■2022年2月24日全面戦争
あの日、限定戦争ではなく全面戦争が始まった。ロシアのこじつけた開戦の口実には日本も当て嵌まり次の標的は日本の可能性も含まれる事に戦慄を覚えた。
ロシア軍ウクライナ侵攻から間もなく一年となります、ここまでの大戦争となるようには当初思っておらず、しかしロシア軍が全ての軍管区から師団や旅団を抽出し、国境地域での大規模演習を実施していましたので、衛星写真を見てからこれだけ兵力を集結させ訓練させ物資弾薬を集積、このまま侵攻せずに引き下がることはあり得ないと確信しました。
日本の平和運動や、リベラルを自称する識者や政治家、学生運動までも、戦争をあおるなとか、ロシアの主張、かなり荒唐無稽に思えたのですが、ウクライナでの大量破壊兵器開発な、ナチス残党勢力説、大統領がユダヤ人であるにもかかわらず主張がロシア側によりなされ、検証する機会も許されなかった、戦争を防ぐには防衛しかないと考えさせられた。
OECD全欧安全保障協力機構、もともとはソ連の呼びかけで創設された組織が、ウクライナ東部地域でのウクライナ領内では人道問題は発生していない、と結論を出し、そして監視団が駐留しているために、かくして実行されることも不可能で、ロシアの主張するロシア系住民への大規模殺戮や民族浄化などは全くない、という結果が出ているにも関わらず。
日本のリベラルと平和運動は、もう少し認識を改めて、とにかくロシア軍がウクライナへ侵攻した、という事実を認める能力は、ロシア国内よりも早かったのです、何故ならロシア政府は、ウクライナへ侵攻していない、と最初の三か月間は主張し、キエフ攻防戦やハリコフ方位失敗の時点でも、欧米によるフェイクニュースだ、という主張さえしていた。
戦争が始まった、という事実を認識するのは日本のリベラル層や平和団体よりも早かったのです、現実を見る能力があることを今回示せたのですから、なぜ戦争が起こるのか、ということを認識するべきですし、手段としての平和、つまり結果としての平和は不要、と考えるのか、結果としての平和のために手段を考えるのかとの点も明確にすべきでしょう。
京都だけだとは思えないのです、しかし、ウクライナ反戦運動として、ウクライナが抵抗をやめれば戦争が終わる、というような主張は京都駅前でも三条の交差点のところでも、京阪の前でも、見かけるのですね、賛同できる論点ではないのですが、安全保障と防衛に関する関心と情報を得ようとしないままの論調というものは何か別のものを思い出させる。
コロナワクチン接種反対デモ、これと印象としてはよく似ています、コロナウィルスは存在しないとか、マスク反対とか、コロナによる死者は出ていない、というデモ、アジテーション、下火に放ってきましたがこれと印象はよく似ています、科学的に、つまり第三者が納得できる検証を取っていない、主張に対する分析を行っていない、こうした点で同じ。
安保反対、この主張は良しとしましょう、しかしこれはいつの間にか、日米安全保障条約反対、という論理を超えて日本では、安全保障反対、という論理や、もう少し進んで安全保障とは何かを考えることさえ反対、無防備や為すがままに過ごすことを推奨するように論理が飛躍しているように思えるのですね、だからこそ議論まで進まず叫ぶだけとなる。
議論にさえ反対しているようにおもえる、この危険なところは安全保障のあり方を議論する土台さえ拒否しているために、政策に反映できない、また、政策と議論するという方式さえ拒絶している構図は、主権者として安全保障の論議を拒否し、結果論として与党の進める防衛政策や外交政策に、反対するだけで議論しないため、既定路線に影響が及ばない。
ウクライナの現状を考えたうえで、安全保障を拒否し、そして自分が主張する通りに動いた結果のウクライナが抵抗をやめてしまった状態での暗い未来が、日本で現実化した場合はどうなるのか、という視点まで踏み込んで考えるべきではないか、こう思うのです。それでは、ロシアが求めるウクライナの譲歩とはどういうものなのか、日本に当て嵌める。
選挙の結果をロシア政府が管理し、投票行動と投票箱は選挙結果とは別枠で行うことを受け入れる、ロシアがまずウクライナに求めたのは、選挙結果の議員と大統領はロシア政府が適任の人を就任させ、国民は選挙に行った、つまりロシアの意思はウクライナの意志、という状況を受け入れろ、ということです。それ以外の人間は逮捕か不審死か失踪する。
ウクライナの非武装化と、非ナチ化、特にロシア政府の主張は、ナチスの定義を示さず、むしろ今の欧米の民主主義こそナチズムだといわんばかりのドイツ脅威論さえ、2023年に入り挙げ始めました、譲歩すれば戦争は避けられた、しかし国民の権利を維持したうえでの戦争回避の方法はなかった、相手の意思次第で譲歩のしようはない、この現実をみるべきです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)
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(第二北大路機関: http://harunakurama.blog10.fc2.com/記事補完-投稿応答-時事備忘録をあわせてお読みください)
あの日、限定戦争ではなく全面戦争が始まった。ロシアのこじつけた開戦の口実には日本も当て嵌まり次の標的は日本の可能性も含まれる事に戦慄を覚えた。
ロシア軍ウクライナ侵攻から間もなく一年となります、ここまでの大戦争となるようには当初思っておらず、しかしロシア軍が全ての軍管区から師団や旅団を抽出し、国境地域での大規模演習を実施していましたので、衛星写真を見てからこれだけ兵力を集結させ訓練させ物資弾薬を集積、このまま侵攻せずに引き下がることはあり得ないと確信しました。
日本の平和運動や、リベラルを自称する識者や政治家、学生運動までも、戦争をあおるなとか、ロシアの主張、かなり荒唐無稽に思えたのですが、ウクライナでの大量破壊兵器開発な、ナチス残党勢力説、大統領がユダヤ人であるにもかかわらず主張がロシア側によりなされ、検証する機会も許されなかった、戦争を防ぐには防衛しかないと考えさせられた。
OECD全欧安全保障協力機構、もともとはソ連の呼びかけで創設された組織が、ウクライナ東部地域でのウクライナ領内では人道問題は発生していない、と結論を出し、そして監視団が駐留しているために、かくして実行されることも不可能で、ロシアの主張するロシア系住民への大規模殺戮や民族浄化などは全くない、という結果が出ているにも関わらず。
日本のリベラルと平和運動は、もう少し認識を改めて、とにかくロシア軍がウクライナへ侵攻した、という事実を認める能力は、ロシア国内よりも早かったのです、何故ならロシア政府は、ウクライナへ侵攻していない、と最初の三か月間は主張し、キエフ攻防戦やハリコフ方位失敗の時点でも、欧米によるフェイクニュースだ、という主張さえしていた。
戦争が始まった、という事実を認識するのは日本のリベラル層や平和団体よりも早かったのです、現実を見る能力があることを今回示せたのですから、なぜ戦争が起こるのか、ということを認識するべきですし、手段としての平和、つまり結果としての平和は不要、と考えるのか、結果としての平和のために手段を考えるのかとの点も明確にすべきでしょう。
京都だけだとは思えないのです、しかし、ウクライナ反戦運動として、ウクライナが抵抗をやめれば戦争が終わる、というような主張は京都駅前でも三条の交差点のところでも、京阪の前でも、見かけるのですね、賛同できる論点ではないのですが、安全保障と防衛に関する関心と情報を得ようとしないままの論調というものは何か別のものを思い出させる。
コロナワクチン接種反対デモ、これと印象としてはよく似ています、コロナウィルスは存在しないとか、マスク反対とか、コロナによる死者は出ていない、というデモ、アジテーション、下火に放ってきましたがこれと印象はよく似ています、科学的に、つまり第三者が納得できる検証を取っていない、主張に対する分析を行っていない、こうした点で同じ。
安保反対、この主張は良しとしましょう、しかしこれはいつの間にか、日米安全保障条約反対、という論理を超えて日本では、安全保障反対、という論理や、もう少し進んで安全保障とは何かを考えることさえ反対、無防備や為すがままに過ごすことを推奨するように論理が飛躍しているように思えるのですね、だからこそ議論まで進まず叫ぶだけとなる。
議論にさえ反対しているようにおもえる、この危険なところは安全保障のあり方を議論する土台さえ拒否しているために、政策に反映できない、また、政策と議論するという方式さえ拒絶している構図は、主権者として安全保障の論議を拒否し、結果論として与党の進める防衛政策や外交政策に、反対するだけで議論しないため、既定路線に影響が及ばない。
ウクライナの現状を考えたうえで、安全保障を拒否し、そして自分が主張する通りに動いた結果のウクライナが抵抗をやめてしまった状態での暗い未来が、日本で現実化した場合はどうなるのか、という視点まで踏み込んで考えるべきではないか、こう思うのです。それでは、ロシアが求めるウクライナの譲歩とはどういうものなのか、日本に当て嵌める。
選挙の結果をロシア政府が管理し、投票行動と投票箱は選挙結果とは別枠で行うことを受け入れる、ロシアがまずウクライナに求めたのは、選挙結果の議員と大統領はロシア政府が適任の人を就任させ、国民は選挙に行った、つまりロシアの意思はウクライナの意志、という状況を受け入れろ、ということです。それ以外の人間は逮捕か不審死か失踪する。
ウクライナの非武装化と、非ナチ化、特にロシア政府の主張は、ナチスの定義を示さず、むしろ今の欧米の民主主義こそナチズムだといわんばかりのドイツ脅威論さえ、2023年に入り挙げ始めました、譲歩すれば戦争は避けられた、しかし国民の権利を維持したうえでの戦争回避の方法はなかった、相手の意思次第で譲歩のしようはない、この現実をみるべきです。
北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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