パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

それは嘘だ!

2022年06月11日 09時50分13秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

自分ではそんなに怒りっぽい方ではないと思っているが
昨晩、目にしたSNSの投稿には少しばかり怒りを覚えた

それを夜中に目覚めたときにタブレットを覗いて見つけたものだから
感情がたかぶって眠るのに苦労した(普段は眠れるのだが)

そのSNSの投稿はリコール運動のことが書かれていた
例の愛知県知事のリコールの際の不正署名を例に挙げて
彼は新城市で行われた市長リコールのときも
閲覧したら不正署名が見つかったとあった

だがこれは明らかな嘘だ
なぜなら、新城市のリコール署名は必要署名数に達しなかったので
選管が署名チェックをしたり、市民に縦覧することは行われなかったからだ
(署名書類は、選管に必要数に足りなかったが、これだけ集まったと報告し関係者が引き上げた)

「縦覧されていないものを見た」ということ自体が明らかな嘘となる
ここで怖いのは、こうした事実を知らない人は彼のSNSの投稿を見て
そのまま信じてしまうかもしれないことだ
あの愛知県知事のリコールと同じようなことが新城でも行われたと、、

当事者だからあの当時のことは記憶している
リコール署名の作業はえらく面倒で、受任者しか署名を依頼することができない
そしてその署名簿は綴じられて、一番上は受任者の資格を示すものがないといけない
署名が終わって選管に提出する時は、これもまた面倒で署名簿はキチンと整理
されていなくてはならない(通し番号をつけて)

たかだか9000ほどの署名簿を我々は時間をかけてチェックした
同じ人が勢いで書いていないか!
とか、想定される「善意の悪」をチェックした
だから自発的に無効と思われる署名は横棒を引いて消してカウントしないようにした
そして判別できないものだけを選管に判断してもらうようにした
(選管がチェックすることはなかったが)

つまりは法に則ってキチンと行ったという自負はある
だから、愛知県知事のリコールの時は、庶民が事実と違うことを勝手に連想して
キチンと行った我々の行為が汚されたような気がして、それが何よりも悔しかった

この彼のSNSにはもう一つ、自分勝手なことが書かれていた
確かにリコール運動があった頃は、リコール推進派と反対派が
チラシとか街宣運動をして街が二分されていた

リコールの場合は選挙と違って、結果的には「何でもあり!」の世界で
それぞれがやりたい放題しても罰則に至ることないそうだ
だから、反対派のチラシにはいい加減なことも書かれていた
それは、そもそもリコール運動を始めた人物は新庁舎の近くの土地所有者で
その土地を高く買い上げてもらうために、庁舎建設にも反対してごねた、、
というようなことが書かれ、そしてその庁舎近くの家の写真まで載っていた

ここでも嘘がある
チラシに載った家は推進派のメンバーの家ではなく全く別の人物の家だ
流石にいくらなんでもこれは酷い!
ということで当事者はチラシ作成人物を「名誉毀損」で警察に訴えた

だがこの名誉毀損というものは、どっちつかずの結論で終わることが多いそうだ
名誉毀損の解釈やら、それがなされた正確な日時とか、、
つまりは感情を害された、、という勢いだけでは何ともならないということだ
警察も実態はやる気のない捜査となるそうだ

訴えられた人物は警察の聴取も受けたらしい
だが受けただけでお咎めなしで、それ故に彼のしたことは悪くななかった
と今になってSNSで身内だけに都合の良い報告をしている

事実はいろんな視点から存在するものだとしても
現実は「言ったもん勝ち!」になってしまうことが多いのではないか

自分は「言ったもん勝ち!」にならないように
一次資料としての記録を残しているつもりだ

住民投票もリコール運動も何年かすれば単なる歴史上の出来事になる
そしてその歴史は、おそらく公文書的に市の整理した内容のものになる(と思われる)
その簡潔に都合よくまとめられたものが事実とされてしまうのは
あれらの運動に関わったものとしては若干の不安を覚える

こうして当事者の愚痴などを残すのは、無駄ではないと思いたい








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スマホの契約を変更した

2022年06月10日 11時37分05秒 | 徒然なるままに

妹がやっとガラケーからスマホに変更した
孫の顔もスマホなら簡単に動画で見られるし
故郷の母も声だけでなくビデオ通話もできるので
早く切り替えればいいいのに!
と薦めていたが、ようやく重い腰をあげた

今は本を購入して使い方の勉強中
時々、お試しの連絡が来る
いざ購入してみるとなんだか楽しそうな様子だ

ところで、よく考えてみたら自分のスマホの契約は
少しばかり無駄なものにも入っていないか気になった
ただでさえスマホの契約内容はわかりにくい
現在はドコモのギガライト、電話し放題、iPhoneの保証などに加入していた
(調べて再確認したというところ)

だが、最近はスマホの電話を使うことは少ない
音声通話はLineを使っているし、WiFi環境下の我が家以外で
インターネットを利用することはない

だからギガライトは良いとして
電話代は一回の通話が5分以内なら定額のものに変更してみた
そしてうっかりしていたのがiPhoneの保証など
これなどは現実的にお世話になりそうにない
スマホはドコモで購入ではなくてアップルから低価格のもの(SE)を直接購入している

ということで、2つの項目を契約変更して月額1,600円ほど抑えられるはず(予定では)
主婦がチラシを見て1円、2円の安さに必死になったり、
ポイントが多くつく日を選んで買い物に行ったりするのと比べれば
甘っちょろい節約だが、ようやく自分も重い腰をあげたというところ

なんだか妹の決断の遅さを、あれこれ言えなくなってしまった



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棋士のピークは若い人だが、あの世界は、、、

2022年06月09日 09時46分30秒 | あれこれ考えること

源氏物語にも登場する囲碁のシーン
そんなだから囲碁のほうが将棋よりも愛好者は多いと思っていた
ところが、実態はそうではなかった

囲碁は地の多さを競うゲーム
19✕19の交差点に石をおいて、囲まれた地の多いほうが勝ちとする
先手のほうが有利だから、先手は出来上がった地から6目半を引かれて
計算される

先日の本因坊戦第一局、井山裕太対一力遼ではとても珍しい事が起きた
なんと整地したところ盤上にできた地が2目しかなかったのだ
あとは全部黒白の石で埋まっている
勝負は黒がまだ手元に5つの白石があったので、黒が7目有利
6目半のハンディを引いて黒の半目勝ちとなった
地の多さを競うゲームというのになんということだ

最近はYoutubeで中継をしてくれるので、経過はハラハラしながら
リアルタイムで楽しむことができる
ところがその内容は解説者の話が理解できるほどの棋力はないので
もっぱらAI予想の確率数字をみてドキドキしてるだけだ
特にこの対局は劫が多くて素人には何がなんだかさっぱりだった
だが、この戦いの凄さだけはよくわかった

囲碁は中国ではスポーツと同じくらいの認識のようだ
棋士のピークの年齢は、年輪を重ねた経験者ではなく
瞬発力と体力のある若い人で、実際に棋士のランキングは
若手が上位を占めているようだ

日本でも一力遼、芝野虎丸、関航太郎などの若手が活躍している
女性陣も藤沢里菜、上野愛咲美、中村菫などの元気な棋士の活躍が目立つ

若い人頑張れ!
と思う一方自分ら年齢の人間は、経験だけじゃ何ともならない世界がある
という現実を思い知らされているような気がしてしまう

このように実力勝負の世界では、若い人はそれなりの地位と評価を得ている
ところが、それとは全く別世界がある
それは選挙を伴う世界
ここでは本人の実力よりは、もっと別の要素が大きな位置を占める
(家系とか知名度とか)

囲碁とかスポーツははっきりと勝ち負けの結果が出る
ところが選挙を伴う世界の出来事は、勝ち負けの評価は曖昧だ
本来は結果責任という言葉で表されることでも
言葉の定義解釈等でなんとでも言い訳ができている

その言い訳はメディアを通して広まり、違和感を覚えるというよりは
既成事実として報道される
確かにこの感じ方は野党よりの思考だが
それでも今の日本の権威主義的な傾向はどこか違っていると思えてならない

若い人頑張れ!こうした世界にいる人も!



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レコードブームのニュースが流れたが、、、

2022年06月08日 09時11分31秒 | 徒然なるままに

ここ数年、思い出したようにレコードブームというニュースが流れる
(今朝もテレビニュースで流れていた)
自分はブームになる前から、というよりずっと以前からレコードの方を聴いている
アルバムの全体量はCDのほうが多いと思うが、とても大切なのはこちらの方


何故、こちらのほうが大切で聴いているかと言えば、その音の違いのせいだ
レコードの音のほうが良いとは単純に言えないかもしれない
静寂の音はCDのほうが良いかもしれない
だが圧倒的に好きなのはレコードの音だ
何よりも空気感が違う、音圧とか楽器の音の生々しさが違う

だが歳のせいか聴く音楽は保守的になって、この中から同じものを繰り返し聴くようになっている
モーツァアルトの音楽とジャンル的には室内楽、独奏曲が多くなっている

同じ曲を繰り返し聴くから流行りの何でも聞けるサブスクは
自分にとって今は必要性を感じない
むしろサブスクの聴き方に違和感を感じている
音楽は聞き流すものではなく、ちゃんと音の対話を楽しむもの
それにはある程度の集中が必要で、音楽を聴く時はちゃんと心構えをして向かいたいし
そのほうが得るものも大きいと実感している

レコードブームは少しありがたくない
なぜなら中古レコードの値段が上がってしまうからだ
もっとも自分が購入するクラシック音楽のジャンルはさほど需要がないから
ロックとかジャズほど値上がりはしていないかもしれない

名古屋の栄にもディスクユニオンの中古レコードショップができたそうだ
普通なら宗次ホールに行ったついでに寄れるのだが、この二年間のコロナの巣ごもり
生活のせいでまだ行けていない

近いうちに、寄ってみようか
そう言えば名古屋には個性的な古本屋がある 千代の介書店
こちらも行かなくては







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ブラジル戦で再確認したこと

2022年06月07日 09時54分21秒 | サッカー

結果(0−1PKで負け)だけを見れば善戦と言えるかもしれないが
実態は超えられない壁が幾つも現れたような試合だった

よく言われることに、高速道路を降りたあとは、気をつけないと
普通の道路でスピードを出しすぎてしまう傾向があるそうだ
高速道路のスピード感に慣れて、それ普通と感じてしまうかららしい

ブラジルの選手は、昨日の日本代表との試合は普通の道路の運転だったのはないか
彼らは普段は高速道路の運転をしている
スタメンのメンバーの所属チームを見れば、それははっきりする

【GK】アリソン(リバプール)
【DF】アウベス(FCバスセロナ)、マルキーニョス(パリSG)、
    ミリトン(R・マドリー)、アラーナ(アトレチコ・ミネイロ)
【MF】カゼミロ(R・マドリー)、フレッジ(マンチェスター・U)、パケタ(リヨン)(リーズ)
【FW】ラフィーニャ(リーズ)、ビニシウス(R・マドリー)、ネイマール(パリSG)


ちなみに交代選手は
 コウチーニョ(アストン・ビラ)ジェズス(マンチェスター・C)リシャルソン(エバートン)

殆どがヨーロッパのビッグチームに所属し、チーム内の戦いにも勝ってレギュラーを確保し
いざ実戦となればスピード、あたりの強さ、技術、アイデアなどが別次元の戦いをいつも経験している
その体に染み込んだ体感からすれば、日本の選手との戦いは余裕を持っていられたのではないか

昨日の試合で頻繁に見られた股の下を通すパスとかドリブルやヒールパス
これなどは、相当気持ちに余裕がないとできない

日本の選手で対応に困るのは、こうした人の裏とか逆を取るようなプレーだ
彼らのプレーは途中でプレーの選択を変える余裕とか技術がある
日本の選手はスピードを急ぐあまり不正確になったり、相手にプレーを読まれてしまうが
ブラジルの選手は、戦いは相手との駆け引きという現実が身についている

ネイマールのよく行う跨ぎのフェイントは、同じ南米でもアルゼンチンの選手はあまり行わない
アルゼンチンは現実的に無駄のないプレーを好みがちで、一見無駄のような駆け引きのプレーは
優先度は高くない
そしてシンプルに勝利を目指して戦う
一方ブラジルはどこか「人をおちょくる」ような要素を楽しむメンタリティがある

昨日のネイマールのPKでもそうだが、GKはネイマールのPKシーンを
ビデオで勉強しているはずなのに、やっぱり裏を取られるような得点を許してしまう
そこには対戦者しかわからない駆け引きとか、それを優位に勝ち取る特殊な能力が
ネイマールにはあるのかもしれない

つまりは日本の代表選手はスピードとかあたりとかには、少しづつなれてきて
そこそこ対処できるようになってきているが、いざ人との駆け引きの部分があると
正直すぎるわかりやすいプレーで、相手は対処しやすいのではないかと思えてしまう

期待された三苫のドリブルもブラジルのDFに体を入れられて通用しなかった場面があった
あのシーンなどは、彼らは普段から経験しているものの一つとして体に染み込んでいるもので
対応できているような気がする

とはいうものの、守りはバタバタしながらもよく守れた
これで富安がいればもう少し安定感があっただろうが
問題は攻撃で、結局枠に飛んだシュートはゼロ

枠内シュートがゼロが問題なのは当然だが、攻撃のパターンが貧弱なのは相変わらずだ
サイド攻撃が有効だとしても自発的にサイド攻撃をしているというよりは
サイド攻撃をさせられているようにさえ思える
(真ん中さえ抑えておけば失点はしないと考えて)
どうも真ん中の迫力がない
(縦のパスも少ないし、相手にとって左右に散らすパスは怖くない)

サッカーは、点を取らないと勝てないと考えるか
点をとられなければ負けないと考えるか
このシンプルな問が又もや頭に浮かぶ

日本には釜本以後、ストライカーと言われる選手が出ていない
自分でシュートに持っていけて、決定力もある選手は自分の記憶にない
(一時期の三浦知良は自分で持っていけたが)

負けない試合をせざるをえなくても、それは重心が後ろになるので
カウンターを仕掛けるにも長距離のそれになってしまう
南アフリカのワールドカップのときもそうだったが、ゴールまでは物理的にも遠すぎた

結局のところサッカーはチームプレーというものの個人のレベルを上げるしかない
その個人のレベルを上げるには海外の経験が必要となるが
現在は若い人はいきなりヨーロッパに行ってしまう
だが昨日の試合を見て気づいたことは、日本人は若い一時期ブラジルにいって
相手との駆け引きを当たり前とするサッカー文化の経験を積んだほうが
いいのではないかと思ってしまった

ということで、試合に負けたあとは色々考えることがあるということ

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ウェールズ対ウクライナ W杯プレイオフ

2022年06月06日 10時11分25秒 | サッカー

いくらホームであったとしてもウェールズはやりにくかっただろう
サッカーワールドカップのプレイオフのウクライナ対ウェールズ戦

現在のウクライナの状況を知る多くの人がウクライナを応援している
対戦相手のウェールズのサポーターでさえ「今回は負けても良いかもしれない」
の声があった
会場はいつもの張り詰めた空気とは違うように思えた

世界でスポーツ大国と認められるには3つの条件があって
ワールドカップに出場すること、F1ドライバーがいること、
あと一つが忘れてしまったがウィンブルドンかマスターズゴルフ絡みだったような、、
(日本は何年か前にクリアした)

欧州におけるサッカーは日本で想像しているものと規模も熱気も違う
その熱気そのまま、予選の戦いは繰り広げられた
どのチームのストーリーがある
ウェールズは64年ぶりの出場をかけて、片やウクライナは知るところだ

こういう時は、中心となる別格の選手がいる方に女神は微笑む
好きなタイプではないがウェールズにはベイルがいる
とんでもなく走るのが速い選手で、キックも凄まじい
出場をきめた得点もベイルのFKからで、本当に何故かそういう流れとなる

実はウェールズにはもっと早い時に出場機会を与えたかった
というのはマンチェスターユナイテッドのライアン・ギグスがいたからで
彼の全盛期に出ることができたら、相当インパクトを残しただろう
(マンチェスター・ユナイテッドではベッカムよりギグスのほうが好きだった)

勝負ははっきり結論がでる(ウェールズ1−0ウクライナ)
悔しさは残っても戦った選手は、やるべきことはやったと吹っ切れるかもしれない
(でも思い出すたびに悔しいだろうな)
それでも人生は続く、、、
ウクライナの人たちは、今それを実感しているかもしれない

サッカーを応援して一瞬でも辛いことを忘れる
それは根本的な解決ではないが、人が生きていくための知恵として
こういうこと(存在)は必要だと思う

ウクライナの戦争が早く収まりますように!

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良き目的と悪しき手段

2022年06月05日 09時35分11秒 | あれこれ考えること

「カラマーゾフの兄弟」の有名な大審問官のエピソードの前だと記憶しているが
子どもが虐待を受けて、その子どもに寄り添う無神論のイワンが
熱心なキリスト教徒のアリョーシャに
この残酷な虐待を行う人物はどうしたら良いか?
と尋ねるシーンがある
アリョーシャは勢いづいて、つい
「殺すべきです(記憶が曖昧なので罰するべきですかもしれない)」
と答えてしまう
彼はすぐさま自分の失言に気づくが、イワンは
「お前がそれを言うとは、、、」
と嫌味を言う

イワンは子どもの悲惨な境遇を見れば、その状態を許している(かもしれない)
あるいは神の意図は人間にはわからないとする教義とか神の存在などは
「御免こうむる」と宣言する

プーチンが始めたウクライナ戦争
一時期、不思議な空気が当たり前のように流れたことがあった
それはプーチンの暗殺だ
ロシア国内のその兆しの有無よりは、半ばそれを期待するような空気が
日本国内にもあるいは世界の中にも(メディアの中にも)漂った
そしてそれは良い方法だとの認識も共有されたような気がする
(戦争をやめられるのはプーチンだけ)

それは条件反射的に答えてしまったアリョーシャの答えに似ている
人が人の死を願う
これは常識的には異常な世界だ
だが戦争とはそういうものだ!が現実で、
だからこそ人を狂わせる戦争は避けなければならない

ところがその方法として、一時的に一種の悪の方法(暴力的な方法)を
用いざるを得ない場合が出てくる(良き目的と悪しき手段)
それを悪の方法というか、仕方ない方法というかは微妙なところだが
それを決断する立場なのが政治家という存在


たまたま読み返したウェーバーの「職業としての政治」には
今読むと切実感をもって感じられるこのようなことが書かれていた
ひとの判断を左右するのは倫理観だが、倫理観には心情倫理と責任倫理があって、
心情倫理は自分の信ずるものに正直に従って結果は神に委ねるというもの
責任倫理は、心情倫理に基づいて行ったとしてもその結果が悪いものだったならば
それを行った責任はあるというもの

このあたりになると、言葉の限界というか
何が正しいのか良いのかがわからなくなってくる

ただ言えるのは、何事も早めに問題の兆しは摘み取っておくことだ
ことが起きてしまってからでは遅すぎる
だがその兆しを不安感を持って感じられる人が多数いるかとか
その人たちが政治的な力を持っているかは、、これまた問題だが

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ある市職員の答えは、議会答弁と違っていた

2022年06月04日 10時24分19秒 | 市政、市議会に関することなど

「〇〇さん(自分のこと)は、高速バスは利用者が少ないから反対なのですか?」
(新東名高速道路経由の高速バス事業は年間3500万円ほどの予算)
先日、別の用件で訪問した市役所で、たまたま新城名古屋間の高速バスについての話題に移って
ずっと否定的な意見を伝えている自分に対して市の職員の一人が口にした

「確かにそれもある
 利用者が少ないのはSバスもそうだけど、これには代替交通機関がないから仕方ないと思う
  でも名古屋に行く方法は電車等の代替交通機関が存在していること
 そして何よりも、このお金を別の方法に使ったほうが良いのではないか
 例えば、教育とか以前からずっと言われているトイレの洋式化とかに、だから賛成できない」

こんな話があったことを、先日の中日新聞の「防衛費でこんなことができる」の記事で思い出した
そこには大学授業料や給食の無料化、医療費負担の軽減に要する金額が掲載されて
税の使い方として政府の方針は適切なのかとの問題提起があった

自由に使えるお金が歳入の8%くらいしかない我が市の経済状況
使うものには充分気を配って欲しいものだ
(庶民の短期的な視点では気づかない点があるとしても、違和感を感じるものは少なくない)

市の職員はよく言われるように縦割りだから、他の部署のことをよく知らない
それにもまして、市議会で問題になっていることも知らないことが多い
市議会の一般質問や委員会は月曜日から金曜日の昼中で、普通の職員は日常の仕事中だ
だから答弁を書くような立場の人以外は関心すらない

現在、大ごとになりつつある給食センターの問題についても
職員は個人はどのように感じているかは庶民は知る由もない
行政が決めたことだからとして、自分たちの組織の方針を擁護するのか
それとも知らないものの強みとして、個の意見を持ってしまうのか

知らないものの強みとか自由さを感じる出来事があった
前回の市議会の一般質問では、
「ある中学校の楽器が壊れてしまって、修理とか新しく購入を求めたが
 予算がないということで、そのままにされていた
 結局、しびれを切らして該当地区の地域自治区予算で購入することになったが
 これは本来学校の教育予算で行われるべきものではないのか?」

地域自治区を管轄する部署の回答は
「それは地域の課題として捉えているので、問題はない」
とするものだった
ところが、この市の答弁を知っていない職員に
市議会ではこんなやり取りがあったと伝えると
彼はしばらく考え込んで「それはおかしい!」と口にした

つまりこの手のものは学校の予算で賄われるべきもので、
楽器の購入等が一旦地域自治区予算で購入されるとなると先例ができてしまう
地域自治区予算も差があるので対応できる地区とできない地区が出てしまう
教育の公平という立場から、、いい方法とは思えないというのだ

なるほど、市議会でおえらいさんが答えたのとは
それを知らないものの強みで自由な発言だ
そしてそれは法的なルールに従えば、、という視点でなされた解釈なり考え方で
上司への忖度がない環境下の意見だ

行政は法に縛られた存在で、話していくと
よくもまあこんなに法律(決め事)があるものだと驚く
そのために一般人がこうあるべきだ!
と常識で訴えることが通用しないことが思いのほか多い
そして、どこかむしゃくしゃした思いで引き返すしかないのが現実で
これは市議会での一般質問でもよく見られる傾向だ
結局のところ法的なことに限っては、一般人や市議会議員は職員(官僚)の
多種多様な理屈には勝てないのが現実だ

ところが、先程のように事情を知らないで忖度する必要がない場合の職員の考えは
割合、庶民の常識的な答えに近いような気がする

最近気なって仕方ないのが
職員の個人個人はいったいどんな考えを持っているのだろうか?
持ってはいけないのだろうか?
ということ

個人の意見を持つことは責任を生じるかもしれないので持たないで
上からの命令に従っている方が楽だから、ついつい従ってしまうのだろうか
(その時々によって違うだろうけど、、)

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他人事じゃないかもしれない

2022年06月02日 09時59分03秒 | あれこれ考えること

世の中にいろんな考え方があっても、イマイチ理解出来ないのが
アメリカの銃規制が進まないこと
あれだけ犠牲者が毎年のように、そして現在も出続けていても
抜本的な規制は実現されそうにない

トランプさんは学校の教師に銃の扱いのスキルアップとか
事が起きた時の対処法を準備しておくべきだ、、
といったようなことを述べている

日本のように銃規制が進んでいる国からすると
この銃には銃で対抗する考えはまるで非現実的な考えに思えてしまう

銃が悪いのではない、悪いのは銃を扱う人間だ
一見正論ぽいが、人は何をしでかすかわからない危険性を持つ存在だ
(持っているものはいつか試しに使いたくなるとか)
その危険性を考えれば、始めからその危険性を排除しておくのは現実的な方法だ
豊臣秀吉が刀狩りをして庶民が容易に武器を持てないようにしたのは
自分を守るためであったと同時に、ある程度社会を守る役目を果たしたように思う

今の日本人は、銃規制には違和感を持たないと思われるし
当然のこととも考える人が多いのではないか

ところが、これが国と国との関係になると一気に風向きは変わる
リアリストと言われる人たちは
抑止力としての武器を所有するには当然だと考える
何をするかわからない他国については恐怖心が先立って
力には力の対抗策を考え、それこそが現実的だと考える

確かにどの国も地域も悪いひとは一定数存在する
だがその数以上に人の善性を感じている人も存在してると思う
その国の誰かと知り合って仲良くなれば、その人達と戦おうなどという気は起きないのではないか

これは夢想家の一言で片付けられる可能性はあるが
その夢のようなこと(仲良くなるとか、立場による違いを知る)は
地道に行わなければならないことだ(外交努力も)

今の日本人の多くは、ロシアとか中国とか北朝鮮が実質的には独裁国家で
情報はプロパガンダによって偏っていてそれを国民は信じ込まされている、、
と認識している

だが、必要なのは、それと比べて日本はどうなのか?
と考えることではないか
日本は呑気に構えていられるほどプロパガンダに侵食されていない国だろうか?

実際のところ報道の自由のランクは低下の一途
政治報道は切り取りで実際のニュアンスと違った伝えられ方をしている
そして同調圧力に負けやすい国民性は、皆が同じ報道をしている
という理由でその報道を信じ勝ちになる
そして物事はわかりやすい半か丁かの極端な理解をし勝ちになる

そのような環境のもと、主権者としての国民は正しい判断をしうるものなのだろうか?

結局のところ、ひとりひとりがそれなりに賢くならないとヤバいと思うが
それは多分教育に繋がる
ということで現在一番関心があるのは、教育の問題と報道
この危機意識を、、多くの人が感じていないように思えるのは不安だ



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投票率の細かな調査をして欲しい

2022年06月01日 09時17分04秒 | あれこれ考えること

若者の投票率が低いと問題視されている
年代別の投票率のデータはあるようだが
これをもっと細かく年収別、学歴別、就労形態別等
ブルデューの「ディスタンクシオン」のように細かな調査をしたら
どんな結果になるか興味がある
(どこか、だれかやってくれないかな!)

投票も習慣の一つと考えると
それが習慣になっている家庭とそうでない家庭の差は大きく
「投票に関わっている時間などない」とする忙しい若者の言い分は
実は年収も学歴も就労している企業に恵まれていない状況の人たちでないか?
と余計な心配をしてしまった

いろんな社会的な問題を我が事のように感じ考える!
というのがシティズンシップ(教育)あるいは主権者教育だが、
この感覚を難なくできている人たちは、その社会的な環境を知ってみると
恵まれた人達が多い

その人達は自分たちがおかれている状況と、他とを比較でき
なにかに気づくことができる環境下にある
何かに気づくというのは天啓のようにいきなりやってくるものではなくて
違いを感じるところから始まるものだと思う
人のことを気遣う余裕があるのは人間性によるが
その人間性を育める環境とか教育は、社会的な環境に大きく左右されそうだ

親ガチャで外れたと実感している人は優先順位は
気づきとか我がことのように思うどころではないかもしれない
それはマズローの「欲求段階説」のようにまずは初期の段階がクリアされないと
次の段階に行けないかもしれないのとどこか似てる
(マズローのそれは時間経過による達成ではなくて
 単にヒエラルキーがあるとしているだけかもしれない)

つまりは勝手な想像だが、若者の投票率は政治が社会に与える影響を考えるられる人
その教育を受けている人、または実際に政治によって利益を得ている人はそれなりの投票率で
反対に低いのは政治が自分の生活につながっていると実感できない人たち
(教育されていなかったり、自分のこと以外に関心を持てない傾向があったり)
ではないか!と思う
それは結果的に、生活弱者は自分たちで自分たちを良くするというチャンスを逃して
自ら弱者の道を選んでいるような気がする

以上は単なる想像の域だが、個人的には
社会学とか政治学を扱っている大学とか
あるいはメディアなどが調査してくれないかな、、、と思う

それにしても親ガチャとか格差は、のっっぴきならぬ問題だ
(と心配性のおっさんはそう思う)





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