国別対応マニュアルのジョークに気になるものがあった
タイタニック号が沈没しかけた時、船長は乗客たちに
速やかに船から海に飛び込むように指示しなければならなかった
ただし、タイタニック号のデッキは高く、下が海とはいえ高さは
ビルの5階くらいある
この時の国別の指示が以下の通りだ
アメリカ人には
「もしもあなたが飛び込めば、あなたは英雄として称えられるでしょう」
イギリス人には
「あなたがもし紳士ならば、迷うことなく飛び込みはずですよ」
ドイツ人には
「昨夜、お国の法律で飛び込むことが決まりました」
イタリア人には
「海面には綺麗な女性がたくさん浮かんでいますよ」
フランス人には
「絶対に飛び込まないでくださいね」
日本人には
「みなさん飛び込んでいますよ」
笑えないジョークだ
自己の判断より世間の動向を気にする日本人の姿が浮かんでくる
このジョークが紹介されているのが
森達也氏著の「集団に流されず、個人として生きるには」
先週の中日新聞書評欄で紹介された本だ
日本に限らず自己責任を伴う個人の判断は意外に難しい現実が
フロムの「自由からの逃走」とかルボンの「群衆心理」を
あげて紹介されている
(フロムの読み方として自分は間違っていなかった!)
ここでは集団の判断がそもそも正しいか?
という問が過去の例をあげて提起をされている
集団はある条件下ではとんでもない決断をしうる(集団思考)
その条件下とは、
1.その集団が結束していること
2.集団の下部からの意見が通りにくいこと
3.集団が不安や恐怖などの刺激の多い状況に直面していること
日本は長引けば絶対に連合国に勝てないとの冷静な分析がありながら
欧米との戦争に踏み切った判断は、このような条件下で行われたものと思われる
個人は覚悟を持って判断するのは、その孤独と責任の重さに
耐えられなくて次のような選択をしがちとしている(フロムの分析)
自己よりも権威のある者へ絶対的に服従する
自己より弱い者や異物に対しては強く攻撃する
この本の前半部分はこうした分析で
後半部分はメディア絡みのあるべき姿とか注意すべき点が
著者の経験を踏まえて紹介されている
これらを読むと、現在のメディアの世界には不安を覚えてしまう
(メディアだけでなく、SNSでデマやフェイクニュースがはびこる世界も)
この本は一気読みできる
しかし、読み飛ばしてはいけない本と言える
上にあげた分析などは、現在の社会そのもののような気がする
(そこにちょいと恐怖を覚える)
そう感じない人はこの本を手にしないだろう
感じる人は必然のように手にすると思われる
本は一度目はとりあえず素早く読んで
次にポイントを読み返すのが良いかもしれない
二度目は、一回目の内容を案外覚えているものだ!
と実感するからで、最近はこの手を使っている
ということで、日曜日の午前は本の紹介!
昨晩も防災無線では、6月11日(日)に新城市文化会館で開催される
「どうする家康」 スペシャルトークin 新城 の見学申し込みを
促す放送があった
大河ドラマで鳥居強右衛門役を演じる岡崎体育さんと
亀姫役の當真あみさんを迎えて大河ドラマ初出演の感想や
撮影現場の裏話などが語られるこのイベントは
既に多くの申し込みがあり、楽勝で見られると思っていたが
状況は運任せの抽選となってしまいそうだ(想定外だ)
トークショーは2時からだが、聞くところによると
タレントさんは午前中に長篠城址とか市内を回るそうだ
今朝の中日新聞東三河版の記事にこんなのがあった
そうか、彼らはこれを見に行くのだろう、、
長篠城址史跡保存館は行ったことはあるが、残念ながら何も覚えていない
だが今のタイミングなら、すんなり頭に入っていくかもしれない
この記事の中に1942年(昭和17年)に上映の映画「鳥居強右衛門」のシナリオと
映画雑誌、広告も展示されているとある
地元以外ではさほど有名ではない鳥居強右衛門が映画になったのは
その時代背景があるように思われる(思い込みかもしれないが)
強右衛門のお家の大事のために献身的に尽くし、命をもかけた行いは尊いとされるが
映画にすることによって将来の戦い(戦争)に向けての気持ちを誘導しているような気がする
つまり、お家を国家と置き換えて、忠臣の尊さを過度に要求する空気を作っていたのではないか
と思われるのだ
後の時代になって当時を批評することは、公平ではないかもしれないが
その時代の空気は実は些細なものから、良いも悪いも関係なく
徐々に醸成されていくと思う
だから、気がついた人はそれに対し警告を発しないといけないだろう
新城市民としては鳥居強右衛門が注目されて
何らかの観光とか経済的な効果があることを望むのは当然だが
それでも、現在の防衛費のアップを始めとする
それいけドンドン的な風潮に利用されないかと
ちょいと危惧を覚えてしまう
それにしても、このイベントの観覧希望者は歴史よりも
タレントさん見たさの方が多いかもしれない
現実はそんなもんだろうが、結果として少しでも新城に有益であれば
と願うばかりだ
それにしても、鳥居強右衛門の扱いは、、、難しい
それが一般的な手続きなのか、それとも例外的なのかは、部外者の素人にはわからない
だがこの騒動(養鶏所跡地取得についての)に違和感を覚えたきっかけは
買取価格の決定のために不動産鑑定で参照された土地の4分の3が
地元の新城市ではなくて隣町の豊川市であったことが
市議会で明らかにされたことだった
「何故、地元新城ではなくて豊川市なのか?」
だがこの時点では、かすかな違和感に過ぎなかった
しかし、しばらくしてこの養鶏所のすぐ隣の場所を国が買うことになって
不動産鑑定を行ったところ、養鶏所の8分の1の価格が提示された事実を知ると
やはり何かおかしい!と疑いの目を持つことになった
この養鶏所跡地の購入は、平成最後の年の4月に臨時議会が開催されて
補正予算として提案された
異様に急いでいるな!との印象をもったが
ちゃんと不動産鑑定をする条件付きで予算案は議決された
一旦疑いを持つと、疑いの連鎖は続く
国の行った不動産鑑定の地目が山林で、養鶏所の地目が雑種地であることで
単純な比較はできない、、とする主張もあるが
地元の不動産に詳しい人達からすると、やはり購入価格は異様に高い
と感じるひとが多いようだ
比較対象地に豊川市を選択した不動産鑑定の企業は、一体どの企業で
どのように選ばれたのかが必然的な疑問となる
市はこの事業者は随意契約としている
金額が大きなものとなる場合は入札で決めるのが普通とされているが
今回は随意契約がなされた
しかもその契約のタイミングが臨時議会で補正予算が可決した直後だった
市の説明によれば随意契約にしたのは、不動産鑑定の委託価格は
一種の料金表(公共事業に係る不動産鑑定報酬基準)があり
それに従うとどこに依頼しても同じ金額で
入札などの競争にはなじまないから
実績等を考慮してある業者を選んだとしている
ところが、この不動産鑑定の委託の価格表は実際に調査して
鑑定料金が算出されてからでしか使うことができないものだ
不動産鑑定をいくらで行うかわからないものを、随意契約として
あなた任せの金額で契約するなんてあるのだろうか?
手続きとしてどうやってるのだろう?と疑問を覚えた
市は不動産鑑定の依頼企業に鑑定委託料の見積もりの提出依頼は
していないとしている
それは鑑定結果がでてから初めて表にある委託料が決まるので
予め出すことができないとしている
ところが最近明らかになったのは、臨時議会の補正予算の中には
養鶏場の買取想定価格(?)5億円強と不動産鑑定の料金が含まれていた
ことが明らかになったのだ(含まれてなければ不動産鑑定は執行できない?)
やはり、不動産鑑定の見積もりは出ていたのだ
市は見積もりとは言わず「参考見積もり」という言葉を使っている
作業してからでないとわからない金額を、やる前にどうやって出したのか?
の答えは、呆れる内容だった
市は養鶏場の販売金額の希望金額(5億円強)を不動産鑑定業者に伝えていて
不動産鑑定業者は、その希望金額を例の料金表に照らし合わせて算出したらしい
ことに対するには、特にお金に関することは「性悪説」をとるほうが現実的とされる
性悪説をとれば、不動産鑑定業者は
「不動産鑑定の結果は、買取想定価格の少しだけ下げればいいだろう
そうすれば、仕事としての自社としても受注金額を高く維持できる」
との思いを持つことは、ごく自然のことと思われる
(もしかしたら、それ以上のメッセージを感じとったかもしれない)
つまりは手続きを踏んでいるように見えても
随分突っ込みどころが満載のように思えてしまう
話は変わって、専門家でないとわからないことに地目云々の問題がある
養鶏場の地目は一部宅地、だが90%は雑種地として不動産鑑定をしている
この手のことに詳しい人物はそこが「雑種地」とされていることに疑問を覚えるらしい
「雑種地」と言うよりは「農地」の方が適切とも口にしている
現実として不動産鑑定で「雑種地等」とされた土地は登記上は「山林」となっている
不動産鑑定は、どうやら登記された地目でなされるのではなく
現況でなされるとのことだが、この地目を決めるのは不動産鑑定会社なのか
それとも依頼主なのかが気になるところだ
依頼主の市はそこまで詳しい人はいないと想像されるので
この登記上「山林」を雑種地と判断を下したのは不動産鑑定業者と思われる
ということで、多くの人(市民)の関心の外で少しづつ明らかになっていることを
現時点での備忘録として、残すことにする
こうして残すことは自分の頭の中を整理する役割も持つ
しかし、誰がこれらに意味とか価値を感じるかは全く不明だ
ま、いいか!
大河ドラマの「どうする家康」は、どうやら6月4日と11日の2回に分けて
新城市が主な舞台となるエピソード(長篠の戦いの鳥居強右衛門と
設楽原の馬防柵)が放映されるようだ
それに合わせて新城市では、ドラマで鳥居強右衛門役を演じる岡崎体育さんと
亀姫役を演じる當真あみさんのスペシャルトークショーを6月11日に行うこととした
5月13日から観覧希望の応募は始まって、老人の多い新城市でネットのみの
応募にもかかわらず4日間で800名ほどの応募があったそうだ
(予定は1200名 市は一つの応募で2名までとしているから
既に1600名の希望者があったとしている)
また、4日と11日には設楽原歴史資料館ではパブリックビューイングも
計画されていている
同時進行のような形で昨日(16日)午後2時から、JA愛知東本店の3Fホールで
東三河ふるさとガイドの高田さんによる「どうする家康 いよいよ長篠」
と題された歴史の学び塾が開かれた
今朝の中日新聞にこの様子が掲載されている
定期的にこの会場で行われる やまびこ大学「学び塾」も今回の傍聴者は
いつもよりずっと多くて120名
冒頭の挨拶では、今までで一番多いとタイムリーな企画を誇らしげだった
内容は
なんとなく知っている話も、歴史資料から裏付けされて紹介されると
リアリティがだいぶ違う
配布された資料には家康からの手紙、信長からの手紙などの
候文(そうろうぶん)が画像としていくつかまとめられているが
その殆どは素人には全く読めない
それを解説する講師の高田さんも、いきなり読めるようになった
のではないだろうから、そのかかった時間を思うと
好きなこととはいえ大変だと実感する
講座の内容は新聞記事にある通りで、長篠の戦いに対する現状認識は
武田方も織田方も楽観視していたようだが
戦いの最前線を陣取らざるを得なかった家康は不安を覚えていたとか
合戦絵図の陣営の配置図は、家康軍が一番危険な場所、
その後ろに織田軍が控えているなど、味方同士の力関係も見られる
ところで、現在の飯田線の鳥居駅のきっかけとなった
鳥居強右衛門(とりいすねえもん)は、今回の放映で瞬間的には
知名度が上がると思われるが、彼のエピソードは時代によっては
都合よく利用される危険性があった
それはお家のための命をかけた奉公とか勇気のある行為の評価に繋がり
恐らく戦前では、それが国家に対する姿勢もこうあるべき!
との雰囲気作りに使われてしまった
地元では鳥居強右衛門と一緒に岡崎まで救援を求めに行った人物として
鈴木金七郎が伝えられている
彼は岡崎で役目を果たしたのち、作手で農民として生きたとされているが
農民として生きたこの人の生き方の方を評価すべき!
と訴えている人たちが地元にはいる
勇ましく派手な出来事は目につくが、知られていないどころか
無視されるような悲しい出来事も数多くある
武田と同盟を組んだ人質として預けられた人間が、
同盟を破棄し徳川についいたために人質は殺されてしまったり
武田勝頼の妻はもともとは北条家の人間で
武田勝頼は自らの最後を自覚した時、妻に北条家に戻るように伝えたが
彼女はそれを断り、彼と同じ運命を選んだとする手紙が残っているが
それは涙なしには読めないと、、講師役の高田さんは語る
自分は英雄とされる人物よりも、こうした運のない人が気になって仕方ない
井伊直弼の手下となって働いた「村山たか」とか
悲劇的な死を迎えた大津皇子とか
ということで、昨日の火曜日の午後は
いつになく有益な時間を過ごすことができた
久しぶりにCDを購入した
ジャズピアニストのブラッド・メルドーのアルバムで
ビートルズの楽曲をジャズの演奏をしたものだ
レコードでも販売されているようだが、価格がCDよりだいぶ高価なようだ
購入してから気づいたのは失敗だったかもしれない
ブラッド・メルドーは以前ソロピアノのアルバムに「ブラックバード」
「アンド・アイ・ラブ・ハー」「ジャンク」などの
ポール・マッカトニーの作品を演奏したものがあって
それがとても詩的で良かったので、今回の購入となった
CDでもレコードで対面するように真面目に聴いた
なかなか良い!
それは一番先に浮かんだこと
そして、つくづく感じたのがビートルズの原曲の素晴らしさ
ほとんどの演奏は冒頭部分はシンプルなテーマの提示となっているが
これが、知っているからかどうかはわからないが、とても心地よい
次第にジャズ風にアレンジされていくのだが、
どこにオリジナルの曲の姿が見えるのか、、と思いながら聴くのは楽しい
実は、先日ネットで若者のこんな意見(質問)を目にした
「ビートルズの音楽はダサいのに、なぜ今も注目されているのですか?」
びっくりしたのは「ビートルズの音楽はダサい」という前提(断言)で
自分は、現代の音楽のほうが幼稚で深みがないと思えているので
とても違和感をもったのだった
しかし、時代的な背景とか空気というのは
こうした感覚の違いを生むのかもしれない
現代人なら心かきむしられるようなバーバーの「弦楽のためのアダージョ」とか
マーラーの5番の第4楽章のアダージェットを
仮にバロック時代の人々に聞かせたらどんな感情を持つだろうか?
と想像してしまった
こんな曲は良くない!
理解できないと言うよりは感覚的に合わない!
と断言されてしまうかもしれない
つまりはその時代の人々の感覚とか思考等で受け取り方は変わりそうだということ
だが、時代を経て古典(スタンダード)として残っているものは
(一旦は選別のフィルターを抜けて)作品自体にやはり何がしらのパワーが
あるものだと思われる
と屁理屈を捏ねているが、ビートルズの曲は良いなあと再確認したということ
ところで、このアルバムに収録されているのは
01. アイ・アム・ザ・ウォルラス / I Am The Walrus
02. ユア・マザー・シュッド・ノウ / Your Mother Should Know
03. アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア / I Saw Her Standing There
04. フォー・ノー・ワン / For No One
05. ベイビーズ・イン・ブラック / Baby's In Black
06. シー・セッド・シー・セッド / She Said, She Said
07. ヒア・ゼア・アンド・エヴリホエア / Here, There And Everywhere
08. 恋をするなら / If I Needed Someone
09. マックスウェルズ・シルヴァー・ハンマー / Maxwell's Silver Hammer
10. ゴールデン・スランバー / Golden Slumbers
11. 恋することのもどかしさ / Maybe I’m Amazed (日本のみボーナストラック)
12. 火星の生活 / Life On Mars?
アンコール・ピースみたいに長くなくて気軽に楽しめる
いい買い物だったかもしれない
※最後の曲はデヴィッド・ボウイの曲らしい
今日は新聞の休肝日
仕方なく昨日の新聞を読んでいると、昨日気づかなかった欄に目が入った
「騙されたものの罪」のタイトルで深刻な問題提起がなされていた
(文化欄 ドキュメンタリー覚書 宮田仁)
日中戦時中、現場のカメラマンは
(命令されて)言われてプロパガンダにつながる映像を撮ったが
(結果責任として)言われたから撮ったでは済まされない
との認識を、戦後になって口にしている
映画監督の伊丹万作は、戦争の責任問題を問う時
多くの人が騙されていたということで責任が曖昧にされるが
そこには、騙されたものの罪もあるはずと厳しい指摘をしている
そして、今必要なのは国民が騙されたということの意味を本当に理解し
騙されるような脆弱な自分というものを解剖し、分析し
徹底的に自己を改造する努力に努めることと訴えている
そして伊丹万作は
「騙されていた」と言って平気でいられる国民なら
恐らく今後何度でも騙されるだろう。いや現在でも既に別の嘘によって
騙され始めているに違いないのである」
と続ける
つまりは、激しい自己の追求、それが一人ひとりに必要としているのだが
だが「個の確立」と言われるこの境地になるのは、なかなか難しいようだ
一人ひとりの個々の判断を下すことは、それを許さない空気とか
孤立することへの恐れから、そして多くの人と一緒の判断なら
多くの中の一人でいられることの安心感から無意識的に避けるようになってしまう
責任を伴う自己判断をしないとするこの部分は
フロムの「自由からの逃走」やドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の
「大審問官」のエピソードや、オルテガの「大衆の反逆」でも、
それとなく扱われていると自分は認識している
ところで現代は、みんな騙されていないと言い切れるのだろうか?(何に?)
プロパガンダが巧みだから騙されても仕方ない!
と言って良いものだろうか、、
まずは騙されない自分を作る!
それが肝心なのだが、そういった方向に教育はなされているのだろうか?
心配することは増えることがあっても、減ることは無いようだ!
今までは見向きもしなかった中日新聞の短歌の投稿欄
先日、時代の空気はどんなだったのか?
との興味で「昭和万葉集」を図書館から借りてきたものだから
今朝はごく自然に目に入った
その中で記憶に残ったのが
●外国の戦時下に見るわが昔重き口開く老人多し
(春日井市 加藤はつよさん)
ロシアのウクライナ侵攻からインスパイアされた作品だ
終戦の少し前、豊川海軍工廠の爆撃を受けた経験をもつ母は
ウクライナの戦禍のニュースを見る度に
この歌で歌われたように、辛い記憶を語る
テレビでよく見かけるのは、戦争の現場を知らない人が
机上で損得を想像しているだけのような、どこか他人事のように話す姿
普通、命令したり評論する人たちは決して生死の現場にはいない
だから死に直面している人の気持ちを想像力をもって
いろいろ口にすべきと思われるが、でてくるのは勇ましい話か、都合の良い話ばかり
現在の日本でも仮想敵国を想定したり、日本は凄い!と過度に自画自賛したり
臭いものには蓋をしているような報道の傾向が強いような印象を覚える
ところで、昭和万葉集をパラパラと流し読みしていると
戦前の現場の兵隊さんの歌にこんなのがあった
●ピシャリと列の外れで音がしたいつもの輪卒が殴られていた
●全力もてうたれるびんたによろめくをただちにとりもどす不動の姿勢
●兵隊の吾が身すべなし祖母(おほはは)の一周忌にも帰らざりけり
あの時代の現場では理不尽なことは起きていた
好んで就いた訳ではないのに現実は組織上の無理が通り
兵隊の集団としては世間から持ち上げられた評価を得ていた
(本当にそうかは疑問だが)
そして後の争いで不幸にも死に至った個人は、国から美化して扱われた
(そんな扱いよりも家族と平穏に暮らすことのほうがありがたいのに)
戦争を知っている人たちが過去を振り返ると
現在の世の中は、とても気持ち悪い気がするだろうと思う
ウクライナとロシアだけでなく、世界中がどこかおかしくなっている
まるでブレーキのないクルマに乗っている感じさえする
どこかあやふやな現代
「あの時、何をした?」
未来の人にこの問が発せられたとしたら、自分はちゃんと答えることができるだろうか
ぼーっと生きてちゃいけない筈なのだが、、、
生き続けていれば当たり前のことだが、いつの間にか(地球上には)
年上の人より年下の人のほうが多くなってしまった
でも知っている人は年上が多く、年下は身内絡み以外は少ない
人口構成の図などを見て再確認すると、なにか不思議な思いがする
年配者が嫌われるのは昔話、自慢話、お説教と言われるが
自分の中にもあれこれ言いたくなってくる気持ちも目覚めている
ところで、今の若者と共有できないことがたくさんある
日本の観光のための重要なコンテンツであるアニメは全く知らない
エヴァンゲリオンもガンダムも知らなしし、ジブリの作品群も知らない
(ジブリは絵のタッチが好きじゃないので避けている)
今の若い女の子のグループも男の子のグループも全く知らない
そして今流行っている音楽も全く知らない
それどころか、自分はゲームも知らないしやらない
つまりは時代感覚とされる感情は、ほとんど理解の外だ
でも何不自由なく暮らしていけている
自分はマスの消費者としての価値があまりないのかもしれない
正直なところよくわからないのが、若者がインスタ映えするということで
食べ物の写真を撮ったり、聖地巡礼と称して該当する場所に行き
これまた写真撮影をして人に見せる行為で
それをして何になるのだろう?としか思えない
あと、食べ物のために行列に並ぶなんてのは自分は絶対できない
数分くらいなら並ぶかもしれないが、殆どは諦めてしまう
ということで、現在の自分はリアル(経済的)な世界の主たる存在ではなさそうだ
若い時には「自分がいてもいなくても世界は回っていく」と焦りを感じたものだったが
今では、そんなものか、、と気にも留めなくなっている
でも、これは果たして良いことか、どうなんだろう?
「一度、レコードを聴きに来てください」
先日、写真撮影と水彩画などに才能を発揮する近所の知り合いに
こんなお勧めをした
さっそく昨日の午後、彼がやってきた
彼が来たらどの音楽をかけたら良いのか?
とずっと考えていたので、オーディオセットのある2階の部屋にいって
考えておいた曲のレコードをかけた
まず最初はバッハの「音楽の贈り物」の中のトリオ・ソナタ
フルートとヴァイオリンとチェロ、それにチェンバロの編成の音楽で
とても心落ち着く音楽だ
演奏はバッハの音楽のスペシャリスト、カール・リヒターを中心とした仲間だ
(この録音はCDでも持っているので比較をした)
レコードの音はフルートはふくよかで、チェロの音は奏者の熱気が感じられる
J.S.バッハ ≪音楽の捧げもの≫ BWV1079 カール・リヒター J.S.Bach “Das Musikalische Opfer”
彼は集中して聴いていた
レコードを聴いた後CDで同じ部分を聴いた
「違いは感じる?」
「うーーん、よくわからないな、、でもレコードって溝があるだけで
こんなに左右から違う音が出てきて凄いな!と別のことを感じてしまった」
忖度なしのとても素直な感想は、第三者の意見として参考になる
次に用意したのは、モーツァルトのピアノ協奏曲代23番の第二楽章
感情に訴えるがウエットではない それ故に寂寥感が際立つ
これらは一度聴けば、こんなにいい曲があったのか!
と感じるに違いないと思い、モーツァルトファンを増やすつもりで選曲した
この曲も彼は集中して聴いていた
Mozart - Piano Concerto No 23 A major K 488 - II Movement - Maurizio Pollini
次はモーツァルトのK364のヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲の第2楽章
これも知る人ぞ知る有名な曲で、実演で聴いた時は泣きそうになった
ZAGREB KOM 5 • W. A. Mozart: Sinfonia concertante, K 364 - 2. Andante
「どう?」
「なんか、すごく完成度の高い音楽っていう感じ」
「これはヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲という曲の第2楽章」
「あれはヴィオラだったのか、、チェロじゃないし何だったのかと思ってた」
彼とはフルトヴェングラーの指揮する「モルダウ」について話した事があって
youtubeで聴いたら、その感想を教えてほしいと言ったことがあった
そこで、今度はCDでフルトヴェングラーとウィーンフィルの演奏を聴いた
Smetana: Vltava (The Moldau) Furtwängler & VPO (1951) スメタナ ヴルタヴァ(モルダウ) フルトヴェングラー
最初のフルートの音からして深さが違う
テンポがゆっくりなだけではない、なにかもっと他のものが詰まっているような
そしてあの有名なメロディが流れた時の憧れのような響き
モルダウはフルトヴェングラーの守備範囲ではないが、
この演奏がクーベリックなどより数段好きだ
「これを聴いた後だと、モルダウはフルトヴェングラーが良いってことになりうそう」
確かに、その曲を初めて(真面目に)聴きいた音楽は全ての演奏の基準になるだろう
最後に面白い演奏をといって、ブラームスのハンガリー舞曲1番を
フルトヴェングラーの指揮のCDを引っ張りだした
Brahms: Hungarian Dance No. 1, Furtwängler & BPO (1930) ブラームス ハンガリー舞曲第1番 フルトヴェングラー
途中から指揮に煽られて、どんどんスピードが速くなっていく
とてもハラハラするくらいだ
「でも不自然な感じはしないね」
「音楽をこんなに集中して聴いたことはなかった」
彼はここまでの時間を十分満足したかのようだ
「また、聞きに来てください、
第九の季節にはフルトヴェングラーの有名なバイロイト祝祭オーケストラのやつ
聴きましょう、でもこれって気合が入らないと駄目だから精神の調子もいい時に!」
こんなふうに気持が通じ合う人との時間は過ぎていった
それにしても、何かを感じるということ、それを表現すること
それはとても大切なことだと思う
そしてそれをするためには集中して対峙することも
次は彼に聞かせる曲は何にしようか?
ピンク・フロイドの「エコーズ」とか
ビートルズのアビーロードも良いかもしれない
こんなふうに考えることは案外楽しい
昨日の雑誌の新聞広告にレコードの文字が入ったものがあった
雑誌は一時期、高い頻度で購入していた「サライ」で
今回の特集は気になるので久しぶりに購入してみた
価格は税込みで1,250円、昔はもう少し安かった記憶があるが
今回はトートバッグのおまけがあるので少し高めになっているのだろうか
それとも、ここでも値上げの波を被っているのだろうか
さっそく読んでみると、残念ながら少しがっかりした
既に分かっていること情報ばかりで
レコードにかける思いみたいなものはあまり感じられない
初心者向けの内容で、マニアの何か語りたい!
という意気込みはこの特集にはなかった
特集は通り一辺の感じだが、ページを割いて東京、大阪、京都、
由布院などでレコードが聴ける喫茶店などを紹介したページがあったが
田舎の住人としてはあまり関係ない感じだ
どうせなら地方でも中古レコードを買える店を紹介して欲しかった
雑誌としては最近人気が復活気味のレコードを特集し
啓蒙する意図があったのかもしれない
結局のところ、色んなものはある程度知ってしまうと
初心者向けの情報とかアイテムとかは物足りなくなってしまうのだろう
レコード雑誌といえば「レコード芸術」をすぐに思い浮かべるが
この月刊誌は、つい最近休刊になってしまった
昔は曲を知るのも演奏家を知るのも、この雑誌にお世話になった
そこには何かを語りたい人(評論家という人たち)が
スポンサーの意向も踏まえ(?)有り余る情報提供があったものだった
時々、我が家に来てレコードを聴かしてほしいという人たちがいるが
同じ録音の曲をCDからレコードの順番で聴くとあまり差を感じないが
反対にレコードからCDの順番で聴くと
(特に一面を通して聴いてレコードの音に慣れると)
聴き比べにきた人は殆ど同じような感想を口にする
それはCDの音がスカスカというものだ
これはレコードには全ての音が入っているが
CDは高音と低音の聴こえない音をカットしているからと説明され
聴こえないはずのレコードの音は身体で感じているとの説があるようだ
とにかく理屈はどうであれ、事実として音の厚みは全く違う
ところで、最近のレコードブームもありがたくない面もある
中古レコードの値上がりが予想されるからだ
もっとも、自分が求める分野はそんなに需要が多くないので
心配する必要はないかもしれない