北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】仁和寺-御室桜,この寺院が関わった摂関政治の時代に陣定という制度と院政には時代の議定

2023-05-24 20:23:58 | 写真
■仁和寺と院の御所での議定
 今年は思った以上に桜前線が早かったもののその後の涼しい季節とで不思議な情感でしたが、いよいよ今年の桜花の話題も今回までとなります。

 仁和寺、御室桜とともにしかし花見に終わらせるには勿体ない程の歴史を秘めているものでして、たとえば太平洋戦争主戦交渉の秘密の舞台となっていた寺院でもあります、しかしそれ以前に、大日本帝国という巨大な今の日本のひな形を形成する舞台でもあった。

 古代日本が中世日本に進んだのは、そりゃあ誇大が有れば中世が在るのは当然だろう、と思われるかもしれませんが天然痘の流行により滅びかけた日本が、一つの中央集権国家に拡大してゆくのは、実はかなり難しい道程と政治改革を経ていた、そこに仁和寺があった。

 律令制度以上に日本が一つの国家として機能する為には専制政治を経る必要があり、ここでいわば限られた地域の直接統治と広い地域の限られた統治関係ではなく、日本という国そのものを統治するには、前者の場合は天皇親政が有り得たのですが後者は難しい点が。

 陣定、じんのさだめ、と読むのですがPCですとジンの定めという名探偵コナンか寺町三条のBARのような響きの変換になってしまう、律令国家から摂関政治時代に掛けて国家権力の安定化とともに、天皇親政では、決済する項目が多くなり過ぎる問題が当然生じます。

 摂関政治の時代には摂関が中心として合議する陣定という機関が設けられていました。一応制度としては専制政治の時代ではあるのですが、親政は概略を示すのみとして、多くの決定は陣定の合議により確定していました。そしてこの陣定は専制政治の独裁色を薄める。

 陣定という制度は摂関政治を経て院政の時代でも維持されるのですが、院政に際しては議定という院の御所での合議制度が中央での陣定と類似した、というよりも上皇宣下とともに退位した天皇がその統治機構をそのまま院政に管理替えした、制度が存在しています。

 律令政治の時代には、官長と代官という統治機構があり、代官の裁量は思いのほかひろかった、無論これは前述の通り律令国家そのものが専制国家のような行政能力を有さなかった為という背景を踏まえるべきなのですが、ここに陣定と議定という制度が構築された。

 議定、興味深いのは陣定は官僚機構を中心に専制国家的制度を構築するのですが、議定については公卿の内の限られた貴族とともに院近臣という一種の閣僚機構、そして法親王というようなかたちで当時勢力を誇った仏教界と幅広い人材から合議制枠組を構築しました。

 仁和寺の寛助門主などは法関白と呼ばれているのですが、院政の時代に入りますと摂関政治の陣定よりも様々な視座から合議が進められた。ただ、興味深いのは院政というものの定着したイメージ、天皇の上に上皇という二重権力では、必ずしもなかった事が興味深い。

 内覧という、内乱ではなく、摂関政治の陣定は院政時代の議定と相互補完関係を構築していまして、院の議定は朝の陣定とともに内覧という調整を経て具体化されており、そして陣定は常設機構となっていましたが、議定は有事の際に臨時招集された非常勤枠組だった。

 仁和寺の僧侶、政教分離という単純な現代的視座に基づくのではなく、非常勤枠組に寺院を含めた意見の集約組織を常設の官僚機構の補完的枠組みに取り入れて国家機能の大型化に対応する、今の視座ではなく千年以上前に取り組まれた事を考えれば十分先進的です。

 御室桜を愛でるとともに、いま日本は戦後史から次の時代を想定せざるを得ない状況で右往左往している印象が否めないのですが、千年以上前、日本は思い切った改革を幾度か経て今の日本のひな形を形成していた、そうした一種の歴史浪漫に思いを馳せた次第です。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】仁和寺-御室桜,古代日本のかたちは律令国家から中世国家への転換と共に存在感を示した寺院

2023-05-24 20:00:57 | 写真
■古代から中世へあゆむ
 仁和寺の御室桜は低い木々の遅咲きという観桜が春の桜花の季節の幕引きを思わせるとともに、今年早めでしたが例年であれば憲法記念日が近くなった頃に咲いていたものでした。

 光孝天皇の勅願により9世紀後半に造営されました仁和寺、驚くべきことに大日本国憲法制定よりも1000年と少しだけ前の寺院となります。ただ、ここの御寺の寛助さんなど、憲法制定よりもはるか前、国家体制を醸成する最中に影響力を及ぼした方がいたのですね。

 慣行の成文化、確たる概念が成文化されている刑法や民法や刑訴法などなどを見ていますと理念としては理解していても実感がわかない制定権力ですが、いま国際法に目を向ければ、そもそも国際法そのものが国家慣行の成文化の過渡期を歩んでいる最中故分りやすい。

 正統性と正当性の議論ではありませんが、日本の今の制度を考える際、結局のところ大本は大日本帝国憲法であり、日本国憲法は第93回帝国議会において、憲法改正、という方式を経て現在の日本国憲法になったものであり、たたき台には大日本国憲法が在ったのです。

 明治憲法や大日本帝国憲法、呼び方は幾つかあるのですが、日本の憲法を考える際に、もちろん英米法と大陸法にローマ法という手順をふまなければならない事は言うまでもないのですが、律令制度から武家諸法度までを通じた、長い歴史は意外と顧みられていない。

 桜咲く仁和寺にて、なぜそんなことを提示するかというと、実は仁和寺は日本の統治機構の変容期に幾度か出てくる寺院であり、意外にも昭和史に出てくる一方、院政の舞台ともなった場所でもあり、我が国のcommon senseの原型原点に繋がるような場所でもある。

 律令国家、護憲という呼称の遥か昔ですが、日本は律令国家制度定着の過程で天然痘大流行という国家的危機に曝されています、右大臣と左大臣が同時に死亡する様な救いようのない状況において、いわばスリムな国家構造に結果的ではあるけれども収斂しています。

 奈良時代の天然痘は、日本が国としての自我を共有する過程において大流行し、これも首都とその周辺が最大の感染地となったことから手の打ちようがなく、貿易手段は知識不足から大仏建立に国分寺造営などなど、人の密集する事を繰り返しこれが逆効果となった。

 日本の特殊性は、欧州各国の市民革命や立憲主義が、どの国でも似た条件と似た地理関係、そして全欧での安全保障の同一性、これは例えばナポレオン戦争や英仏百年戦争にドイツ三十年戦争と、全欧的危機が生じれば確実に無関係の国が無いという意味で共通が在った。

 特殊性というには、地理的な隔絶がある点を無視して、今の法体系の法源を考える事に少々無理があるのではないかな、と思うのです。ここで、律令制と中世日本への変容というもの、その為の制度構築の背景が憲法制定過程へcommon senseの面で影響が有るよう思う。

 中世の国家システム、日本の場合は律令制度が天然痘パンデミック下での限られた統治機構を原型として形成されました、島国なのに外国、というような価値観、驚くなかれこれは江戸時代まで影響を及ぼしている、つまり幕藩体制の下地といえるものがありました。

 律令制度の律令国家と地方の関係は、統治機構の麻痺を背景に一種連合国家的な、若しくは中華思想の概念を内政に取り込んだような様式で形成された、反論は多いでしょうが解釈次第では同意の得られそうな概念です。しかしこれを専制政治へ移行せねばならない。

 専制政治といいますと2020年代には気分の良くない政治制度かもしれませんが、今話すのは1010年以上前の時代です、逆に専制政治により国の統治の及ぶところと及ばないところが境界線となり、境界線を曖昧としては外交よりも外寇により国が大変な事となる時代だ。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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ウクライナ情勢-バフムト攻防戦ロシア死傷者は沖縄戦並の10万,ロシア本土ベルゴロドでパルチザンによる攻勢

2023-05-24 07:00:16 | 国際・政治
■臨時情報-ウクライナ情勢
 バフムトは駆逐艦の墓場となったガダルカナルの消耗戦を再現しているような印象が。

 バフムト攻防戦は、ロシア側が中心部をほぼ制圧しウクライナ軍は市街地の一部を維持する状況となっています。ロシア軍は9カ月間の激戦で死傷者10万名以上という、沖縄戦の日本軍死傷者を超える犠牲者を強いながら漸く人口7万の都市を制圧させつつあるようですが、他方でウクライナ軍はバフムト北部近郊の高地と南部で逆包囲を掛けつつあります。

 バフムトは要衝ではある、M03号線とM06号線が交差する道路の要衝ではあるのです、ただ、バフムトよりも交通要衝はクラマトルスク、周辺にスラビャンスクやドルジュキーウカにリマンなと都市が並ぶクラマトルスクの方が重要に見えるのですが、M03号線沿いに50km以上離れておりバフムトからロシア軍が簡単に攻略できる都市ではありません。

 ウクライナ軍はバフムトの要衝としての価値を過大に示す事でロシア軍に戦力を集中させ出血を強要したのではないか、ウクライナ軍は兵員の損耗を抑える慎重な戦闘を展開しており、逆にバフムトのような消耗戦をドンバス地域だけで十数回遂行する人的資源がロシアにあるのかという疑問符が付き、ガダルカナルのような状況をロシア軍は経験しました。
■ロシアベルゴロドでの騒擾
 それっぽい写真が在りませんでしたので記事に載せている写真は現地ではなく普通に富士総合火力演習予行の様子です。

 ベルゴロドでパルチザンによる攻勢、ロシア本土でウクライナとの国境から40kmを隔てたベルゴロドにおいて大規模な戦闘が繰り広げられた模様、不確定情報として22日頃に現地の映像が示されていました。日本では23日にテレビ朝日が報道しましたが、ファクトチェックができたようで、日本時間23日夕方にはイギリスのBBCもロシア発表を報道した。

 ベルゴロドでの戦闘は、規模としては中隊規模の部隊が攻撃を加えており、ロシア側はウクライナ軍の浸透と非難、ウクライナ政府はウクライナ軍が関与したものではなくパルチザンの行動ではないかとしており、ロシアの准軍事組織自由ロシア軍団とRVCロシア義勇軍団が関与しているのではないか、としています。偽旗作戦か、武装蜂起か、越境なのか。

 ロシアのベルゴロド州知事はロシア軍がヘリコプターによる掃討作戦を実施しているとしつつ、地元行政庁舎が攻撃されるなど被害は深刻であるとしています。ただ、ロシア軍は侵攻したウクライナにおいて実に1200kmもの戦線を形成しており、この戦線を維持するだけで相当な兵力を抽出、国内での警備能力が手薄となっている可能性は否定できません。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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