物理と数学:老人のつぶやき

物理とか数学とかに関した、気ままな話題とか日常の生活で思ったことや感じたこと、自分がおもしろく思ったことを綴る。

角田光代さん

2015-06-20 10:58:53 | 日記
角田光代さんというのは当代きっての売れっ子作家である。

その角田さんと茂木健一郎と松岡修造さんとの鼎談が先日のスイッチ対談のときにあった。角田さんは最近は朝の9時から夕方の5時まで執筆活動をするというサラリーマンタイプの仕事のしかただというが、それでも多い時には週に12本の連載を抱えていたという。だが、それでもアイディアは泉のごとく湧き上がるというすばらしい作家である。

茂木さんと松岡さんが感心することしきりであったが、一方の角田さんは時を忘れて、熱中できるタイプの茂木さんとか松岡さんのタイプにある種の羨望の念も一方ではもたれているようであった。

そして角田さんは忙しければ忙しいなりにアイディアは湧いてくるのだというからすばらしい。私などは角田さんの爪の垢でも煎じて飲まねばなるまい。

規則正しい生活をすることでかえって余裕ができ、アイディアも生まれているのかもしれない。聞くに値する話であった。

ロヒンギャ族

2015-06-19 10:43:58 | 日記
ロヒンギャ族とはミャンマ―に住むある少数民族であるが、その住んでいる国ミャンマーでも国民として認められていない。

移動も働くことも禁じられているというイスラム教を信じるある民族なのであるが、こんな悲惨な民族の話はあまり聞いたことがなかった。日本にも群馬県館林市にロヒンギャのかなりの数の人数が住んでいるという。

日本政府はなかなかこのロヒンギャの人たちを難民として認定しなくて、やはり移動の自由とか働く自由というか権利もない。

難民として認定することはできないのだろうか。ドイツなどは2万人とも3万人ともいうロヒンギャの人々を難民として認定しているという。

一般に日本はなかなか難民の受け入れをしない国として知られていて、ヨーロッパの国々からはもっと難民にやさしい国になることを以前から要請されているが、以前としてその姿勢は変わっていない。

タイでもインドネシアでもこのロヒンギャの人たちの受け入れに消極的であるという。しかし。最近は各国も重い腰を上げざるを得ない状況になってきているという。日本も難民政策のどこか悪いのか知らないが、政策を修正すべきときではなかろうか。

私の運転法

2015-06-18 11:54:59 | 日記
私は車の運転免許をとったのは55歳のことであるので、ほとんど20年になる。遠出はしないので普通に市中を走るくらいであり、ほとんどどこへでも出かける妻とはまったく異なった日常生活をしている。

それでも少しは車にのるので、気づいたことがある。遠く向こうの信号が赤のときには後ろの車がいらいらしないしない程度にゆっくり走る。特に夜間で後ろの車が来ていなければ、あまりアクセルを踏まない。つぎの交差点の信号が見えないときは対向車線に車が来ているかどうかできていなければ、つぎの交差点の信号は赤だから、ゆっくりと走る。対向車線の車が引きつづいて来るようであれば普通に走る。

そうするとエコだし、それに交差点の信号のところまで焦って行ってもそこで止まって待つのではせっかく出した速度を減速しなくてはならないので、エネルギーの無駄になるし、ゆっくりでも止まらずに行けば、省エネになるからである。

だが、適当につづく次の信号が緑になる間合いを測りながら、運転することは運転歴の長い人なら誰でもしていることであろう。

もっともみどりの信号ができるだけつづくように走ることはなかなか難しいこともある。交差点の信号が運の悪いことに赤、赤と連続することもある。その場合には忍耐、忍耐である。

車間距離をとって運転していることは当然だが、これが時間的にはかえって早く目的地に到達することにもなる。

そんなと思われる方もあるだろうが、これは最近の渋滞学の知見でもある。そのことをe-Learningの数学のコンテンツの問題に採用したこともあった。

アクセスの変化

2015-06-18 11:46:03 | 日記
ここ数日アクセスの変化が表れている。どういう変化というと普通にアクセスが多いのは最近書いた記事だったのが、そうではなくなり昔のブログのアクセスが増えているということである。

大抵、定期的に読んで下さっている方々は新しいブログをチェックする。しかし、テーマを探して私のブログまで到達した方はご自分の関心事についてアクセスしているのだから以前のブログを読むことになる。

そういう読者の変化が起きているのではないかと推測する。もちろんこれは推測であるから事実に反するかもしれない。しかし、なんでも推測してみることは楽しい。たとえそれが間違っているとしても。


母関数と二重級数

2015-06-17 16:02:04 | 日記
「母関数と二重級数」ということにいま関心がある。

インターネットで母関数またはgenerating functionについて検索したら、結構多くあった。もっとも普通に母関数とかgenerating functionについて組織的に学んだことはない。

量子力学を学ぶとその問題を解くときに散乱問題でも束縛問題でも特殊関数を用いた解となることが多くて、特殊関数と関係した母関数を学ぶ。ところがその母関数をどのようにして導いているのかをいままで気にしたことがなかった。

すぐにはそこに取り付けないしても、近いうちにぜひ特殊関数の母関数のつくる方を調べておきたい。実は私の『物理数学散歩』(国土社)でもこの「母関数の方法」というテーマでエッセイを書いたことがある。

だが、そのときの理解は通り一遍の理解であったことが十年以上経ってわかってきた。私の場合にはなんでもそうであって、時間がかかる。

十年ならまだいいほうで、理解には30年ももっと時間がかかるということも多い。

二重級数についても、数学者の安藤哲哉さん著書『理系数学サマリー』(数学書房)を読んだ後で、この二重級数のことが書いてある点はいいと評価したつもりだったが、この書を今朝からひっくりかえして何回も見ているが、この二重級数について書かれていないようである。

どうも私の記憶が間違っていたのか。謎である。

bon marche

2015-06-17 15:33:12 | 日記
なぜだかわからないが、bon marcheボン マルシェという語が思い出された。これはフランス語だがどういう意味だったか覚えていなかった。

それでいま辞書を引いてみたら、(a) bon marcheで「安い」という意味だとあった。高いというフランス語は一般にはcherシェ-ルという語が使わるが、その反対は普通にはmoin cherといってもいいのかもしれないが、そうは言わずにbon marcheというらしい。

ドイツ語では値段が高いことをteuerとかhochとかいう。安いを表す語はbilligという語はあるが、それを直接に使うことはあまりしない。preiswertプライスヴェアット(お買い得、直訳だと「値段に値した」)という語をつかうのが普通である。

「安かろう、悪かろう」ではあまり品がないと感じられるのであろうか。いま日本語でも紹介したが、安いではなく、「お買い得」という語もあるのだから、日本語でも同様である。

ちなみにmarcheは市場(いちば、しじょう)の意味である。

松岡修造と茂木健一郎

2015-06-17 11:25:53 | 日記
昨秋の土曜日のNHKの対談「達人たち」は表題の二人の対談でおもしろかった。

松岡修造は言わずと知れた有名な元テニス選手であり、茂木健一郎は脳科学者である。松岡のゾーンに入るという体験もおもしろかったし、茂木の年をとっても脳は進化することが最近の研究でわかったという話もよかった。

ゾーンについてはちょっと説明が必要である。これはスポーツなどで集中してうまく行っている状態だという。

あるとき、松岡はサンプラスとウィンブルドンでテニスの試合をしていた。そのときにうまくゾーンに入ってサンプラスに対してとても有利に試合を進めていたという。

そしてこのときサンプラスに勝てるのではないかと思ったという。そう意識することで実はうまく入っていたゾーンから出てしまい、サンプラスに敗れてしまったという。

もう一つ松岡が言っていたおもしろいことに「根拠のない自信をもて。またその後その自信を裏付けるような練習をせよ」というのがあった。やはりなんでも成功するにはまず自信をもつことが必要なのであろう。

こういう話は経験者でなければ語れない事柄である。だから、彼は常にテニスの練習でもプレヤーにわざとプレッシャーをかけてそれに打ち勝つように教えているということであった。

あまりこのNHKのスイッチ対談「達人たち」は見ないが、これはおもしろかった。

ドライアイス

2015-06-16 11:17:26 | 日記
先週の土曜日の朝日新聞にドライアイスの原料の炭酸ガスは石油精製工場などで出る純度の高い炭酸ガスを捨てずに利用するとあった。

ものを燃焼すると炭酸ガスは生じるが、それは炭酸ガス以外のものが含まれているので、それを利用することは難しいという。

炭酸ガスは零下80度で固体となるそうだが、一挙に-80度にするのは難しいので、炭酸ガスの液体を先ずつくるという。このときに圧力をかける。この液体を噴射して普通の圧力にしてやると雪状のドライアイスができるという。

それを固めた塊を私たちは見かける。これは食品の冷凍にもつかわれている。水をかけると煙が出るがこれは炭酸ガスそのものではないらしい。

Upright piano

2015-06-15 16:25:22 | 日記
今朝、仕事場に来る途中でFMのラジオをつけ聞いていたら、grand piano(グランドピアノ)とupright piano(竪型ピアノ)の話が出てきた。言葉としてuprightという語は聞き知っていたが、これが何を意味するのかは知らなかった。

先ほど、ようやく辞書を引いてuprightが「垂直な」という形容詞であることを知った。私はもちろんちょっと、難い語としてのverticalという語は知っていたが、uprightの方は辞書を引いたことなどなかった。

verticalに対して「水平の」をhorizontalというが、これをverticalと対にして覚えている。

ドイツ語ではhorizontalはwaagerechtといい、verticalに対してはsenkrechtという。ちなみに
die Waageははかりである。

ピアノの話に帰るが、グランド ピアノのことドイツ語ではder Fluegelといい、Fluegelはドイツ歌曲に「歌の翼に」Auf dem Fluegel des Gesangesとかいうのがあるから、一般には翼を意味する。ピアノには普通はdas Klavierという語が当てはまる。これは竪型のピアノの由である。

普通にピアノというとドイツ語のFluegelという語は思いつかず、私などはKlavierという語を思いつく。

オ―ストリアの家庭では家具としてのグランドピアノがある家も多いとか聞いたことがある。家具としてのピアノの場合には必ずしも調律をされていないことが多いとか。

もちろん楽器としてのピアノの場合には調律がされてないと楽器としての用をなさない。

ちなみにKlavierはクラヴィアとvが濁って発音される。ドイツ語では普通はvはフと発音されるのだが、vがヴィと発音されるということは外国語から来た言葉なのであろうか。花びんを意味するVaseもファーゼとは発音せず、ヴァーゼである。辞書によれば、これらはどちらもフランス語由来だそうだ。

なさけない実感

2015-06-15 13:35:15 | 日記
この数週間ドイツ語のクラスに行くとどうも自分がなにも自分の言いたいことを表現できる力がないことを実感している。

わざと先生の R 氏は私たちに何かを言うように仕向けるのだが、どうも何も言えない自分がいる。情けないったらありゃしない。

こんな感覚はいままであまりもったことがなかった。どうも最近はそういうことばかりを感じている。

大体、私は口数の多い方ではないが、それでも少しは何かを話すこともいままでにはあった。だが、自分が考えたことをドイツ語でうまく表現できないということに気づいてしまった。

これはもちろん私の頭があまり上等ではないということもあるが、それだけなのであろうか。数週間後にはドイツ語の検定を受けるというのに。

言えないだけなら、まあ仕方がないが、それだけではなく聞くほうも問題である。先々週だったかMERSの話題が出たが、そのときにK夫人がこれは-s Kamelのもっているビールスによる病気だとか言われた。そのときに、このKamelがわからなかった。-e Kammelleなら知っているがなあなどと思った。この辺が母語でない、外国語として学んでいる言語の弱みである。

話が進んで行ってKamelが愛媛県にも1頭だけ砥部動物園にいるという話を聞いてようやくラクダのことだとわかった。ちなみにKammelleの方は愛媛県の県花であるツバキである。

8-2理論

2015-06-15 10:29:18 | 日記
いまドイツ語検定の勉強をしている。とはいうもののあまり熱心に勉強するという気が起こらない。

それでもR氏から借りた聞き取りテストのCDを聞いてみた。明瞭な音声だがその聞き取りテストを自分でやってみてほぼ半分くらいしかできない。

これはいわゆる8-2理論にひかかってしまったためである。2回のスピーチの後で設問が2回読み上げられる。そのときに8-2理論とは8割は正しいのだが、後の2割が間違っているというふうに設問は設定されているらしい。

そして100%わかっていないとやはりヤマ勘で80%の情報に引きずられてまんまと間違った解答を選んでしまうという訳である。

そういう箇所が2カ所かあった。もう一度聞き直したときにそれに気がついたが、すでに遅し。検定者の罠に落ち込んだという訳である。

中村静治さんという大部の『技術論論争史』を著された方があって、武谷三男の技術論の定義がまちがっているという主張の書である。もちろん、それだけではないのだが、大部なのでなかなか読みこなすという訳にはいかない。

本の最後の第17章は「意識的適用説の墓標」という題の章であり、いろいろ書いてある。ところがどうもありもしないとまでは言えないかもしれないが、かなり誇大に武谷の間違いとして書かれていることがどうも本当にそうなのか確かめて見なくてはと思わされるようなことが書かれている。ひょっとしたら、自分の本を売るためのかなりあくどい方法での記述ではないかとさえ思った。

もっともまじめに書かれたところもあるのであろう。だから、その80%が正しいことから、残りの20%も正しいとすると間違ってしまう。特に武谷が雑誌『思想』に書いた論文のことがちらっと出てきたので、その部分を武谷の著書をとりだして昨日読んでみたが、なかなか批判的に書かれてあって、問題があるとはとても思えなかった。

その論文は、スターリン批判前後の旧ソ連とか社会主義体制のことであったが、vernunftig(理性的)と思われる内容であり、中村静治さんの書いてあることがちょっと一方的な判断であると思われた。

しかし、そういうチェックをしてみない方ならば、中村さん主張が全面的に正しいと思われるのではないか。

たぶん、中村さんはスターリン以後の旧ソ連はもう社会主義ではないというお考えの持ち主なのではないかと拝察した。

私がまだ十分に判断を下してはいないが、伊藤康彦さんの書もそういう感じがある。「武谷は間違わない」などという考えを私はとらないけれども、それでも十分に吟味がされてみるとやはり全体的には武谷批判の書を書かれた内容がちょっと行き過ぎているのではないかと思っている。

それと人間全体の生き方としてとか武谷の主張にはなかなか私たちの真似ができないところがある。批判をする人はその一部だけをとりだして貶めた評価するのだが、それはその人の全体の評価としてはあまりいただけないのではないか。

ブックマルシェ

2015-06-13 13:18:07 | 日記
たまたま昨日ネットで松山の西一万町にある元和光幼稚園跡の施設でブックマルシェがあることを知った。

また今朝朝日新聞を見たら、その催しが今日明日の6月13日、14日の二日間だけ開かれるとあった。仕事場からさほど遠くはないので、歩いて行ってみることにした。

元、幼稚園の教室に古本が箱に詰められておいてある。結構多くの人が来て熱心に本を探している。ただ、本は床にそのまま置いてあったり、台の上においてあっても台が低いのと私は老眼なので、メガネがあってもなくても本のタイトルを読むのに苦労する。

『思想の科学』のバックナンバーを1冊400円で購入しただけで退散した。パン屋さんがお店を出しており、その方がドイツで3年間修業をしたとか言われていた。フライブルク、フランクフルト、ハンブルクだかにおられたという。

Bluehenというカフェのお店をやっている方であり、お店は高砂町だという。奥様がパンを焼く職人さんらしい。一度行ってみようか。

安定性は

2015-06-13 12:44:58 | 日記
安保法制の議論に関係して憲法審査会に呼ばれた憲法の専門家の、ある参考人が集団的自衛権を認めるということは日本国憲法の安定性を大いに欠くことになると発言したので、国会で大問題になっている。

しかし、安倍政権はそしらぬ様子である。自民公明で国会の多数派を占めているのだから、とどのつまりは数で押すことになろう。

この安定性ということで私にも苦い経験がある。これはもちろん憲法とも政治とも関係がないが。

あるときにある論文を国際会議に発表した。それは数値解析的なテーマであり、あるパラメータをとると計算誤差が小さくなってその数値計算法は有用で使えるという結論であった。

ところがそれと同じことをつぎの年の学生に研究としてやらせたら、どうも精度良くは求まらない。さては昨年の学生が私の意図をくんでそのようなデータをつくったのかと思ったが、そうではなくて記録に残っている、パラメータの値をいれて計算すると精度のいい計算値が得られる。しかし、そのパラメータの値を少し変えるとぐっと精度の悪い結果しか求まらない。

ということでいろいろやってみたのだが、前に得られた結論は結果に安定性がないということでさらなる発展にはつながらなかった。

それでも定年なるまえにこの課題の決着をつけておこうと思っていたが、数年は瞬く間に過ぎ去り、決着のつかないままに定年を迎えてしまい、私にとっては今もなお未解決の問題である。

言いたいのは結果が安定かどうかは論文を出せるかどうかにもかかわってくるという重要な条件だということである。前のときにはその事実を知らなかったので、論文として提出したのだが、安定でないということを知ったら、それは論文としての要件を欠く。

日本の国の将来を左右する大事なことがどうもあまり安定性の観点からも論議されてこなかったということである。

源氏物語と女性作家

2015-06-12 11:19:27 | 日記
作家の角田光代さんが源氏物語の新訳に着手していると瀬戸内寂聴さんのコラムで今朝の朝日新聞で読んだ。

私は生きているうちに現代語訳でいいから源氏物語を一度は通読してみたいと思っている。だが、日頃の関心事に追われてそんな暇はいまのところできていない。

寂聴さんにも源氏物語の訳があるようだが、それに6年の歳月をかけたという。また、寂聴さん以前では円地文子さんも訳をしている。妻が学生時代に買って持っている書に谷崎純一郎訳の源氏物語があるが、ちょっと開いてみたら、文語訳みたいで私にはこういう書は読めないと思い、さらに読むことは早々に諦めた。

その昔には与謝野晶子の訳もあるようだが、ますます読んでわからなくなるだろうと思う。そういう意味では角田光代さんの新訳はひょっとして私みたいなものが読んでもわかる訳になるのではと期待される。

調べて見ないと定かではないが、男性作家の丸谷才一さんも源氏物語の訳をされているのかもしれない。そうだとすると現代語訳は結構な数になる。

しかし、だれがそれらを読んでいるのだろうか。

起承転結

2015-06-11 11:16:23 | 日記
「起承転結」を意識してエッセイや論文を書きなさいとは普通には大学で学生の卒論指導をするときに言うような言葉である。

「オイディプス王」の悲劇はもう2500年も前のものであるが、この起承転結を端的にしめした演劇であるという。

いまNHKの「100分で名著」でこの書をとりあげている。そして物語の展開の構造としてこの「起承転結」構造をもった初めての演劇だという。

そして、このような構造をもったストーリも論文も現在では普通となった。もっとも私が書く文章をこの構造を気にして書くことはない。普通には書きたいように書く。

そういう意識をしないで書いたエッセイや、論文がこの構造をもっているかどうかは点検したことはない。

もともと「起承転結」という言葉自体は中国語から来たものであろう。だが、そういう構造はアジア人であろうとヨーロッパ人であろうと普遍的に普及しているのだろうか。

私は音楽には暗いが、交響曲などもこういう構造をしているのではなかったのかしら。