない
だが、それでもある程度の常識的な視点での何かがないと、専門家だけの世界の
もしかしたら歪なものになってしまいそうな気もする
ということで、例のごとく何が言いたいんだか、、(最近少し苛ついているので)
それにしても、実感として「餅は餅屋」で、弁護士は良いにつけ悪いにつけ戦い方を知っている
自分らのその人は戦い上手な印象だ
だが、本当なら弁護士とは無縁の世界が良いのだろうが
「決まったものは蒸し返さない方が良い」
これを聞いたのは2回目だった
1回目は、2015年の新庁舎建設見直しの住民投票を求めて署名集めをしてた時で
既に議会の承認も得て進められている事業を、今更蒸し返すのは生産的ではない
というものだった
これはその後いろいろあって(ありすぎて)住民投票は実施され
新庁舎は規模縮小を求めた住民側の住民投票の勝利で終わった
だが結果として今建っている庁舎は規模縮小を求めた案と
従来の案との折衷案のような形に落ち着いた
(形の上では折衷案のようでも、実態は奇妙なものだった)
このゴタゴタはこのブログの「住民投票、市庁舎、リコール、市政」のカテゴリーで
その時々の感情の発露の場として残されている
「決まったものを行政は止めることはない」
と言われるが、そうばかりではないことが地元で証明された
そして2回目はホンの少し前のこと、街で出会った人が
買い上げ価格が異様に高いために裁判までに至った養鶏場の件を指して
「買い上げは議会でも承認しているのに、何を今更蒸し返すのだ」
と少しばかり怒りを込めて口にした
彼は訴訟代表者の裁判に至る行為は、単に市の損害がありや無しやではなく
被告と原告との個人間の問題として捉えているようだった
それはいたずらに騒ぎを大きくしていると認識しているようだった
「でも、この話は買い取ってほしいと言ってきても、あまりにも金額が大きいので
庁内でも検討会議をすることになり議事録が残っている
そこで話された内容は、この土地を購入しても使いみちがはっきりしていない
多分、工業団地として使われることになりそうだが、近くの工業団地は
まだ2区角売れ残っているし、景気の低迷で売れるかわからないので購入に?
と残されているんだよ」
こう説明すると少し表情が変わった
「それにね、不動産鑑定をしたんだけど、その価格を決める根拠として
参考にした土地が1箇所は地元新城、あとの3箇所は豊川市なんだよ
なんで、3箇所が豊川市?」
あれれ、自分が思っていたのとだいぶ事情が違うようだ、、、
彼の顔は興味を覚える表情に変わった
そのあと、この事業の例外が多すぎる進め方をいくつか話したが
お互い次に行くべき場所があったので、話は途中となった
だが彼は「〇〇さん(自分の名前)また店に来て!」
と言って分かれることになった(詳しい話を聞きたいようだった)
「決まったことを蒸し返す」行為はいたずらに騒ぎを大きくしているのではない
ということを、彼は理解したかもしれない
だが彼の冒頭の反応から、市民に情報を伝えることの難しさを身にしみて感じた
まずは市民が市政に関心がない
それ故に問題となっている事実を知らない
そこで説明しても、説明が長くなると面倒な気がしてきて理解する気を失う
更に、この騒動は単なる被告への人格攻撃的な戦いではないと
少しばかり市政に関心のある人の誤解を解くのが難しい、、などなど
市民にこの情報を知らせるには、各家庭に新聞折り込みが効果的と思われるが
残念ながらこの手の印刷物は折り込めない
この何十苦の中で何かをするということは、そして実質的に自腹を切って
行うということは、単なる個人間の意地の張り合いの次元とは全く違う
だがそれを理解してもらうことの難しさ、、、
でも、信じていることをするしかない
選挙は結局のところ組織力という現実が目の前にある
当たり前のように以前から言われていることだが
ここでよくわからないのが、組織内にいる人の行動で
彼らは自動的に上の人から言われてことを
何故そのまま実行してしまうのだろうということ
誰から言われようが自分には選択の自由がある
自分なら運も寸もなくそう思う
つまり世間知としての面従腹背は当たり前のこととしている
しかし、選挙結果を見ていけば自分のパターンは少なく
組織票として計上される数字は大きく裏切られることはない
何故従ってしまうのだろう
従うというよりは自発的に共感を持って同意する人もいるだろう
だが人にはいろんな考え方の指向性がある
それが一つの形に集約されるのは、それが魅力的な選択であったり
自らに利する場合だと想像される
だがそれは末端まで施されるものなのだろうか
そこには「思考停止」による判断委譲がないだろうか
自分で判断するということは、一種の苦痛を伴うときがある
例えば自分の親が重病になり、その対処の選択をしなければならない時
何を選んでも辛い選択ならば、それは自分ではなくて
担当医師のアドバイスに従うといった形にするほうが
自分が選んだ結果とするよりは心理的に安心感、言い訳をすることができる
自分が選ぶということは、責任を伴うので思いのほか面倒なことになる
とすると、そもそも人は選択の自由を望んでいるのだろうか?
と考えることもできる
日本の社会は、個々の判断よりは一種の命令によって動くことに慣れすぎていないだろうか
例えば野球では、全権は監督に任され、選手はその指示に従い
バンド、ヒットエンドラン、盗塁、敬遠などを行う
そしてそれに違和感をもつ選手も応援団もいない(結果に対しては文句が出るが)
野球というスポーツ自体がそうした傾向をもつのかもしれないが
この命令に従って行動をするというのは、日本人が好きな行動様式なのではないか
おそらく、このあたりが西欧の「個の確立」がしている人たちとの違いのように思えてくる
詳しい内容は忘れたが、日本と西欧では個人の責任については追求され方が違うと
いうことを聞いたことがある
例えばアイヒマンのような行動を起こした個人に対しては、日本では
「命令に従っただけだ、やむを得なかった、自分がしなければ他の誰かがした」
という弁解を一部認めて、責任は命令したものにあるとされやすいらしいが
西欧では、「あなたは個人として、それがどのようなことを引き起こすか
またその良し悪しも想像できたはず」
として個の責任を曖昧にはしないらしい
(これはうろ覚えなので少し違っているかもしれないが、だいたいはこんな意味合いだった)
ところで、組織票の上からの伝言は、「支配」なのか
それとも影響を及ぼすに過ぎないことなのか
この部分はマックス・ウェーバーが面白いことを言っている
支配とは、一定の内容をもつ命令に対して特定の範囲の人々の服従が得られる可能性が存立していること(ヴェーバー、M.)である。支配は、「影響力」や「権力」といった概念と隣接しているが、これらから区別される。影響力と支配とを分かつ基準は、当事者に選択の自覚があるかどうかにある。影響力にあっては、事実的には、一方の当事者から他方の当事者への作用の伝播が見られるが、前者には、命令や強制の行為を選択したとの自覚はなく、後者にも、あえて受け入れたという自覚がない。権力は、支配よりも広い概念である。一方の行為者が他方の行為者の行為選択を方向づける可能性があるとき、権力が存・・541 在すると見なされる。これに加えて、服従が十分に安定的・持続的に確保されうること、服従者たちが境界づけられた集合をなしていること、これらの条件が成り立つときに、支配とみなされる。つまり、服従が、時間的にも、また社会的にも、拡大され、安定しているとき、単なる権力を越えた支配となる」
何やらわかりにくい文章だが、よく読むとなんとなくわかる
だが組織票の当事者は支配されているのか、単に影響を受けているだけなのか
残念ながら自分の生活体験だけではわからない
多分、多くの人は意識的にこのような些細なことは気にしない
時が消費されるように、個々の判断は単に消耗品に過ぎない
だがその消耗品の判断が、個人の内的なところから生まれたものではなく
他の要素から生まれてしまっているとしたら、少しばかり情けない
と思うのはおせっかいのことなのだろうか?
必然的に、この判断に影響を与える要素としての広報 プロパガンダが
気になってきたので、昨日アマゾンでポチッとしたのはその内容の本
それにしても、世の中はまるでカオス状態のようだ、、と実感するこの頃
例のごとく、まとまらなかった、、仕方ない
衆議院選挙が終わった
良いところもあれば、そうでないところも多い
この結果を受けて「日本人は変える勇気がない」こぼした人がいたが
勇気がないのではなくて、そこにはそれ以外の大きな問題が横たわっている気がする
そして、これについては、ずっと問い続けていかなくてはならないと思う(自分のできる範囲で)
おそらくリベラルの立場の人たちは、今この本のタイトルのように感じているのではないか
物事を批判的に見ていけば、そして事実を確認していけば答えは自ずと出てくるはず
だが結果はそれとは違う、なぜなんだ!
焦りにも似た感情が渦巻いているのは想像できる
そして多分一番悪いパターンの反応は、これらを理解できない人々を
「反知性主義者」と上から目線で見下してしまうことだ
確かに物事の解釈はいろんな視点があるといった次元を超えて
リベラルが訴えるようなひどいものがある(と思う)
しかし、彼らの(リベラル)の訴えは結果的に届いていない
だが、ここには一つの慢心がある
事実をたどっていけば自分たちの思う通りの世界が生まれるはずといった全能感だ
これは保守のチェスタトンの「理性のみを盲信するのは狂っている」とした考えにも通じる
自由平等博愛といった理念的な旗のもとに行われたフランス革命が
結果的に恐怖政治とか専制政治を生むきっかけなったように
人の社会は理性以外の多くの要素から成り立っている
人を解釈(理解)するには理性のみでは不完全だと思う
上に本を挙げたがついでにリベラルが読みそうな本をもう一つ
数年前に話題になった本だが、アメリカンドリームはもはや架空のものとか
格差が歴然として親ガチャにも通じる話だ
この本にあるような現状の認識をするかしないか、、で考え方は随分違ってくる
問題は基礎となる統計というものは、多様な解釈が成り立ちすぎるという点だ
よく使われる平均という物差しは実は万能ではなくて、中央値、最頻値などと合わせて
理解しなければならない
中央値、最頻値を眺めていくと、今の日本は平均で解釈される世の中よりは
もっと厳しい世の中になっていると思う
(あとジニ係数も参考になる)
話は選挙に戻って、現実の世界における選挙という戦いは
決して政策論争での勝負ではないと実感する
どんなにみっともない行為や発言をしようが、
自分たちの街からでた名前を知っている人なら
その選択が社会に対して最終的にどのような結果を生み出すかはお構いなしだ
いわば地元の「部分最適」は、社会の「全体最適」とはならないことを
当事者(選挙民)は自覚していないと思えてならない
「日本人は変える勇気がない」
については、多くの要素から出来上がっていると思う
オルテガの「大衆の反逆」リースマンの「孤独な群衆」リップマンの「世論」
山本七平の「空気の研究」フロムの「自由からの逃走」ハンナ・アーレントの「全体主義の起源」
で扱われたような個人の意識の問題の他に、個人の意識に影響を与えるメディア
についても注目しなければならないと思う
これは「太平洋戦争と新聞」「戦争と新聞」を読むと、如何に人が厭戦気分から
妙な高揚感に移り変わっていったかが分かる
メディアは怖い
メディアをコントロールすれば空気は変えられる
そしてメディアへの登場回数の多い人は、ほとんど選挙で勝ちを収めている
とはいえ、甘利さんも石原伸晃さんも今回の小選挙区では負けている
復活当選するから大きく見ればそれは大したことではないかもしれないが
それでも、小さな変化は起きている
きっと政治的な変化はハリウッド映画の予定調和のような具合にはいかない
急激な変化はフランス革命がそうであったように、反作用も大きい
しかしだからといって、変化がないのは困る
小さな変化を継続して行くには根気と忍耐が必要だと思う
問題は「それで間に合うか?」となるのだが、それは信じるしかない
今回地元の選挙区以上に気になったのが香川一区だ
小川さんがメディアを支配する家系の平井さんに勝った
これはその事実だけでなく、その選挙運動の過程がものすごく注目に値した
それは彼の演説を聞いた香川一区の人は、他所のしがらみで選択するような人たちとは
全く別の体験をすることになったと思われることだ
そしてそれは間違いなく後々まで人々の意識に影響する力をもつ
それはパンドラの箱から最後に出てきた「希望」なのかもしれない
彼のおこした小さな変化が、間に合いますように、、と切に思う
ところで現在関心ある分野の本はプロパガンダに関すること
Dappiのことも含めて、ちょいと怖い世の中になっているのではないかと不安