ニュースサイト宮崎信行の国会傍聴記

元日本経済新聞記者の政治ジャーナリスト宮崎信行が衆参両院と提出予定法案を網羅して書いています。業界内で圧倒的ナンバー1。

82歳最長老の草川昭三さんが菅総理を一喝

2010年10月25日 16時38分10秒 | 第176臨時国会(2010年10月)熟議
[写真]最長老国会議員で、公明党参院議員の草川昭三さん(公明党ホームページ)

【参院予算委員会 2010年10月25日(月)】

 民主党にとって敗色濃厚な補欠選挙の翌日に、NHK入りの集中審議を設定した民主党の参院国対幹部の政治センスには疑問を感じます。

 まあ、それはさておき、衆参あわせて現在最長老議員、82歳の公明党の草川昭三さんが質問に立ちました。私はてっきり久しぶりの登場かと国会議事録を調べたら、ことしの第174通常国会(150日間)では、参院予算委や国土交通委員会などで合計10回も質問に立っていました。バリバリ現役じゃん、失礼しました<(_ _)>

 草川さんは、秋の統一補欠選挙について、「民主党が敗れた原因は、政治家とカネの問題について、国民の厳しい目線があったから。菅さんは、民主党の政治とカネの問題に関して、率直に、非を認めた方が、政治家・菅直人としての成長があるんじゃないかな。総理に対して、こんな言い方は失礼だけどね」と最長老らしく質問をスタートしました。

 そして、「菅さんには、どうも反省をするという態度が見受けられない」とすると、菅総理は「謙虚でない、と言われればそういうところもあるのかな、と思いながら、反省を含めて(質問を)お聞きしておりました」と、これは菅直人さんにしては珍しい答弁。そして、55年体制の野党時代に社公民路線で協調したこともある草川さんに、「私も野党暮らしが長かったので、権力を持っている立場と権力を持っていない立場(の違い)は身を染みて感じております」と述べました。

 草川さんは、「40年前から、菅さんは市民運動で、私は労働運動でがんばってきました」と話しました。この発言にアレ?と思われる方も多いと思います。公明党の草川さんが労働運動とは、違和感があるでしょう。実は、草川さんは、1967年(昭和42年)の第31回衆院選の愛知6区に、今で言う「基幹労連」から日本社会党公認で出馬し、次点になりました。このとき、同じ選挙区で当選したのが、後に公明党委員長や新進党副党首を務めることになる故・石田幸四郎さんで、お互いにバーターの選挙協力をするために、草川さんは国替えし、無所属で第32回衆院選で当選しました。新進党結党前の公明党(Clean Government Party)では、統一会派「公明党・国民会議」のメンバーで、新進党解党後の公明党(New Komeito)では公明党入りし、国会対策委員長を務めました。草川さんは、創価学会員ではないと思われます。55年体制の野党時代は衆院予算委員会の常連で、政府委員(政府参考人)席に国税庁の幹部を控えさせ、自民党の閣僚のスキャンダルをコツコツと突くという実に野党らしい政治家でした。大臣の答弁に納得しないと、明るい声で「それでは国税(庁)に聞きましょう」と政府委員席を指さす草川さんに、自民党大臣はビビッたことでしょう。

 自公連立政権が10年続きましたが、非学会系の草川さんには、政務三役のイスは1度も回ってきませんでした。今年の終わりには衆参あわせて勤続32年になる草川さん。根っからの議会の子なんでしょうが、こういう傾聴に値する質疑をもっと参議院で聞きたいし、民主党政権が前に進むためのアドバイスを聞いてみたらいいのではないかと感じました。

 
[画像]同僚の岡田克也さんの意見に耳を傾ける草川昭三さん(黄丸)、1997年12月27日、新進党両院議員総会(テレ朝映像から拝借)

[関連エントリー]国会名物男、草川昭三さんが国政復帰 連立見直しの即戦力か?(2008年9月1日付)
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ありがとう羽田孜さん 千曲会総会で政界引退を表明

2010年10月25日 00時43分10秒 | 第46回衆院選(2012年12月)大惨敗

[画像]綏子夫人に促されて、千曲会総会で、政界引退表明の原稿を読む羽田孜さん=2010年10月24日、長野県(ANNニュースから)

【追記 2017年8月28日】

 羽田孜さんは、このページに書いてある記事の後、2012年11月16日の「近いうち解散」とともに、衆議院議員を引退されました。勲一等桐花大綬章を受けました。東京都内や長野県上田市の自宅などで、理学療法士などのリハビリで、脳こうそくからの回復などをはかってこられました。その後、けさ、平成29年2017年8月28日午前7時6分、老衰のため、自宅で亡くなりました。享年82。葬儀は9月8日(金)。

 私からご遺族に哀悼の意を表します。そのうえで、このページを見てくださる方に対して、私・宮崎信行から、羽田孜さんへのご関心に心より感謝します。

【追記おわり】


 ありがとうございました。

 羽田孜さんが「千曲会(ちくまかい)」の総会で、今期かぎりでの政界引退を表明しました。

 何度も書いていますが、私は早大1年生のとき、1992年の第16回参院選で、知己である長野選挙区の候補者(北澤俊美さん)の選挙運動を労務員として手伝ったのが選挙デビューです。このとき、遊説カーの助手席に「羽田大蔵大臣」が乗り込み、東信地方を「みなさんこんにちは羽田孜です。日ごろのごぶさた失礼します。北澤としみ君をよろしくお願いします」と一緒に遊説したのが、後に総理大臣になる政治家と会話をした初めての経験でした。

 私は、自民党学生部での活動を通して、政権交代可能なもう一つの自由主義政党が必要であることにすぐに気付きました。これは自民党本部というよりも、自民党東京都連に、何だか怪しげな取り巻きが多いことに不信感をいだいたのがきっかけでした。縁は不思議なもので、私が早大鵬志会の先輩から紹介され、都内で手伝っていた衆院選候補予定者も、当選した北澤議員も、みんな自民党経世会(竹下派)所属でした。大学1年生のころは、私は今よりも権力欲が強くて、「泣く子も黙る」と言われた与党最大派閥との縁を大事にしていたこともあるんですが、そのような奇妙な糸に引かれて、改革フォーラム21(自民党羽田派)旗揚げとなりました。そして、大学2年生の夏休みには、あの第40回衆院選があり、私のところの候補者は落選しましたが、「自立と共生」の新生党は再び与党となり、細川内閣・羽田内閣が誕生しました。

 そして、羽田内閣退陣の5日後、ホテル・ニューオータニ前にあった新生党本部。私の大学の授業で行けませんでしたが、新生党学生塾の会合にふらりと羽田前総理(党首)が顔を出してくれました。私たちは「次の総選挙(第41回衆院選)の後に、また総理大臣になる人が学生の会合にふらりと立ち寄ってくれるなんて日本は変わるんだね。良くなるんだね」と感想を述べました。甘かった。そして、それから15年間、野党暮らしが続きました。私が国政選挙やここぞというときの権力闘争に凄まじいまでの執念を持てるのは、この経験がすべてです。

 また、私が早稲田大学鵬志会幹事長の当時、大隈講堂で開いた講演会では、羽田さんの話を聞こうと千数百人もの聴衆が集まりました。このとき、実行委員長だった山下和成君、彼の支持政党は私とは違ったかも知れませんが、彼は今も日経新聞記者をしています。このとき、私は幹事長あいさつで「羽田孜さんは、近く発足する、新進党の初代党首にも名前が挙がっています」と壇上で話しましたが、これも、羽田さん、海部俊樹さんの両総理経験者と、民社党委員長だった米沢隆さんの三つ巴の中、小沢軍団の支持を受けた海部さんが党首になりました。つづく1995年の党首選は憲政史上に残る汚点となり、羽田さんは太陽党へと離党していきます。

 それから、私は第2次民主党を記者として取材するようになりました。総理経験者ながら羽田さんは幹事長になりました。2000年に、鳩山由紀夫代表、菅直人幹事長という体制になり、羽田さんは特別代表になりました。当時横浜支局に移っていた私は、「しまった。祭り上げられたな」と思いましたが、「それでも羽田さんの総理復帰を願おう」と考えました。しかし、やはり、羽田さんの再登板の可能性は厳しい状況となっていき、そのとき、「改革フォーラム21で最年少だった岡田克也さんに総理になってもらいたい」と思い、10年が経ちました。もちろん、政権交代可能な二大政党デモクラシーを日本に根付かせることが私の志であることに変わりはなく、岡田総理は副次的な願望です。

 人生のいろいろな節目に羽田孜という存在があったと思います。正直言って、「アレをアレして」が口癖の羽田さんの細かい政策に関し、「この人、分かっているのかな」と首をひねることもありましたが、それはどうでもいいのです。「政権交代可能な二大政党デモクラシーを日本に実現するんだ」という志が全くぶれず、そして、有言実行させたのは、まさに羽田孜です。志が全くぶれなかった人の中で、今も国会議員をしている人を強いて付け加えると、渡部恒三さんであり、石井一さんであり、北澤俊美さんであり、そして岡田克也さんです。

 羽田さんは昭和10年(1935年)生まれですから、私の父より1歳年下です。政界引退後も、かくしゃくとお元気でお過ごし頂きたいと存じます。また、私が言うのも口幅ったいのですが、奥さまの綏子さん。この方は素晴らしい。政治家の奥さんとしてこれほど素晴らしい方はいらっしゃらないと考えます。

 それと、野党暮らし15年で、公共事業を持ってこられなくなった羽田さんを、毎回立派な成績で国政に送り続けた千曲会のみなさんの功績は、我が国憲政史に銘記されるべきだ、と私は考えます。羽田さんや千曲会のみなさんが植えて育てた二大政党というリンゴの木をしっかりと手入れして後世に残していきたいものです。羽田孜(1935-)。

羽田元総理が引退表明 民主党は“世襲”認めず


 民主党最高顧問の羽田孜元総理大臣が、次の選挙には立候補せず、政界を引退する考えを正式に表明しました。

 民主党・羽田元総理大臣:「今期限りでの引退を表明致しました」
 羽田氏は1993年、政治改革をめぐって当選同期の小沢元代表らと自民党を離党し、政権交代のきっかけを作り、翌年の1994年には総理大臣に就任しました。しかし、在任わずか64日間で退陣し、自民党の政権復帰を許すことになりました。後継者について羽田氏は、参議院国対委員長を務める長男の雄一郎氏の名前を挙げていますが、民主党は去年の衆議院選挙でのマニフェストで世襲を認めない方針を示していて、今後、調整を急ぐことにしています。

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