宮崎信行の国会傍聴記

政治ジャーナリスト宮崎信行、50代はドンドン書いていきます。

岡田vs小沢、“天命”の最終戦がスタート 新進党解党から13年

2010年10月11日 21時52分25秒 | 岡田克也、旅の途中

 民主党代表で総理の菅直人さんから、「小沢問題」の対応を100%委任された幹事長の岡田克也さんは12日の党役員会から話し合いをスタートします。「国会議員が検察審査会により強制起訴される(予定)」というのは日本憲政史上初めてのケースで、民主党に限らず、他党も含めた先例になりますので、ていねいに、国民が納得いく対応を求められます。また国会開会中ですので、他党の動きや、同日告示される衆院補選(北海道5区)の状況もみながらも、安定した判断をしなければなりません。岡田さんにしかできない芸当です。

 岡田さんは3度目の幹事長就任について、「これも天命なのかな」と述べました。やはりそうだったようです。

 岡田克也さんは小沢幹事長が陣頭指揮をとった1990年の第39回衆院選で初当選しました。二世議員でない岡田さんが自民党公認を得られたのは、山本幸雄・代議士(元自治大臣)の後継者だったからですが、経世会の竹下登元首相が早大商学部の後輩である、岡田卓也さんに息子を出すよう働きかけたともいわれています。そして、小沢一郎さんは岡田夫妻の媒酌人であり、そして岡田さんの“政治の父”です。そして、ともに羽田派(改革フォーラム21)結成、自民党離党、新生党結成と、濃すぎる1期生時代を経て、細川・羽田内閣では各党若手のまとめ役(いしずえ会事務局長)、新進党結党では、準備委員会の主要メンバーを務めました。

 しかし、1995年の党首選で、岡田さんが羽田孜陣営に加わり、小沢陣営によりフェアでない党首選に憤慨しました。そして、1997年の党首選では、鹿野道彦陣営に加わり、大健闘しましたが、あわや党首の座から転落しかけ肝を冷やした小沢一郎党首の結論は「新進党解党」でした。岡田克也さんと中田宏さんは最後までに対抗し、両院議員総会では「新進党と書いてくださった有権者に対する裏切りだ」と抵抗しました。実はこの姿を、今でも多くの公明党議員の目に焼き付いているようです。ここで小沢氏とたもとを分かち、「新党・国民の声」(鹿野さん、石井一さん、岡田さん)の救命ボートに乗り、先行離党していた太陽党(羽田孜さん、北澤俊美さん)と合流。細川護煕さんも加わり「民政党」を結党し、第2次民主党の政調会長代理になりました。

 歴史にもしたらは禁物ですが、1997年11月には山一証券自主廃業・北海道拓殖銀行破綻と金融不安が相次ぎました。またこの不況は、結果論ですがグラフを見ると、消費税を5%に引き上げたことが発端となっています。橋本内閣・自民党の処理は上手かったのですが、その8ヶ月後の参院選で自民党は地滑り的大惨敗します。ですから、12月に新進党を解党していなければ、新進党は政権に大きく近づけていたことになります。

 小沢一郎(氏)による新進党解党は歴史への大罪であり、失われた10年の発端だったことは間違いありません。

 1990年代、多くの日本国民はバブルは弾けたものの、給料は右肩上がりで上がり続けると信じていました。そして政治に対して無関心と侮蔑と「触らぬ神にたたり無し」との態度を決め込んでいました。しかし、欧米先進国と同様の政権交代可能な二大政党デモクラシーの導入が2009年まで遅れたことで、日本は一等国から転落し、国民には住宅ローン債務と残業だけが残りました。

 私たちは私たちを越えなければいけません。歴史を前に進めなければいけません。

 そのためには信賞必罰、判断ミスをした政治家を退場させなければなりません。

 これは民主党支持者に限らず、公明党(創価学会)のみなさんにも協力して頂きたい。
 小沢一郎は民・公(創)共通の敵です。

 公明党委員長だった亡き石田幸四郎さんと小沢一郎氏(新進党結党大会)  
[画像]新進党結党大会のフィナーレでの全議員登壇の風景、(左)政権交代ある二大政党デモクラシーを信じて新進党に参加した今は亡き石田幸四郎・旧公明党元委員長と小沢一郎氏、(右)故石田幸四郎さん、小沢一郎さん、旧公明党元書記長だった市川雄一さんのスリーショット(ともにNHK映像から拝借)

 小沢一郎氏の政治的影響力は急速に低下しています。そして、今やかつての“父”・小沢氏と同じく与党幹事長となった岡田克也の背中には、渡部恒三さん、江田五月さん、北澤俊美さんら「新進党被害者の会」に限らず、菅直人さん、枝野幸男さん、鉢呂吉雄さんら頼もしい限りの仲間がいます。そして、小沢氏はひとりぼっち。

 この論争の結論は一つです。小沢一郎氏はデモクラシーの敵であり、彼を歴史から退場させ、日本を前に進めなければいけません。

 さあ、みんな、小沢一郎(氏)を倒すために、勝ちどきをやろうじゃないか。

 エイエイオー! エイエイオー! エイエイオー! エイエイオー!

 闘いましょう!

 

岡田克也の背中を押して、歴史を前に進めましょう!!

当ブログは「岡田が決めたらどこまでも」まっすぐにひたむきに岡田克也(1953-)さんを追いかけていきます。

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「一歩前進」 北沢俊美防衛相が中国国防相と会談

2010年10月11日 20時16分31秒 | その他

[画像]北澤俊美防衛大臣と中国の梁光烈国防相、2010年10月11日、ベトナム・ハノイ(NHKニュース)

 菅改造内閣で再任され、政権交代後同一の省をただ一人連続して担当している防衛大臣の北澤俊美さんは、11日、ハノイの国際会議の合間に、中国国防相の梁光烈(りょう・こうれつ)さんと話し合いました。先月の尖閣諸島での中国漁船と海上保安庁巡視船の衝突事故の後、ASEMで総理の菅直人さんと温家宝国務院総理が廊下で会談しましたが、その後の安全保障閣僚の会談はこれが初めてとなりました。

 国会開会中ですが、北澤さんが鉢呂吉雄国対委員長に頼んで、野党各党の理解を得た上で実現した海外出張で、北澤さんは「一歩前進だ」と語りました。

 中華思想の華夷秩序のなかで、聖徳太子の時代から中国と適度な距離をとってきた日本と、中国に飲み込まれたり対抗したりしてきたベトナム。その違いは、日本と中国との間に日本海・東シナ海があったというたった一つの幸運によるものでしかない、と私は考えております。

 上海万博が今月末で閉幕しますが、延期されていた中国政府による日本人学生1000人招待も実現しそうです。大学の後期授業が始まっている団員も多いでしょうが、ぜひ、上海を訪れて、将来どの国で活躍するにしても、一生忘れ得ぬ思い出をつくってほしいと思います。

 聖徳太子が小野妹子に「国書」を持たせて以来、日本と中国は対等な関係にあります。正直言って、日中が常に平和な状態になるということは難しい。過去1000年以上、日中友好の礎は常に文化交流と人的交流でした。鑑真和上のような立派な人物はもう出てこないでしょうが、次の1000年のために、もっと隣人をよく知る努力が両国民に求められています。外交と言っても、まずは人です。今回は、最年長閣僚が迅速な判断、行動で、模範を示してくれました。

“日中連絡システム 整備を” NHKニュース


ベトナムを訪れている北澤防衛大臣は、中国の梁光烈国防相と会談し、さきの中国漁船による衝突事件を受けて、東シナ海など日本近海で中国側と不測の事態を招かないためにも、日中の防衛当局で即座に連絡を取り合うシステムを整備するよう求めました。

この中で北澤大臣は、尖閣諸島沖で起きた中国漁船による衝突事件ついて、「日本側の立場はすでに中国側に伝達済みであり、この場で議論するのは生産的ではない」と述べました。そのうえで、北澤大臣は「戦略的互恵関係の原点に立ち返り、今後は日中の防衛当局間で理解を深めていくことが重要だ」と述べました。これに対し、梁国防相は、中国漁船による衝突事件について、「両国関係を大局的に見て、適切に処理されたことをうれしく思う」と述べたうえで、「戦略的互恵関係を進めていくことが両国の国民にとっての利益になる。日中の防衛交流の発展に努力したい」と述べ、戦略的互恵関係の発展に向けて日中両国の防衛交流を促進させることを確認しました。そして、北澤大臣は、東シナ海など日本近海で中国側と不測の事態を招かないためにも、日中の防衛当局で即座に連絡を取り合うシステムを整備するよう求めました。一方、日中の防衛交流の一環として、今月15日から海上自衛隊の練習艦隊が中国の青島に寄港する予定でしたが、会談の中で梁国防相は、予定どおり実施することに慎重な姿勢を示しました。会談のあと、北澤大臣は記者団に対し、「会談ができたことは一歩前進だ。ただ、中国国内では、まだ関係改善に完全に前向きになっていない雰囲気がある。もう少し時間が必要かもしれないという印象を受けた」と述べました。


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