時空を超えて Beyond Time and Space

人生の断片から Fragmentary Notes in My Life 
   桑原靖夫のブログ

ローマからパリへ; 芸術センターの移動

2012年08月09日 | 書棚の片隅から

Rome - Paris 1640, Transferts culturels et renaissance d'un centre artistique
Sous la direction de Marc Bayard
Collection d'histoire de l'art
ACADEMIE DE FRANCE A ROME-VILLA MEDiCIS
2010, pp588 
(cover)

  現代の世界で、芸術・美術の中心地(センター)はどこかと聞かれたら、皆さんはどこを思い浮かべるでしょう。。恐らく一つではなく、いくつかが目に浮かぶのではないでしょうか。今日、グローバル・シティと呼ばれる大都市、パリ、ロンドン、ローマ、ニューヨーク、東京、ベルリン、ワシントン、北京などは、それぞれに立派な博物館・美術館群を擁し、都市としても独自の文化的環境を形成・維持しています。

 しかし、17世紀前半までの長い間、イタリアのローマは、ほとんど独占的なアートセンターの地位を享受していました。世界の名だたる文人、芸術家たちは、イタリアの青い空を思い浮かべ、ローマを訪れることを生涯の願いとしていました。ローマは彼らにとって、大きな憧れの地だったのです。

文化は最重要な国家政策
 それとともに、諸国家の形成に伴って、自らの国に新たな文化センターを構築しようとの動きも高まっていました。とりわけ、絶対王政国家として発展の途上にあったブルボン朝フランスは、その中心都市パリをローマを凌ぐ「新たなローマ」に築き上げ、拡大しようと、歴代為政者は多大な努力を続けていました。この時代、政治と文化は切り離せない国家形成の重要な戦略的基軸でした。とりわけ、ルイ13世の下で絶大な権力を振るった宰相リシュリューは、フランス文化政策の強力な推進者だった。17世紀から18世紀にかけて、さまざまな政治・経済的浮沈はあったが、フランスは文化の交流・発展を国家戦略の前面に置き、その推進を図っていました。

  最初の推進者はルイ13世の下でのリシリュー枢機卿でしたが、彼の死後は美術に造詣が深く、その支援者であった重臣フランソワ・ノイェール(1589-1645)などが力を尽くしたが、晩年は不遇でした。その後、この政策はコルベールなどによって継承され、ローマにアカデミー・フランセーズを作るなどの事業が実施されました

宰相リシュリューの権力
 ここで、宰相リシュリューと芸術との関係に記しておく必要があります。このフランス王をもしのぐ権力者は、芸術を露骨に政治目的に使っていました。彼は軍事力と並び芸術文化の隆盛こそが、国家の威信を支えると考え、フランス絶対王政の基盤強化と国家的威信の拡大のため、ローマに匹敵し、さらにそれをしのぐ文化的基盤の形成が欠かせないと考えていました。これまでにもブログで断片的に記してきたフランスの目指した文化政策の方向は、ローマの古典的美術の流れを導入し、フランス風にさらに豪華・華麗のものとすることにありました。そして、その成果として、ローマを凌ぐフランス文化を築き挙げることが目標とされました。それが結果としてフランスの国威を高揚し、ヨーロッパ世界における中心的存在としてのフランスの威信と力を築き上げると考えていたのです。


推進者としてのリシュリュー 
 その政策達成のためには、今日では想像もしえないさまざまな手段がとられた。リシュリューはどの程度芸術を理解していたかという点については、ゴールドファーブなどの研究者は厳しい評価をしている。音楽、美術はよく分からなかったのではないかという。詩的センスも欠いていたとされる。しかし、こうした批判があったとしても、リシュリューはフランスの国家的栄光のために芸術を自らの権力でいかに活用するかに力を注いだ。彼は、詩は分からなくても演説は得意であり、文章にもたけていた。非凡な人物であったことは疑いない。

 その目的達成のためにリシュリューが描いた理想は、究極的にイタリアにおけるルネサンスおよび初期バロックの流れを汲むものをフランス、なかでもパリに導入・実現することであった。その第一段階として、イタリアの水準に追いつくことは、彼の文化政策の大きな目標となっていた。当時からローマとパリの間には、さまざまなアンビヴァレント(愛憎入り交じった)な関係があった。すでに記したように、多数のフランスの芸術家がローマを訪れ、修業し、その成果を具象化し、フランスへ還元してきた。

収奪的美術品の移転
 他方、フランス専制国家形成の具体化を急ぐあまり、イタリアの美術品の収奪、そしてパリへの強制移送ともいうべき行為も行われていました。これまで、あまり知られなかった事実もあります。そのひとつは大量の美術品ならびに宮殿などの造営材料である大理石を、イタリアからパリへ移送することでした。その量たるや、すさまじいものであったことが想像できます。

 当時、リシュリューは、著名な美術品や骨董品の商いを行っていた美術商ニコラ・ペイレスク(1580―1637)に、ローマからパリへの美術品の移送を依頼していた。ペイレスクが驚いたことは、リシュリューが金に糸目をつけず、とてつもない資金を注ぎ込み、骨董品などの美術品を入手しようとしていたことでした。リシュリューはイタリア各地に教皇の認可を得た多数の部下を送りこみ、手当たり次第に美術品などの買い付けを行いました。

 たとえば、1623年の例をみると、112体近い胸像、花瓶、立像などがローマから送り出されているが、その内訳はほとんどなにも記載されていません。とにかく、作品の質よりも量(数)を確保せよとの方針だったようです。目指す目的の実現のために、リシュリューがとった膨大な支出とあからさまな権力の行使に、ペイレスクは言葉を失っていました。

ガレー船による美術品移送 
 この年の移送には、なんと二艘のガレー船が使われています、船底には大理石などが積載され、その上に美術品が置かれました。ガレー船を漕ぐのは互いにつながれた奴隷でした。ガレー船は当時はほとんど帆船に取って代わられ時代遅れとなり、ほとんど使われなくなっていましたが、リシュリューは嵐など波風への対応という点では、ガレー船の方が操船が安定していると考えていた。

 ルイ13世の下で実行された
リシュリューの政策は、近代化の先駆といわれてきたが、実際には古代ローマの威信や勝利のイメージに支えられ、戦利品を積んで凱旋するローマの皇帝のような帝国的イメージに近いものだった。この時代錯誤的な、収奪的ともいえる買い付けと輸送もリシュリューにとっては、ローマ帝国盛時のイメージを呼び起こすものであったのだろう。これらの美術品や大理石は、建設中のパリのルーブル宮殿の装飾や、ポアトウのシャトー・リシュリューの造営のために使われました。芸術の都として世界に君臨するパリではあるが、その背景には植民地収奪のような、すさまじい美術品の移転があったのです。

 世界のアートセンターが、ローマからパリへと移転する歴史的な変動は、関連する画家や彫刻家たちにとっても、大きな関心事でした。とりわけプッサンのようなフランス出身の美術家たちにとっては、フランスに新たなパトロンをいかに獲得するかが大きな戦略目標となっていました。パトロンたちの好みや欲望、期待にいかに対応するか。パリのめぼしいパトロンを獲得しようとの画家たちの野望など、虚々実々の動きが進行し始めます。パリ招聘に先立って、リシュリューから作品を依頼されていたプッサンも、当初この動きに敏感に反応し、リシュリューの野望、名誉欲などを見通し、追従するなど、作品にさまざまな工夫をこらしていました。その後のプッサンのパリ訪問と顛末なども、新たな視点で見直すと、きわめて興味深い世界が見えてくるでしょう。

 



ガレー船のイメージ


本書はローマからパリへの芸術センターの移転の諸相をめぐるシンポジウムの報告書である。17世紀中頃をひとつのピークとする美術界の大きな潮流変化が新たな視角から論じられており、大変興味深い。

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