北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】建仁寺,双龍図-法堂に描かれた壮大な龍の絵図をカメラにも開放する禅寺の精神真価

2023-05-31 20:22:10 | 写真
■禅寺のこころを考える
 拝観と観光の違いはどうあるのかと考える事はあるのですが逆に拝観の森厳な気持ちで探訪したのを物見遊山と例えば北区の御寺で寺院側にみられるのは少々不満に思う事がある。

 双龍図、京都には天井に龍を描いた堂宇が数多ありますが、格段に親しみを感じるのは何を置いても、相国寺や天龍寺の龍たちも確かに心を突き動かすものはあるのですが、建仁寺の双龍図ほどには感動というものを生まないとおもう。それは禅宗の真価を示すため。

 法堂に描かれた壮大な龍の絵図、そもそもこの法堂は明和2年こと西暦1765年の再建となっていまして、平成時代に日本画家小泉淳作により双龍図が描かれている、いわば絵図としては新しいものなのですけれども、それ故に撮影させてくれるというのはありがたい。

 勧進、という動きが末法思想の時代に起こった源平合戦による南都焼討と東大寺焼失、この頃には文治元年大地震や養和元年大飢饉など、遂にこの世界もこれまでか、という災厄災禍が続く中で、東大寺の再建を進める過程で重源などにより大きくわき起こしました。

 法然の浄土宗、親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、日蓮の日蓮宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、末法思想とともに災厄の時代には阿弥陀仏の縋る他力本願の浄土宗と浄土真宗と時宗、天台宗から発展した日蓮宗、教義と修行による不立文字を掲げた禅宗が日本で定着する。

 禅宗の真価、というのは元々禅宗は仏教が民衆という大海に分け入って初めて成立しました背景があります、故に寺院は開かれているというものなのですが、なるほど仏教美術は昨今、禅寺もそうでない寺院も撮影禁止というところが実に多いという悲しい現実がある。

 建仁寺はこうした点で開かれている寺院であり、双龍図を見上げるだけではなく撮影できるという。好奇心もあるのかもしれませんが、何より双龍図というものを撮影出来たのですから、こうして禅宗と仏教の話題を広く分かち合う事が出来る、これは何とも、よい。

 末法思想、考えれば不思議なものでお釈迦様自身が末法思想をいつごろと示したものではなく、勝手に解釈して世界の終焉を悟り、その上で丁度うまい具合に災害と戦争が重なった事により、いよいよ世界は終わる、と自分で袋小路に迷い込んだ構図が平安朝末期です。

 ノストラダムスの大予言を、どうしても1999年7の月、という言葉と共に想いだしてしまう世代ではあるのですが、人類は進歩しているようで進歩したのが科学技術のみ、こころと哲学については、同じことを繰り返しているのだろうか、とも思ってしまうのだけれど。

 地球は終わらない、いわば末法思想そのものに反論したものが日本では禅宗というもので、このあたりから鎮護国家という、国家が主体であり、しかも国民国家という概念が存在しない時代のいわば“お上”の概念の信仰から大衆信仰へ舵を切った構図といえましょう。

 俵屋宗達の風神雷神図、この絵画こそは恐らく日本人ならば美術の教科書や風邪の感冒薬コマーシャルなどで一度は目にしたものと思うのですが、原本は京都国立博物館に寄託されていますので複製ではあるのですけれども、これをそのまま撮影する事が出来るのです。

 風神雷神図、原本は国宝であり建仁寺派寺院である妙光寺再興に際し描かれたものが建仁寺へ贈られたもの。妙光寺は右京区宇多野上ノ谷町という山奥の、そして特別拝観以外見る事の出来ない寺院とはなっているのですが、風神雷神図の複製をこう、みられるのだ。

 京都には数多寺院が有ります、もちろん善峰寺のように駅から遠い寺院もあれば鞍馬寺のように駅から近くとも駅そのものが中心部から離れている寺院、というところもあるのですが、交通が便利な中心部に、もう少し拝観者が集ってもいい寺院が、こう佇んでいます。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】建仁寺,末法思想の時代を経て南都焼討と鎮護国家の価値観から大衆信仰の時代への変容

2023-05-31 20:00:36 | 写真
■東山の建仁寺をめぐる
 熱い春と涼しい晩春を経て熱い初夏の前に台風がやってくるという妙な気候の時節ですに少し東山を散策しました。

 建仁寺。京都の東山と云えば高台寺や清水寺と八坂神社というように歴史を現代に伝える景観が続いているところではあるのですが、不思議とその寺院は高台に並んでいるように思えて、逆に“東山という山の名を冠するのだから当然だろう”と切り返されるところ。

 祇園の少し南側、建仁寺は寺院が高台に並ぶところにあって、しかし鴨川の川辺のようなところに、しかしくっきりと堂宇を広げていまして、歴史景観地区というのだからこういう壁が続くのは当たり前に見えたその先に、拝観者を迎え入れるよう扉をひらいています。

 京都市東山区大和大路四条下る四丁目小松町、ここは京都市東山区大和大路四条下る四丁目小松町という、八坂の塔もすこし山手に見えるような立地にあります。意外と広い堂宇と庭園を広げていますが、これでも小さくなったといい、実は八坂の塔もその塔頭という。

 創建建仁2年、西暦では1202年に創建された寺院です。堂宇は思いのほか大きいのですが、21世紀の京都の街並みは南座はじめ大きく成長していることから、特徴的な五重塔など仏塔を寺域に有さない寺院故にある種目立たないのですが、それゆえなにか静けさがある。

 最初禅寺、建仁寺にはこう大書されていまして、観光客がそれ程集まらない寺院はそう、臨済宗建仁寺派の大本山、という大きな役割を担っていまして、日本に臨済宗を伝えた栄西さんが、開山となっている。すると、観光客が素通りするのはもったいないようにも。

 中世の時代、日本では仏教という宗教の存在は大きく転換を始めていました、いや仏教伝来、と飛鳥時代の歴史を小学校で学ぶ通り、確かに日本には仏教はあったのですけれど、これは国家宗教であり、単に国家鎮護を目指すことが宗教の役割ではないともいえるもの。

 勧進と作善、中世の時代には日本部仏教が国家宗教というものに大きな役割を求められる一方で、多様性を持ち始めます。それは奇遇なのかもしれませんが末法思想という、いわば仏教の時代の終末思想的解釈の時代に、哲学的な教義を持つ仏教が大衆へ向かい始める。

 末法思想は末法元年が平安朝後記、末法元年が永承7年こと西暦1052年となっています、建仁寺の創建からは150年も前ですが、末法とは最終戦争のような形で一瞬に終わるのではなく、日没と夜のとばりのように終焉が訪れると理解され、終わりの始まりとされた。

 信心を人々に求め結縁を求める、勧進は勧進帳のおかげで集金のような印象で受け止められていますがもともとは中世の頃に本格化しました布教の様式です、西行や重源の時代に本格化していまして、もっともこの頃から確かに集金は行われていた、特殊な事情により。

 南都焼討、源平合戦において平家の勢力が陰りを見せた転機の一つに奈良の東大寺など主要な寺院を平家側が焼討した事件がありました、これは軍事的な意味よりも政治的な意味が大きいものでしたが、同時に末法思想の時代に起こった大寺院の焼失は大きな意味が。

 鎮護国家、他方でこの時に政権は朝廷の権限と共に院政が続き平家の権限と二重権力三重権力状態が醸成されていたこともあり、末法思想とともに一種の世情不安を形成していた事も否定できないところです。そこに大寺院の焼失と再興されない状況は不安を高める。

 勧進はこうした最中にあって、東大寺復興等を求める新しい動きとして、つまり末法の段階を超えて新仏教を求める流れとして、形成されてゆきました。それは臨済宗を含む新しい宗派が日本に定着し始める流れとなり、建仁寺を拓いた栄西の活躍の時代となるのです。

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ウクライナ情勢-反撃開始をゼレンスキー大統領示唆,相次ぐキエフへの攻撃とモスクワでの無人機攻撃事案

2023-05-31 07:00:28 | 国際・政治
■臨時情報-ウクライナ情勢
 おはようございます、朝鮮半島からの飛翔体の打ち上げ動向が気になるところですが今朝はウクライナ情勢の最新情報をお伝えしましょう。

 ウクライナのゼレンスキー大統領は30日に発表した声明で、いよいよ反転攻勢が開始される、と春季攻勢の開始を示唆しました。ただ、ウクライナ軍はあらゆる戦線において威力偵察と解釈できる攻撃を開始しており、既に春季攻勢が開始されている可能性もあります。もちろん大統領は大統領の職務に徹しており、実際に開始されるかは軍が決定します。

 バフムト、この冬から初夏にかけての最大の激戦地では攻撃の中心を担った民間軍事会社ワグネルが撤退を開始し正規軍である空挺軍の第30空挺旅団へ交代が開始されており、攻撃衝力が尽きたか、若しくは再編成の上で別の戦線へ投入されるのかに関心が集まっていますが、現段階で2月に言われたような、バフムトから次の都市へ侵攻はできません。
■100発以上のミサイル等
 キエフはまたしても大規模な攻撃を受けました。

 ウクライナの首都キエフは29日から30日にかけ、大規模なミサイル攻撃を受けています。空中発射巡航ミサイル40発、空中発射弾道弾など11発、自爆用無人機66機、実に三桁の攻撃を受けています。ウクライナ国防省は空中発射巡航ミサイル37発と無人機58機及び空中発射巡航ミサイルなど11発を撃墜したとし、こちらも三桁を撃墜した構図です。

 キエフに撃ちこまれた無人機は5月だけで200機を超えており、ゼレンスキー大統領はロシアが発射している無人機はイラン製シャヘド136無人機が大半である事から、イランに対する報復制裁などを行うとしています。他方、ロシア軍は無人機やミサイルを逐次投入しているようで、飽和攻撃が出来ない技術限界か、作戦の稚拙さなのかは、不明です。
■モスクワへUAV8機
 UAV無人航空機は何処から発進したのでしょうか。

 モスクワ、ロシアの首都モスクワが8機の無人機による攻撃を受けました。可搬式の無人機のようなものでは無くもう少し大型の無人機による攻撃と見られ、クレムリン攻撃に際し使われたような小型のものではない可能性が、爆発の痕跡や発見されている破片などから推測できます。ただどの経路から、またどこから発進したのかは現段階では不明です。

 モスクワは冷戦時代から地対空ミサイルの密集地域であり、SAMの巣と呼ばれるモスクワが従来、こうしたミサイル攻撃に対しては盤石であると信じられていましたが、低速の無人機に侵入された事が事実であれば、ロシア軍は相当数の地対空ミサイルを引抜きウクライナへ派遣しているか、若しくは現在配備中のミサイル性能に問題があると考えられます。

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