パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

昔の歌謡曲

2022年06月21日 17時06分48秒 | 音楽

最近のヒッポホップの音楽はさっぱりだが
古い歌謡曲もついていけない部分がある
歌詞があまりにも今の感覚と違いすぎる
だが、古い歌謡曲にも好きなものがある

古賀政男の若き日の、ある時期しか作れない名曲
影を慕いて


最近は若手の歌手も取り上げてるのを聴いた(UAとか山崎ハコ)
りんご追分 


カラオケで歌った記憶のある
北上夜曲
 

これらの曲は音楽として優れていると思う
だからこそ、古いという感じはしない(自分だけの感覚?)

歌詞が今の感覚と違いすぎると言いながら
実は音楽を聴くときは歌詞はあまり気にしていない
歌詞以外の要素でいつも楽しんでいる
だから軽薄な(?)ポール・マッカートニーの音楽も好きだ
歌詞ではあまり意味のない「オブラディ・オブラダ」も「ハロー・グッバイ」も
理由はわからないが好きだ

だが、今の音楽は本当にレベルが高いのだろうか?
まるで粗製乱造の消耗品のような曲が多すぎるように思う

若い子の大勢で歌う曲は、大勢いることを生かして
対位法的な作曲をすればいいのにとか
もっとハモる部分を多くしたりとかすればいいのにといつも思う

昔の歌謡曲の話から、今の音楽は、、、と不満に話が飛んでしまった
愚痴が多くなるのは歳のせいか、、






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時代劇がなくなった世界

2022年06月20日 11時04分00秒 | あれこれ考えること

不意に(いつものことだが)テレビ番組に時代劇がなくなって
世の中がどう変わったかを考えてみた
昔は水戸黄門、遠山の金さん、暴れん坊将軍、銭形平次などの
時代劇が当たり前のようにあった
これらのドラマは簡単に言えば勧善懲悪の物語だ
様式美とは言えない決まり文句で
見てる人にカタルシスを与える結末がいつもあった
見てる方もわかっていながら安心してそれを見ていた

だが今は時代劇はあまりない
その代わりタレントさんがひな壇に並んで、クイズとか
ひらめきを披露している番組が多い

それが日常になると人びとの心にどのような影響を与えるのか?
を想像してみた
勧善懲悪が当たり前の世界は、悪いことをすればお天道様が見ていて
いつかバツを食らうという認識を知らず識らず身につけるのではないか

時代劇には弱者に感情移入する場面もある
そしてそういう人たちがいつかは救われるように願う
こうした人として自然な感情の流れが、予定調和のような勧善懲悪で
スッキリとすることができる

最近のどこか余裕のない社会は、こうしたみんながごく自然に願う
普通に正しいことの結末を見ていないからではないか、、と思ってしまう

昔の人はもうう少し余裕があった
落語の「文七元結」でも「井戸の茶碗」でも、登場人物は善人で
その行いは馬鹿だなあと思いつつ、そうした人が存在することが
世の中に安心感を与えていた気がする
(見聞きする方も、それを受け入れて)

実際のところ、時代劇が人の道徳心にどのくらい影響があるかわからないが
それでも悪いことはアカンとシンプルに言い切る世界は必要だと思う
(刑事ドラマのような問題提起型ではなくて、今こそ勧善懲悪が必要と思う)

外国人が日本に来て一番奇妙に思えることは
日本人がなんの違和感も感じない時代劇だと思う
大河ドラマで楽しむだけでなく、時代劇のこうした勧善懲悪の世界も
見直すと良いような気も、、、
(だが、若い人は少しも面白いと思わない?)


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月曜の朝

2022年06月19日 16時56分01秒 | 徒然なるままに

月曜日の朝は、普段なら近所の子供達と校門までウォーキング
だが今朝は代休のため登校無し
子どもたちとのわずか10分ほどのおしゃべりタイムは
精神衛生に非常に良いから、それがないのはちょいと残念
それに曜日感覚がしっかり刻まれるので、ないと不安

子どもの社会でもいろんなことがある
あまり表にしたくない辛いことを隠している子がいる
自身の気持ちのコントロールが上手くいかなくて
一緒に登校できなくなった子もいる
コロナ感染の濃厚接触者の家族となったために
しばらく登校できなかった子がいる

今のところ小さな二年生の女の子は当たり前のように
手をつないで歩いてくれる
去年のGW開けは、学校に行くのが嫌になってべそをかいて
お母さんから「おじさんに手をつないでもらって行きなさい」
と言われて、それ以来続いている
でも多分これもそろそろ卒業だろう

月曜の朝は社会人にとって調子が出ずに
日曜の夕方から気分が冴えない「サザエさん症候群」になる人が多いらしい

大人の社会はこんなだが、記憶が直ぐになくなってしまう子どもたちは
せめて楽しい時間が学校にはある、、と思っていられると良いのだが



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音色

2022年06月19日 16時56分01秒 | 音楽

ビートルズの「come together」をビートルズの演奏ではなく
ジョン・レノンのライブのCDで聴くとなんだか違和感がある
どこかつまらない
普段聴き慣れているのと違うからだけではない
音楽の質が1ランク落ちてる感じだ

なんでかな?と考えてみると
それはベースの音色のせいだと気づいた

オリジナルのベースは籠もったような柔らかい音色で
雄弁すぎず、だが明らかにこの曲の印象を支えている
だがライブのベースは音程は一緒でも、音程があってるだけで表情が一本調子だ

音色というのは大事だな、、と感じた次第だが
ビートルズはコーラスグループでもある
ビコーズなどのコーラス曲は、3人の音色が似ていて誰の声か?と迷うくらいだ
そしてその同一性はとても心地よい

話は変わって以前、日本のケミストリーという男二人のグループの音楽を聴いた時は
これと全く反対で、彼ら二人の声は同質性はなく、一人ひとりが際立っていた
どちらが良いか?は好みによるのだろうが、自分は音色が似てるほうが好きのようだ
(ビリー・バンバンは兄弟なので音色が似てて気持ち良い)

男女の組み合わせもチェリッシュの音色は好きだが
ダ・カーポの音色は一人ひとりが際立ちすぎてどうも抵抗感がある

この音色はクラシック音楽でも、ドイツの音楽の金管の使い方と
ロシア(チャイコフスキー)音楽の使い方は随分違うように思う
ロシアのそれは生々しく吠える
だがドイツのそれはブレンドされている(ヴァントの演奏はそこが好きだ)

ということで、これが専門的に説得力のあるものかどうかはわからない
ただ自分がそう思っているだけなのかもしれない
でも、こんなことに気づいたり、あれこれ想像することは、、、案外面白い

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印象・評価の違い(市の職員に対する)

2022年06月18日 09時30分33秒 | あれこれ考えること

同じことでも人によって印象とか評価が大きく異なることがある
もっとも全く同じということはありえないから
それぞれが個別に判断をくださないといけないが

その同じことというのは市の職員の市民への対応の評価のこと
自分は時々、市役所に行っていろいろ尋ねているが
大体の場合、職員の一人ひとりは親切で丁寧だ
最初は少しばかり怪訝な表情で緊張しているが
そのうち、彼らの職務上の規則に縛られた判断の説明をするが
その際に不満はない
不満があるとすれば、彼らの遵守する規則が現実的か?
とか一般常識に合致しているか?
(前例主義だったり、結局は何かをしないこととか、責任の所在がわからないこと)
というようなことで、そこに不満があるが、個人としての印象は悪くない

ところが、市の職員は駄目だと辛辣に評価する人もいる
呼び出してもなかなか出てこない、、とか
対応する言葉使いがなっていないとか、怠惰だとか、、嘘つきだとか

自分の経験の範囲内ではそういう人はめったに合わないから
公務員へのステレオタイプの悪い評価は、
イメージ優先の公務員像から来ているのではないか、、と思ったりする

もっとも、どんな組織でも何%の困る人が存在するのが人間社会
自分はたまたまそういう人に出会っていなくて、
別の人はいつも貧乏くじを引いているだけかもしれない

何事も、批判的な評価をする方が専門的だとか思われやすい
音楽を聴きに行っても、ただ楽しむことに徹している人より
わざわざ問題点を取り上げて辛口の批判をするほうが、通だと思われやすい(?)

現実的なところ、出来上がった公務員の否定的なイメージは
それが本当かどうかわからないところで拡散している

そこは少し可愛そうな気もする
そんな人ばかりではないと、、

〇〇さんは騙されやすい、、と言われそうだが、
なんでも疑ってばかりは少しストレスが溜まってしまう
(甘いかな!)





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他人の評価(気になる?気にならない?)

2022年06月17日 09時53分12秒 | あれこれ考えること

食べログが評価のアルゴリズムを変更して
ある飲食店の評価が急に落ちて客数が減ってしまった
困り果てた飲食店が裁判を起こした結果
地裁では食べログ側の敗訴となったらしい

他人の評価を参考にするのは無駄な失敗しないコツかもしれないが
自分はあまりこれらを参考にするタイプではない

食べ物なんて食べてみなきゃわからないし、評価している人の感性が
自分と合うかわからない
実は、自分がものすごく美味しいと感じているラーメン屋が豊橋にある
このラーメン屋はそれほど有名ではない(と思っている)
もっと知ってもらいたいという気持ちがある反面
有名になって食べるのに苦労する(並んだりして)のは嫌だ
だからいつまでもそんなに有名であってほしくないような気がしている
(あのつけ麺は、東京で食べたものより名古屋で食べたものより数段上だった)

他人の評価に左右されないのは、ベストセラーをあまり購入しないところもある
本は売れ行きなどは全く気にならない
書店では奇跡のような出会いが楽しみで、そこに運命を感じる
音楽もみんなが良いからと言って全面的に受け入れてはいない
むしろ、耳にしたとき心に響くかどうかだけが判断基準だ

もっとも年齢を重ねているので、その感性は新しいものを受け入れないように
なっているかもしれない(仕方ない)

ということで、選挙でもみんなが支持するから投票するなんてことはない
自分の琴線にふれた人、気になる人、そうした人に投票している

だが、食べログでこれだけ問題になっている他人の評価の力は無視できない
これを思うと、投票に影響を与えすぎると思えるような
選挙前の当落予想の報道は本当に必要か?

本当に選挙前のこうした報道はどうなんだろう
確か、どこかの国は確か制限をしているような記憶がある
日本は「寄らば大樹の陰」的なメンタリティ(あるいはケインズの美人投票的傾向)
があるから、この手の報道は規制したほうが良いと思えるが、、




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ドリブルの場所

2022年06月16日 09時11分10秒 | サッカー

サッカー日本代表では三笘と伊東がドリブル突破の力が抜き出ている
だがそのタイプはだいぶ違う
伊東は速く走る能力を生かしてスピード勝負
三笘は守備側の重心等を見計らって、ゆるゆると抜いていく
問題は抜いてからのその後で、中央に出すパスは三笘のほうが
正確に出せている印象をもつ
伊東はハイスピードで抜けるため、少しばかり不正確になっているのかもしれない

このドリブルは魅力だが、問題はそれぞれが左右のサイドだということ
左右の選手は縦に行く場合、相手とは1対1になりやすい
それは中央のドリブルほど相手が多いことはない

今の日本はパス主体のチームだが、推進力という点では時には
左右だけでなく中央でのドリブルも混じえて欲しい
日本の選手の中で、中央でボールを前に運ぶことができたのは
中田英寿と本田圭佑の二人しかいない
ふたりとも華麗というのではなかったが推進力があった

この中央のドリブルができそうなのは、今は久保くらいかもしれない
堂安も左利きの良さを生かしたドリブルでカットインはできるが
中央を進んで行くイメージはない
だが久保は真ん中の位置でも仕掛けていける
ボールが足元から離れない相手からすれば嫌な持ち方をするので守りにくい
だからこそファウルが多くなり、久保は倒れてばかりの場面が多くなる

メッシが驚異的な得点力があるのは、その才能のせいだが
彼は得点しやすい場所にいることができる
つまりゴールの近くに自分でドリブルで行くことができる
ロナウドとメッシのシュートの距離を比べると、
メッシのほうがゴールに近いところからシュートしている気がする


今の代表に望むとか日本全体のチーム作りに望みたいのは
真ん中でドリブル突破のできる選手の存在だ
真ん中でボールを取られるとカウンターを食らうから
監督としてはお勧めできないかもしれないが
パスで停滞ばかりしているところを見ると
勇気をもってトライして欲しいと思ったりする
(以前は長谷部が時々ドリブルの良い攻め上りがあったし
最近では遠藤も見られることがあるが)

ということで、無い物ねだりとなるが
女子サッカーがワールドカップを勝ち取った時は
適度にドリブルがはいって推進力やスピード感があった

要はバランスとか臨機応変ということだが
それでもなあ、、と不満が残るのは最近特に多い気がする

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「やはり!」と「やってしまったな!」

2022年06月15日 11時45分30秒 | サッカー

キリンカップ 日本対チュニジア戦は0−3で完敗
半ば予想通りの面と、やってしまったなという面が見られた

予想通りなのは、南野が左サイドでは機能しなかったこと
彼は真ん中、あるいはフリーのポジションで生きるタイプで
伊東のようなサイドプレーヤーではない
それは予想されたことだから大迫のいないトップに南野をおいて
左サイドは三笘とするのもありだと思っていた

ところでサイド攻撃というものの伊東のセンタリングやクロスを
強豪国の守備の中で機能するくらいの突出したCFが日本にいるだろうか
浅野も古橋もスキを見つけて、すばしっこく得点ゾーンのはいるタイプで
単純なクロスをドカンと決める選手ではない

可能性としてもっと試してほしかったのが選ばれなかったオナイウ阿道で
彼は細かなところでは少しばかり雑だが、得点時の迫力が半端ない
それはヨーロッパの選手のそれに近い

結局のところ日本人監督は、序列が大優先で
違う組み合わせでうまくいく可能性よりも実績主義となっている
実績主義というものの、あらたなトライはされていないので
頻繁に使われない選手が実績を上げられないの仕方ない

日本のサッカーは点を取るのが永遠のテーマのようで
それは序列主義とかマスメディアのスーパースター志向の報道と
それによる弊害のせいではないかとさえ思えてしまう

相手がチュニジアより弱かったこともあるが
堂安律、久保、三笘の組み合わせの相性の良さはもっと見たかった

ところで、やってしまったな!というのは吉田のこと
最近は少なくなったが彼は時々こうしたポカをする
PKとなった守備は脚が引っかるのを察して
遠慮気味だったが間に合わなかったというところ
2点目のきっかけのプレーは全くいただけなかった
これはGKにも責任がありそうで、GKはあの時どんな指示をしていたのかおおいに疑問だ

長友もゲーム最初のプレイが上手くいかなっかたので、それを引きずるようなことが続いた
最初にミスるとリズムに乗れないのは、自分の経験からもあることで
最初は簡単なプレーから始めるというのは現実的な準備だと思う

今回の惨敗は、ある意味良かったと思うようにしないといけない
点をとれない現実、フィジカルが強い相手に対する対策など
短い時間でクリアできることではないかもしれないが、
それでも何とかしなければならない

チームの熟成と新たな力をつけるというのは両立しづらいが
本番までに何とかして欲しい

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再読モード(法学の基礎、自由からの逃走)

2022年06月14日 09時33分11秒 | 

アマゾンから品物が届くたびに同居人は
「また本?本ばっかりで、、、」
と不平をこぼす

アプリで家計簿をつけるようになってからは
それほど無駄使いはしていないはず!と自覚しているし
さほど物欲もないので「本ぐらいは!」と言い返したいが
黙って聞き流すことにしている

それが理由でもないのだろうが、最近は新規に本を購入するより
手元にある本を再読することが多くなっている

再読はなかなか面白い
最初読んだ時とまるっきり違う印象を持ったり
自分の理解の仕方は間違っていなかったと思ったり
本は読むタイミングがあって、それなりの人生経験や知識がないと
リアルに感じられないところが多いとか
読むスピードは明らかに一回目より速いが、それで理解が雑にならずにいられるのは
一回目に苦労したからかもしれない

どんな社会にあっても、その文化全体の精神は、その社会のもっとも強力な支配階級の精神によって
決定される。その理由は、強力な支配階級が教育制度、学校、協会、新聞、劇場を支配する力をもち
それによって自分の思想を、すべての人間にあたえる力を持つからである。
さらにまた、これらの支配階級は、非常に多くの特権をもっており、下層階級はたんに彼らの価値を
受け入れたり、まねたりしようとするだけでなく、彼らと心理的にも合一しようとする傾向を
持っているからである

以上はエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」一部

この部分はテーマの本質とはあまり関係がないかもしれないが
今の日本の社会を思い起こしてみると、思わず納得してしまいそうで
再読の際に付箋をつけることになった

実は再読モードはこの本の前に「法学の基礎」(団藤重光著)がある

この本はいつか読み返そうとしていたもので、内容が濃く読みでがありすぎるので
付箋を付けておいた部分だけを拾い読みしようとしたのだが、読んでいるうちに
ついつい通して読むことになってしまった

この本は本当にすごい本だ
教科書のようであり、著者のとんでもない広範な知識と法体系の全体的な理解
そして現場を踏まえた現実的な思考と、それを支える深い人間性
世の中には本当に頭のいい人がいるものだ!と驚き、
そしてこのような人がいたという事実は、とても喜ばしく思われた

その圧倒的な読後感があるので、部分部分がどうであったか、、と解説は今はできない
ただ、法は努力という行為によってその存在を保つことができるという思想に
貫かれているような印象を持つ

道徳は善を扱い、法は正義を扱う
(正義とはなにか、、平等的正義と配分的正義とかが考察される)
法の体系はピラミッドの上部は抽象的な実定法が優先されるが、その土台の部分は
自然法的なものに支えられている
法の運用によく見られる解釈主義とか判例主義は、そもそもそれだけでよいのか?
といった疑問は、裁判官として現場を経験し、少しづつ実態と合わなくなってきた部分
の修正は動的にすべきだとしている

この本は誰に読まれるかを想定しているのかわからない
法学部の人たちや、現場の法律家たちが対象かもしれない
だが、これはおそらく普通の人が読んでも面白い
こんなにスッキリと物事がまとめられていると、読むだけで頭が良くなった気さえする

これら2つ本は手元において、時々読み直すのが良いだろう
それにしても、やはり読むタイミングってのはあるな、、と実感


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久しぶりの宗次ホールと二回目のミロ展

2022年06月13日 09時27分45秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

本当に久しぶりに宗次ホールにでかけた
朝に出し物を調べると田部京子さんのピアノリサイタルとあって
当日券が有ればラッキーで、ついでにミロ展2回目を見ることして
とりあえず名古屋に向かった

やっぱり生の音は良い
音の出口がスピーカーより大きいので、空気の振動が全体的で
包まれる感じがする
プログラムはブラームス、シューベルト、シューマンの作品だ

これらの作品は初めて聴く作品だ
もしかしたら、聴いているかもしれないが間違いないのは
印象には残っていないということで
自分にとってはシューベルトもブラームスも
作曲家としてはどこか物足りなくて相性がいいとは言えない

シューマンは「詩人の恋」とか「謝肉祭」は好きなので
この二人ほどの違和感はない

生の演奏会というものも慣れが必要なのかもしれない
しばらくご無沙汰していたせいか、なかなか集中ができない
それでも楽しんだほうが勝ちということで、初めて耳にする音楽から
色々連想することに気持ちを入れ替えた
初めて聴くと演奏家の比較はできないので、音楽自体が作曲家の視点で迫ってくる
つまりは作曲家の個性とか癖がより強く感じられるような気がする

初めて聴く音楽は、まるでキース・ジャレットのソロコンサートみたいだな
と漠然と頭に浮かんだ

ブラームスもシューベルトも旋律依存の高い作曲家のような気がする
と言っても作曲技術をとやかく言えるほどの知識はないので漠然とそう思うだけ
でもベートーヴェンのようなかっちりした感じはないし、モーツァルトのような
直感的な迫る様子もない
ピアノという楽器に対する効果的な演奏アイデアも、どこか物足りなくて
モヤモヤしている感じがどうしても残る

それと比べるとシューマンは良かった
「詩人の恋」のピアノ伴奏もヴォルフのピアノ伴奏並みに雄弁で
ピアノパートを聴くだけでも楽しめるが、今回のプログラムも
前の二人に比べるとピアノの特性を発揮しているような気がした
(と素人の自分は思ったということ)

この演奏会の前に、近くの愛知県美術家で開催中のミロ展にでかけた
2回目だから前回よりじっくり見られた
ここでも変なことが印象に残った
それはミロの作品ではなく、ミロを紹介するコーナーに
ミロの工房がものすごく大きな写真があって
その工房には彼の作品が無造作に並んでいた
その落書きのような作品群の迫力のあること
まるで子どもたちが何人もそこにいるかのような雰囲気だ
彼はこの場所から離れたくないだろうな、、などと連想は広がった

前回も写真撮影の作品には遠慮なく撮影させてもらったが
今回の撮影可能なコーナーはこちら


この訳のわからない絵も好き
前回は購入しなかったミロのグッズも、少しだけ手に入れた

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